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矜持

「待て、マトージュ!」


 薄暗い室内に、ネイベルの声が反響する。


 慌てて虚空に魔力を放ってはみたものの、既に手遅れであった。


「くそっ! 逃がしたか」


 もし魔法で姿を消しているのなら、妖しい光で覆ってしまえば良いとネイベルは考えていた。それだけで、魔法は恐らく発動しないだろう。


 ただ、マトージュはどうやら、魔法とは違った能力か何かを行使できる様子であったので、効果があったかどうかは疑問が残る。


 それに、姿を消すだけで本人がそこに居るのか、そもそも移転してしまって本人はもうそこにいないのか、手段が分からなければ結果なぞ知る由もない。


 どちらにせよ、ネイベルがやれる事はもう残ってはいなかった。彼は地図にも印をつけることが出来ないのだ。追いかけることは、もうかなわない。





 

「今は大分落ち着いているわ」


 リンは暗い表情を見せながら、そう言った。


 カルーダは目を瞑っている。腹部のチェーンメイルには、鋭く貫かれた跡が残っていた。


 ネイベルの体だって、頬をはじめとして沢山の切り傷が残っている。二人が所持していた黒いナイフはもうどこにも見当たらない。マトージュが生み出して用意したものだったのかもしれない。


「ネイベル、あなたも傷の手当をするわ。横になって」


 リンに促されるように、カルーダの隣へと移動する。少し離れた床には、彼の血で出来た大きな染みが残されている。手当てをする際に少し動かしたようだ。


 ネイベルはボロボロになったシャツを脱ぐとそれを床に敷き、その上に寝転んだ。


 首を横に向けて隣を見る。


 ミネルヴァは、カルーダの顔を見つめながら彼の手を握り、静かに座っている。未だに心が揺れているのが見て分かる。瞳が時折、左右に細かく震えている。涙のあとも、くっきりと残っている。


 正面に向き直ってリンを見ると、ネイベルの体に残っている生々しい傷跡を見ながら、再び涙を流しそうな表情を浮かべていた。


 その顔を見るたびに、ネイベルの心は酷く握り潰されそうな痛みを感じるのだ。


 いつだってこうなってしまう。


 精一杯努力しているのに。


 やれる事はやっているはずなのに。


 これでもまだ足りないのか――。


 

 ――彼女達には、二度と辛い想いをさせない、と誓ったのに。



 冷たい風は吹き止まない。


 ネイベル達のいる部屋へと嘆き声を運びながら、青白い炎をもてあそぶ様にゆらゆらと揺らしていた。


 




 リンの回復魔法は素晴らしい効果を発揮し、ネイベルの切り傷はすぐに塞がった。しかし、頬に出来たものも含めて、傷跡を全て消し去ることは不可能だといわれた。


「あのナイフは、マトージュが作り出した物なの」


 やはりか、とネイベルは思った。


「所持した者の想いに比例して、鋭くなると言っていたわ。恨みでも、好意でも、何でも、だそうよ。想いの強さに比例して、消えない傷跡を残すのだ……と、確かにそう言っていたわ」


 なんとも酷い武器だとネイベルは思った。相手を傷つけたくないと、そう強く思えば思うほど、相手を傷つけてしまう武器なのだ。彼女たちがナイフを振るう度に、瞳から光が消えていったのは、そのせいだったのかもしれない。


 ネイベルには、他にも気になる事があった。


 自分でさえ、二人がかりの攻撃でもある程度は捌けたのだ。ならばカルーダほどの達人が、ミネルヴァの攻撃をそのまま食らうだろうか。


 しかも、彼女にチェーンメイルを貫くほどの力があったとは思えない。


 今も静かに眠っているカルーダを横目で見る。


 室内に残る炎と一緒に、ミネルヴァの瞳も揺れているままだ。儚く照らされた彼女の表情は、ネイベルの心を抉るようだった。


 すると、リンが何かを察したのか、ネイベルに語りかけてきた。


「カルーダはね、ミネルヴァに刺された時には、既に全身が麻痺していたのだと思うわ。呼吸すらままならない状態だったでしょうね」


 彼女の言葉は、ネイベルの頭を強く殴りつけるような威力があった。


「でも……少し辛そうに見えるくらいで、まさかそこまでの影響があった様には――」


 ネイベルが、カルーダの様子を思い出しながらそう言うと、リンは首を振りながら答えてくれた。


「精神が肉体を凌駕する、という言葉をミネルヴァから聞いた事があるわ。彼の矜持が、無様に倒れる事を許さなかったのでしょうね」


 

 ――なんて強さだろう。



 肉体の強さは、ネイベルのほうが既に勝っているだろう。そういう問題ではなかった。彼の覚悟や決意の強さ、心の強さに、ネイベルは打ちのめされていた。


 同時に、蜘蛛の瞳が赤く光っていたのを思い出した。あの時、マトージュは何かに期待をするような素振りを見せていた気がする。


 魔法はネイベルが吸収していた。そしてネイベルの魔法の効果を、驚きながらも見ていた所から考えると、恐らく効果もある程度は理解していたはずだ。ならば魔法ではない何か、それが彼の体を蝕んでいたという事だろうか。


 傷跡に暖かくリンの回復魔法が染みてくるようだ。だんだんとまぶたが重たくなってきた。


 風がますます騒がしくなってきている。


「ああ……リン、それにミネルヴァも……辛い想いをさせてごめんね――」


 おでこに、暖かい感触を残しながら――。





 ネイベルは視界が暗転した。ネイベルは意識を失った。






「――なのよ!」


「ええい、うるさい! お前ら――」


「いけません、姫様! そのもの達――」


「やめなさいよ! 大体――」



 ――風が騒が……いや、風ではない。人の声か?



「フン、最初からこうすれば良かったであろうが」


 

 ――荒々しい声がする。



 ネイベルは、意識が覚醒していくのを感じる。


 そして、ゆっくりと目を開いた。




少し短いですが、ここで一旦切ります。

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