第1話 スラムのボス
王城を中心に整備された大通りは、夕刻になれば魔力灯が一斉に明かりを灯す。磨かれた石畳を照らす光は商店の軒先を彩り、夜になっても人々が行き交うには十分な明るさを与えていた。
だが、その光が王都の隅々にまで届くわけではない。
城壁沿いにまで来れば、魔力灯の数は目に見えて減る。石畳はところどころで剥がれ、雨水と汚水が同じ溝を流れる。
建物は隣家の壁に寄りかかるようにして建てられ、道幅も狭く、二階部分を無理に増築した家々のせいで空さえ見上げることはできない。
王都レグナリアのスラム。
王城から馬車を走らせれば、それほど時間のかからない場所でありながら、そこには王都の華やかさとはまるで別の世界が広がっている。
そんな街の一角にある古びた倉庫で、二人の男が床に膝をついていた。
「ちょっとした冗談だったんですって。なあ?」
「そうなんです。俺たちだって、本気で爺さんから金を取ろうなんて思ってませんでした」
二十代半ばほどの男たちは、互いの顔を見ながら忙しなく頷いている。その正面には大きな木製の机があり、そこに一人の男が腰掛けていた。
リオン・バレル。
その男は二人の言い訳を聞きながら、何をするでもなく椅子の背に身体を預け、腕を組んでいた。
三十を少し越えたくらいの年齢で、体格は大柄というほどではない。ただ、着古した黒いシャツの上からでも分かる程度には身体が鍛えられ、薄いコートを羽織っている。短く切られた黒髪にも、整えて人に見せようという意識はあまり感じられなかった。
その隣には、さらに口数の少なそうな男が立っていた。
ブラッド・フィンリー。
リオンより頭一つ近く高く、肩幅も広い。厚い胸板と太い腕は服の上からでもはっきり分かり、ただ腕を組んで立っているだけで倉庫の狭さが増したように感じられるほどだった。
沈黙に耐えられなくなったのか、膝をついた男の一人が乾いた笑いを漏らした。
「ほら、俺たちってこの辺を守ったりしてるじゃないですか? だから、その……。店が儲かってるなら、少しくらい俺たちに」
「誰の許可を取った」
ブラッドの低い声が言葉を遮った。
倉庫の中に満ちていた生温い空気が、わずかに冷えたように感じられる。
「いや、ですから」
「誰の許可を取ったかと聞いたんだ」
ブラッドは腕を解くと、二人に向かってゆっくり歩き出した。大股で二歩も進めば、膝をついている男たちとの距離などほとんど残らない。
「誰の許可を取って、あの店の爺さんから金を巻き上げようとした?」
「巻き上げたって、そんな大袈裟な……」
男の胸倉を、ブラッドの太い指が掴んだ。
そのまま軽々と持ち上げられ、男の膝が床から離れる。もう一人が青ざめながら腰を引いたが、逃げられるような空気ではない。
「ブラッド」
リオンが小さい声で囁く。
それだけで、ブラッドの動きが止まった。
数秒ほど男を睨みつけたあと、掴んでいた服を放す。男は尻から床へ落ち、咳き込みながら乱れた襟元を押さえる。
「甘いですよ、ボス」
「暴力で全てが解決すりゃ、苦労はしねえんだよ」
リオンは面倒そうに返し、椅子から立ち上がった。
大きな声を出したわけではない。それでも床に座り込んでいた二人は、ブラッドに胸倉を掴まれたとき以上に身体を強張らせた。
それを見ながら、リオンは男たちの前まで歩いていく。
「お前ら、あの店から金を取ってどうするつもりだった?」
「そ、それは……」
「酒です」
隣の男が観念したように答えた。
「昨日、賭場でちょっと負けて、次の給金まで厳しくて……。それで、あの爺さんなら少しくらい持ってるだろうって」
「なるほどな」
理由を聞いても、リオンの表情は変わらなかった。
「で、断られたらうちの名前を出したわけか。『この辺で安全に商売できるのは誰のおかげだ』ってな」
二人とも何も答えなかった。
否定しないということは、店主から聞いた話に間違いはないらしい。
リオンはこの一帯を縄張りとする組織の頭だった。王国から認められた存在でもなければ、住民から選ばれたわけでもない。
それでも、この地区で揉め事が起こればたいてい彼のところへ話が持ち込まれ、彼の決定を無視して好き勝手に振る舞える者はほとんどいない。
二人はそれを利用して、一般人から金を巻き上げようとしたということだ。
「お前ら、何か勘違いしてねえか?」
リオンが小さく息を吐くと、それだけで二人は肩を震わせた。
「言っとくが、この街は俺らの持ちものじゃねえ。ここに住んでる連中も、店も、女も、ガキも、俺らの物じゃねえんだよ」
リオンが支配する地区にも規則はあるが、「人を殺すな」などという綺麗なものではない。喧嘩も起きれば、賭場も娼館もあり、表通りでは扱えない品を商う人間だっている。
そうしたものすべてを消せるとも、消すべきだとも思ってはいなかった。
ただ、それでも破ってはいけない規則がいくつかある。
男たちの顔から、わずかに残っていた愛想笑いが消えた。
「でもボス、俺たちは」
「まあ聞けよ」
声を荒らげたわけではない。
それでも男は口を閉じる。
「俺のところにいるなら、俺の決めたことに従え。地域の話じゃねえぞ? 組織の話だ。それが気に入らねえなら、いつ出ていっても構わねえ。別の組織に入るのも、王都から消えるのも好きにしろ」
誰かを組織に縛りつけたことは一度もない。抜けたというだけで後ろから刺すような真似も、少なくともリオンは許していない。
「次に同じことやったら、もううちの人間じゃねえとみなす。それがどういう意味か、わかってるな?」
最後の一言に、二人が揃って息を呑んだ。
リオンが何をしてこの場所に居座っているのか。
少なくとも組織の人間なら知らないはずがない。
「金は?」
「まだ、取ってません。爺さんが騒いだんで、そのまま……」
「なら明日の朝、二人で謝ってこい。店の壊した椅子も直せ。金はお前ら持ちだ」
二人が何度も頷く。
「それから暫く南側の夜回りだ。日が沈んでから朝までな。ブラッド、コイツ等に付ける奴を適当に決めておけ」
「俺じゃダメですか?」
「当たり前だろ。お前と一緒に夜回りしてたら、コイツら死んじまうよ」
ブラッドは僅かに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
リオンが顎で出口を示すと、二人は競うように立ち上がった。何度も頭を下げながら倉庫から出ていき、扉が閉じる。
ブラッドが鼻から短く息を吐いた。
「追い出した方が早かったと思いますけどね」
「初犯の未遂だ。次やったら容赦なく追い出せ」
「その前に俺が殴っても?」
「好きにしろ。ただ、殺すなよ。死体片付けるのは面倒だからな」
そう言いながら、リオンは窓の外に目を向けた。
時刻は夕刻を回ったところ。
開け放していた窓の外では、細い空を覆っていた雲が赤黒く染まり始めている。
今日片付けるべき仕事は、まだいくつか残っていた。
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倉庫を出ると、昼間に降った雨の臭いがまだ路地に残っていた。
雨水は古い石畳の窪みに溜まり、そこへ屋台から流された野菜屑や灰が浮かんでいる。湿った風が吹くたび、酒場から漏れる焼いた肉の匂いと、どこかの家で焚かれている粗悪な薪の煙が混ざりあう。
決して綺麗な街ではない。王都の人間がスラムと聞いて想像する通り、薄汚れている。だが、リオンはこの場所を嫌いではなかった。
「お、ボス。もう仕事終わりかい?」
道沿いで串焼きを売っていた初老の女が声を掛けてくる。
「だったらこんな時間に歩いてねえよ」
「相変わらず愛想がないねえ。そんなんじゃ女が近付いてこないよ」
「楽じゃねえか、そっちの方が」
言いながら銀貨を渡し、流れるように串焼きを一本受け取る。
「ったく……。まいどあり」
「ああ。長生きしろよ」
女は声を上げて笑い、嬉しそうに手を振った。
少し先では、木の棒を剣に見立てた子供たちが狭い道を走り回っていた。ぶつかりそうになった一人の襟首をブラッドが片手で掴み、進路を変えてから地面に下ろす。
「前見ろ。危ないぞ」
「ご、ごめん。ブラッド兄ちゃん」
「兄ちゃんはやめろ。いつも言ってるだろ」
「そうだっけ? そうだ! 稽古つけてくれよ、前みたいに!」
「いまはボスの警護中だ。また後でな」
背中を叩くと、子供はそのまま仲間のところへ走っていった。
リオンは横目でそれを見ていたが、特に何も言わなかった。
それでも、微かに鼻を鳴らして口元を緩める。
この辺りも、昔は日が落ちれば子供だけで外を歩くことなどできなかった。
酔っぱらいに絡まれる程度ならまだいい。人攫いに目をつけられれば、翌朝には王都から消えていることさえ珍しくない。むしろそれが当たり前だった。
それが、今では多少変わっている。
悪党が消えたわけではない。ただ、ここで好き勝手をすればどうなるかを知る者が増えただけだった。
「そういえば、南がまた揉めてるそうです」
歩きながら、ブラッドが唐突に言った。
「どこの話だ」
「こっちとの境じゃありません。もっと向こうです。小さい組織が二つ潰れたとか」
王都のスラムは一枚岩ではない。いくつもの組織がそれぞれの地区を押さえ、時には協力し、時には殺し合っている。
リオンの組織も、そのうちの一つに過ぎない。ここ数年で勢力を大きくしたとはいえ、スラム全域を支配しているわけではない。
「誰が潰した?」
「レックスのところらしいです」
そこで初めて、リオンが僅かに眉を動かした。
「あいつら、また広げてんのか」
「らしいですね。先月も一つ潰していました。連続してますね」
「物騒な連中だな。こっちに来る様子は?」
「今のところはありません」
「なら放っとけ」
「いいんですか?」
「勝手に潰し合ってんなら好きにさせろ。こっちに来る気配があったら知らせろ。対処する」
自分たちが関わる必要はない。
リオンにとって、その境界線は明確だった。守ると決めたものは守るが、何もかもを背負おうとはしない。
かつて、全てを守ろうと思っていた時期もあった。
今となっては、随分と昔の話になってしまったが。
二人はそのまま細い路地を抜け、組織の拠点へ向かった。
昔は商会が倉庫として使っていたという三階建ての石造りの建物で、外壁の半分ほどは黒く煤けている。一階には人の出入りが絶えず、仕事を求めて来る者もいれば、揉め事を持ち込む住民もいる。二階から上が組織の人間たちが使う場所になっていた。
入口にいた若い男がリオンの姿を確認すると、慌てた様子で近寄ってきた。
「ボス。客が来てます」
「客? 知らねえな」
今日、誰かと会う予定はなかったはずだ。
リオンがブラッドに視線を向けるが、彼も知らないらしい。
「誰だ」
「それが……。名前は言わなくて。ただ、ボスなら分かるって」
「追い返せよ、そんなあぶねえやつ」
「俺もそのつもりだったんですけど、女の方に脅されまして」
若い男は困ったように頭を掻いた。
「女?」
「はい。男と女の二人です。私達に手を出したら、ボスが許さないって……。び、ビビったわけじゃないですよ! ただ、妙に説得力があって」
その説明だけで、嫌な予感がした。
リオンは眉間を押さえながら階段へ向かう。
「どこに通した」
「二階の奥です」
「お前な……。素性も分からねえ奴を勝手に中まで入れんな」
「す、すいません!」
リオンは足を止めた。
自分の知り合いを名乗る女。それだけなら候補はいくらでもいるが、わざわざ二人連れでこの場所まで訪ねてくる人間となれば、話は違ってくる。
「……なんでここに来やがった」
「知り合いですか?」
「お前も知ってる奴らだろうよ」
「俺も行きます?」
「来い。もし俺の予想が当たってたら、面倒事だ」
狭い階段を上がっていく。
一番奥の扉まで来ると、リオンはノックもせずに開けた。
室内には、予想した通り二人の人間がいた。
一人は三十代前半ほどの女だった。長い茶髪を後ろでまとめ、旅装に近い目立たない衣服を身につけている。それでも背筋を真っ直ぐ伸ばした立ち姿や、こちらへ向けられた隙のない視線までは隠せていない。
セレスト・ティペット。
彼女の顔を見たのは別に久しぶりではない。今でも時折、人目につかない場所で顔を合わせている。近況を話すこともあれば、互いの耳に入った情報を交換することもあり、面倒事を相談されることもあった。
ただし、セレストの方からこの場所を訪ねてきたことはほとんどない。
「相変わらずノックもしないのね」
セレストは開口一番、呆れたように眉を寄せた。
「俺の部屋だぞ」
「今は客がいるでしょう?」
「頼んでもねえのに勝手に来た奴を客って呼ばねえんだよ」
「あなたの部下に案内されたのだけど」
「お前に脅されたって言ってたぞ」
「当然でしょ? 私達になにかあったらどうするの?」
「なら相談なしに来るんじゃねえよ」
いつもと変わらないやり取り。
だからこそ、リオンには余計に分からなかった。
普段なら会う場所は別にある。互いの立場を考えれば、王族の側近であるセレストがスラムの組織へ直接出入りするなど考えられないことだ。
それなのに、今日は向こうからここまで来ている。
となれば、問題はセレストではなく――その連れの方だった。
もう一人の男は、窓際に立っていた。
外套を羽織り、できるだけ目立たない格好をしている。しかし粗末な衣服を身につけたところで、育ちのよさまで隠せるものではない。背筋は自然に伸び、古びた部屋の窓から外を眺めているだけなのに、妙にその姿が様になっている。
何より特徴的なのは、薄暗い室内でも目立つ金色の髪だった。
男はこちらに振り返ると、見慣れた爽やかな笑みを浮かべた。
「やあ、リオン」
「やっぱりお前か」
リオンは眉間を押さえた。
彼の顔もまた、見ること自体は珍しくない。つい先日も別の場所で、酒を飲みながら王都で起きた厄介事について話したばかりだった。
問題は、なぜこの男がここにいるのかということだ。
「なんでここまで来てんだよ」
「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいだろう?」
「するだろうが。誰かにバレたらどうすんだ、めんどくせえ」
「酷いな。せっかく友人が会いに来たって言うのに。もっとおもてなしして欲しいんだけど」
「スラムにそんなルールはねえ。身ぐるみ剥いで、そこらに捨て置くのがスラム流だ。だから、さっさと帰れ」
「まだ来たばかりなんだけどな」
「来なかったことにしろ。それがお互いのためだ」
男は困ったように笑った。
それを見て、セレストが小さくため息をつく。
「だから言ったでしょう? 突然押しかければ、こうなるって」
「でも、今日はこっちで話した方がいいと思ったんだ」
それまでと変わらない柔らかな口調だったが、その言葉だけでリオンは僅かに目を細めた。
どうやら、本当にただ顔を見に来ただけではないらしい。
ブラッドは少し離れた場所で黙っていた。
彼も二人がリオンの古い知人であり、今でも時折会っていることくらいは知っている。それでも、この男が組織の本拠地へ直接現れたことは、初めてのことだ。
扉の前に立ち、周囲に気を張るのも無理もない。
王都レグナリアの最底辺とも呼ばれるスラム。その一角にある非合法組織の拠点まで、自ら足を運んできた金髪の男。
その名は、ギル・バックス。
アルヴェリア王国、第三王子だった。




