家の夜
四年ぶりの家で、サラの身体が最初に覚えていたのは、敷居の高さだった。目で測る前に左足が少し高く上がり、右の肋へ痛みが走る。
「段差は変えてない」
エルナが戸の内側で言う。サラは左足を下ろした。
「うん」
右足も入れる。
「ただいま」
エルナの返事は一呼吸遅れた。
「おかえり」
敷居を越えてから、家の匂いが来た。乾いた薪。油を塗った卓。空の粉箱へ染みついた麦粉。戦場のどこにもなかった匂いなのに、名前を思い出すまで時間がかかった。
マレクが後ろで戸を閉めようとすると、サラの肩が上がった。父の手が止まる。
「少し開けておくか」
「今だけ」
戸は掌一枚ぶん開いたままになった。エルナは昔の部屋へ先に立たなかった。
「上と、ここの長椅子。どっちを見る」
「上」
「嫌なら下へ戻そう」
サラは頷き、十段の階段へ左足を掛けた。子どものころは、両親に気づかれる音を避けて七段目だけ飛ばした。今は身体が大きくなり、右腕を使えず、父が後ろで倒れない距離を空けている。一段ごとに板が鳴った。
エルナが部屋の戸を押した。壁際の寝台、窓の横の小さな机。脚の一本にサラが刃物でつけた線があり、外套を掛ける木釘は今の肩よりずっと低い。埃もなく、物の位置も変わっていなかった。
寝台へ腰を下ろすと、足首が枠の外へ出た。
「短い」
マレクが言った。
「私が伸びた」
父はすぐ板を継ぐとは言わなかった。
「今夜は」
「斜めなら寝られる」
「右を下にしないよう、毛布を置く」
エルナが丸めた毛布を運ぶ。サラは机の引き出しを開けなかった。自分の部屋だった場所で、何に触れていいか分からない。
戦場から持ち帰った腰袋を机へ置く。脈針。地図の端。白い縄。自分の物はそれだけだった。
エルナは床へもう一枚、寝具を敷いた。
「観察する人が同じ部屋に、とセナが言った」
「お母さんが寝るの」
「交代する。先に私」
「父さんは」
階段の下からマレクの声がした。
「黒縄車の報告を書く。起きてる」
二人とも眠るつもりがない声だった。サラは枠から出る足を曲げ、右腕の固定帯を緩めず左を下にして横になった。
エルナは灯りを落としたが、戸は閉めない。階下の火が細い線になって床へ届く。サラは目を閉じた。
百五十人ぶんの寝息は、もう聞こえない。担架の布も擦れず、馬も鼻を鳴らさない。誰かが水の順を間違える音も、白い石が浮く気配もなかった。
静かな家で、サラの身体だけが次の合図を待っていた。右の肋が痛む。
一つ。階段の板が冷えて鳴る。二つ。風で戸が動く。
三つ。脈針へ左手を伸ばしかけ、止める。地脈は見なくていい。そう思うと、見ない間に誰かが白地へ入る気がした。
目を開ける。エルナの床は空だった。毛布だけが人の形に温かい。サラは起きた。
階段を下りると、卓に灯りが一つあった。エルナは担保台帳を開き、マレクは黒縄車の放棄報告を書いている。二人ともサラが来たことへ驚かなかった。
「熱は」
エルナが手の甲を出す。サラは額を寄せず、左の掌を重ねた。
「ないと思う」
「セナみたいには分からない」
「私も」
エルナは立って戸棚を開けた。一番奥に、小さな木の椀が伏せてある。縁が一か所欠け、底に花の焼印がある、サラが十二の冬まで使っていた椀だった。覚えていた形より小さい。母は取り出したまま卓へ置かなかった。
「救援へ持たせようと、私が倉へ持っていった」
エルナは椀を持ったまま言った。
「サラに聞いてないから、俺が治療布から出した」
マレクが言う。
「出発したあと、私が家へ持ち帰った。使わないまま、ここに置いた」
父は炭筆を置いた。
「今、使うか」
サラは椀を受け取った。欠けたところへ親指が入る。昔は熱い汁がこぼれるのが嫌で、そこを避けて口をつけた。
「温い水」
エルナが鍋から半分だけ注ぐ。
サラが卓へ座ると、両親も向かいに座った。話すことを決めた者はいない。サラは椀の花を見た。
「帰りたかった」
声にすると、戦場で考えていたより短かった。
「うん」
エルナが答える。
「ずっと帰りたかった。でも、帰ったら、役がなくなるのが怖かった」
マレクは続きを急がせなかった。
「棚では、呼ばれない時間があると、誰かを忘れてると思った。今も、静かだと、私が見てないところで何か起きてる気がする」
「何も起きてない、と言えばいいのか」
父が聞く。
サラは首を横へ振った。
「起きてるかもしれない」
「そうか」
父の返事はそれで終わった。エルナが台帳の端を揃える。
「部屋を変えなかった」
「見た」
「帰った時に違っていたら、あなたの場所を片づけたことになると思った」
母の爪が紙の角を何度も擦る。
「変えなかったら、戻る前のあなたを閉じ込めるとも思わなかった」
サラは短い寝台と木釘の高さ、開けられなかった引き出しを思い出した。
「明日、机の中を一緒に出して」
エルナが顔を上げる。
「捨てる?」
「見てから決める」
「分かった」
「寝台も測る。足が出る」
マレクの口がわずかに動いた。笑ったのか、謝ろうとしたのか分からない。
「長さは、お前が決めてくれ」
サラは椀を持ち上げた。温水はもう冷めかけている。
「父さん」
「うん」
「何か隠してる?」
マレクの目が黒縄車の報告へ落ちた。
「車のことじゃない」
サラが言う。エルナは夫を見た。マレクは報告書を閉じなかった。
「お前を送り出した夜」
言葉が一度止まる。
「召集状には、最初の冬は訓練だと書いてあった。帰還日は書いてなかった」
エルナの手が台帳から離れた。
「あなたは、ひと冬で帰ると言った」
「言った」
「読めなかったの」
「読んだ」
卓の灯りが揺れた。
「ひと冬で帰ると、俺が勝手に言った」
エルナは声を上げなかった。
「どうして」
マレクは答えを探し、紙の上へ手を置いた。
「本当のことを言えば、止めると思った」
「誰が」
「お前が。俺も」
「サラに聞けばよかった」
「聞いて、それでも行くと言われるのが怖かった」
マレクの指が炭で黒くなっている。
「俺が送り出したことにしておけば、帰る時期も俺が分かっている顔をできた」
エルナは夫を許すとも責め続けるとも言わなかった。卓の下で足を引いた音がして、サラは椀を置いた。
「私は行きたかった」
父が頷く。
「でも、ひと冬って聞いて、安心した」
もう一度、頷く。
「二度目の冬に、帰れないと分かってた。手紙には、もう少しって書いた」
エルナが目を閉じた。
「三度目も」
「うん」
「四度目は、手紙が来なかった」
「書けなかった」
虚無炉へ近づく軍路で、帰るという言葉を書けば、生きて戻れる気がしなかった。死ぬかもしれないとは書けなかった。その説明をサラは口にしない。母の知りたいことと、自分が言えることの間に、まだ道がない。
「ごめん」
サラが言う。エルナはすぐに受け取らなかった。
「今夜は、そこにいて」
それだけ言った。マレクが立ち、鍋を持った。
「足すか」
サラは欠けた椀を前へ出した。父は温水を縁ぎりぎりまで入れず、欠けた場所より下で止める。
三人で卓にいた。話が途切れるたび、サラは戸の隙間から入る夜気を感じた。マレクは閉めに行かず、エルナも寒いと言わない。椀が空になるまで、脈針は上の部屋に置かれたままだった。
階段へ戻る前に椀を洗うと、エルナが戸棚の奥を空けた。
「ここへ戻す?」
四年間伏せてあった場所だった。
サラは椀を入れかけ、手前の棚へ置いた。朝、誰かが水を飲む時に見える高さ。花の焼印を上へ向ける。
「ここがいい」
マレクは棚の幅を測らず、エルナも落ちると言って奥へ直さなかった。
上の部屋へ戻ると、短い寝台は短いままだった。サラは足を曲げ、母の寝具を床へ戻す。開いた戸の向こうに階下の灯りが残る。
次に目が覚めた時、家はまだ静かだった。今度は脈針へ手を伸ばさなかった。
*
翌朝八時、セナが家へ来た。右腕の固定を外さず指先の色と温度を見て、肋へ耳を当てる。歩いたあとに熱が上がっていないか、夜に何度起きたかを尋ね、サラは三度と答えた。
「遠い道へ出れば、呼吸が戻る前に次の黒岩を探すことになる」
セナは日数を言わなかった。
「左手だけの記録仕事は」
「一日中でなければ。七日後にもう一度、息を聞く。右腕を上げる仕事は止める」
「馬車は」
「短い道から。揺れた夜に眠れるかも見る」
サラは自分の脈針札を卓へ置いた。
「三週間、遠い道へ出ません」
エルナはもっと休めと言いかけた口を閉じ、マレクも三週間後なら行けるのかとは聞かなかった。サラは続ける。
「七日後から、中立野で行き先の記録を手伝う。白縄を救難に使う決まりも、アダルの札と私たちの失敗を合わせて書く。一日に半日だけ。息が悪くなったら帰る」
セナがその約束を紙へ写す。
「三週間後は」
父が聞いた。
「その日に決め直す。出る約束じゃない」
「分かった」
マレクは帳面を開かなかった。
「俺に必要な役は」
サラは父を見た。問い方がまだ硬い。
「黒縄車の報告を、トーマと貸主へ持っていって。私のためじゃなく、次に借りる人が何を失うか分かるように」
「それが終わったら」
エルナが担保台帳を夫の方へ押した。
「組合へ、これを一緒に持ってきて。私は今日、中立野へ戻る」
「食帳か」
「会計役へ渡す。明日の百六十食を、私一人の借りにしない方法を聞く」
エルナは店の印だけを自分で持ち、行き先ごとの綴りは組合へ預けた。家と冬仕入れの担保は消えない。それでも、翌日の鍋、薪、井戸番を一人で抱えて帰らなかった。
昼前、トーマが寝台を測りに来た。勝手に板を継がず、サラへ足を伸ばしてもらう。踵の先に拳一つぶん置き、古い木と同じ色へ塗らない新しい板を選んだ。
「継いだところ、見えるよ」
「見える方がいい」
サラが言う。新しい板は、古い寝台より明るかった。
*
七日後、サラは半日だけ中立野の机へ座った。白縄の決まりは三つの結び目にする。武器を置く。運ばれる者へ聞く。向こう側で待つ者を名で残す。
字を読めない者にも触れば分かるよう、三つの輪の間隔を変える。キリが最初の文を、走らず両側の関へ運んだ。
ラカが、半分のパン種から焼いた小さなパンを持ってきた。行き先はまだ保留にある。
「決めてない人も焼いていい?」
「受け取る人がいれば」
オナが鍋の横から手を出し、パンは二つに割れた。サラは半分を家へ持ち帰り、夜、三人で食べた。
寝台の新しい板は、暗がりでも色が違った。
部屋の引き出しは一段ずつ空にした。残す物をエルナが決めず、捨てる物をマレクが数えなかった。
三週間の間に、東へ戻った二十九人の道札と、黒縄車の弁償を終えた受領印が、別々の日に中立野へ届いた。
サラは二度、遠くで馬の音を聞いて立ち上がった。一度目は座り直し、二度目は戸まで行って、誰の馬かを見てから戻った。
三度目の音は、馬ではなかった。
*
第四十六日の早朝、戸が一度鳴った。サラは起きていた。三週間後の身体を、セナに見てもらう朝だった。
二度目の音がした。
マレクは立ちかけた。
サラが先に言う。
「待って。次も鳴ったら救難札」
三度目。
エルナが戸を開けた。
戸前には、白縄を持ったキリが一人で立っている。右肩の吊り帯は外れていた。
「北の硝子沢。橋の向こうで、白縄が一本見つかりました。生存者は未確認。昨夜、灯りが三度。今朝は返答なし」
サラは白縄を受け取らず、中立野の方角を指した。
「白縄の机へ戻って。イェル、セナ、トーマを呼んで。沢守には道と橋幅を聞く。生きている人の返事とセナの見立てが来るまで、行く人も車も決めない」
サラは右腕をゆっくり上げた。
肩の高さまでは届かない。痛みが出る前で止める。
「私はセナに息を聞いてもらってから、中立野で脈針の記録を受ける。現地へ出るかも、誰へ指揮を渡すかも、そのあと決める」
「俺に必要な役は」
三度目の戸音のあと、マレクは手綱へ触れず、サラの返事を待つ。




