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感情の坩堝

 マトージュがこちらへ腕を向けると、背後にいたリンとミネルヴァが、立ち上がってからこちらへと駆け出してきた。


 もともと目を開いていたのは確認していたので、恐らく口をきけない様にした上で、体の自由を奪っていたのだろう。


「んんんん!」


 リンが胸に飛び込んできた。モゴモゴと口を動かしながら、何かを伝えようとしている。


「んんーん!」


 横では、ミネルヴァがカルーダに飛び込んでいるのが見える。


「ひとまず、口がきけないだけで、無事みたいだね。良かったよ――」



 ――パチンッ



 ネイベルが安堵しながらリンを抱きしめようとすると、ひんやりとする感覚と共に、左腕に何かがはめられた様な感触があった。


「リン、これは……?」


 リンは泣きそうな瞳をこちらへと向けてくる。


 薄暗い室内で、青白い炎に照らされた腕輪は、見覚えのある模様を浮かび上がらせながら、不気味な銀色に輝いている。この模様は、ケト王国に古くから伝わるもの、とミネルヴァが言っていたはずだ。


「ううぐっ」


 突然うめき声がしたので、ネイベルは慌ててそちらの方を見た。


 すると、カルーダがゆっくりと膝を折り、床へ伏していくのが目に入った。それを見下ろしているミネルヴァは、ナイフを手に持ったまま微動だにしない。ナイフの先からは、血が滴り落ちている。


「んな! ど、どうして――」


 彼女は顔をぐしゃぐしゃにして涙を浮かべながら、カルーダの腹部から流れた血がどんどんと溢れていく様を見ていた。


 一陣の風が寒気を運んでくる。


 ネイベルは慌てて背後を振り返った。



 ――ヒュッ



 ネイベルの顔面めがけて、鋭くナイフが突き出されていた。


 咄嗟にかわすが、頬に鋭い熱を感じる。かなり深く切られた様だ。


 リンはその後も、止まる事なく鋭い攻撃を続けてくる。まるでネイベルの心が攻撃されている様な気分だ。


 マトージュは、ただ解放したのではなく、精密に行動を操っているに違いない。リンのナイフ捌きは、これほど熟練してはいなかった。


 彼女の顔にも、似合わないシワが深く刻まれている。瞳からも、涙が溢れそうだ。視界には、ミネルヴァがこちらへ駆けて来るのも映っている。


「くそっ」


 ネイベルは必死に頭を働かせた。


 二人のナイフを何とかかわし続けるが、カルーダの時とは違う。攻撃して意識を刈り取ろうとしても、どうしても気が引けてしまう。それに、そもそもこの二人には、物理的に攻撃を加えてもほとんど意味がない。


 これまで冷静を保っていたネイベルの心は、大きく乱れている。


 先ほどから何故か上手に魔法が発動できない。魔力を練った後に発動しようとすると、霧散してしまう感覚がある。リンにはめられた、この腕輪が原因の様な気がする。



 ――カルーダの命が、今も流れ出しているというのに!



 壁の穴から吹き込む風は、血生臭い香りを乗せて、ネイベルの頬を撫でる。そして、自身の切り傷からも、大量の血が流れているのを感じさせた。


 ネイベルは、仕方がないので棍棒を持ち、彼女達の手ごとナイフを吹き飛ばそうとするが、うまくいかなかった。何度弾いても、ナイフを手放す気配がない。無理やり握らされている様だ。


 腹の底から怒りが沸いてくる。


 ある程度は攻撃をかわせているが、魔法が発動しない以上、彼女達を止める術が全く思いつかない。


 二人は自らの意思に反して体が動いている様子だが、言葉を紡ぎ出せないことを除けば、首から上はどうやらそのまま動かせるようだった。


 だがそれは、恐らくマトージュが意図して行っているものだろう。


 ナイフを一振りする度に、その刃が彼女達自身を傷つけていき、そんな彼女達の崩れていく表情を見る度に、ネイベルの心もまた抉られていくようだった。






 いよいよネイベルの体には、彼女達のナイフによる傷跡が増えていった。身にまとっていた革のシャツも、肌着ごとボロボロになっている。


 マトージュに無理やり操られている二人の戦闘技術は、カルーダ級の達人と遜色ない程だった。それも、二人まとめて相手にしているのだ。込められた殺気がない分だけまだマシだと言えたが、それでも状況を覆すようなうまい手は思いつかなかった。


 どんどんと光が抜けていく彼女達の表情は、部屋の中の薄暗さも合わさって、ネイベルの心をますます動揺させている。


 視界に映る炎の揺れは、気色の悪い鳴き声を受けながら、まるでネイベルの心の内をあぶりだしているかの様だった。






 リンとミネルヴァの瞳からは、ついに大量の涙があふれ出し、頬をつらつらと伝い始めた。


 決して絶望に染まった表情など見せまいと、心の中で耐え続けていたであろう彼女達も、いよいよ感情の発露を抑えることが難しくなったに違いない。


 そんな二人の零れ落ちる涙を見たマトージュは、右手を大きく開き顔へとかぶせ、天を仰ぎながら小刻みに震えている。歓喜にうちのめされた様だった。


 やがて正面を向き、両手を大きく天に向かって広げると、仰々しくも大きな声で、ゆっくりと心の内を吐き出した。


「私は、今、大いに、感動している!」


 彼の狂気は止まる所を知らない。


「限界までこらえた感情が! 決壊する瞬間というのは! 複雑怪奇な色を放つのだ! ――大切な存在を自らの手で仕留めた気分はどうだ? 切りかかる度に積み重なる想いは? もっと、もっとだ! もっと私を満たしてくれ!」


 部屋へと流れ込む冷えた空気が、怒りに燃えるネイベルと、狂気に染まるマトージュを、決定的に際立たせていた。


 ネイベルは、彼女達のやり切れない想いを無心で受け止めつつも、思考を働かせながら捌いている。


 するとマトージュが、ぽつぽつと一人で語り出した。


「絶望と希望、喜びと悲しみ、怒り、憎しみ……感情の坩堝と化したこの部屋の中で、彼女たちが見せる表情というのは、生命の慟哭と言えないかね。そしてその波は、私の魂を激しく揺さぶるのだ」 



 ――私はね、その音を聴くのが、とても好きなんだ。



 ネイベルは吐き気がした。こいつだけは生かしておいてはいけない。



 ――絶対に許さない。



 体の自由を奪った上で、本人達が一番望まない行動を、無理やり取らせるなんて最低だ。尊厳そのものを、踏みにじる行為だ。


 それをあたかも芸術鑑賞でもしているかの様に、歓喜に打ち震えながら、あまつさえ楽しんでまでいるのだ。


 しかし同時にネイベルは、一抹の哀れみも理解してしまった。こいつは()()()()()()。やかんの秘密や、他にも何か知っている事がある様な口ぶりでもあった。


 つまり、リンやミネルヴァと同じ、悠久の時を生きる存在であるのだろう。



 ――マトージュは恐らく、嫉妬しているのだ。



 様々な感情を込めた想いが、涙となってあふれ出す瞬間を美しいと言っている。生命の慟哭を聴いて、魂が揺さぶられると言っている。


 長い時を生きてきた結果、感情が色あせ、大切なものをたくさん失ってきたのだろう。それらは、もう二度と手に入らないかもしれない。そういったものが目の前にある事への嫉妬が、偏執的な狂気となって現れているのではないだろうか。


 彼は恐らく、生命を感じたいのだ。



 ――ならば、自分のやるべき事は。



 ネイベルは、はっきりと理解した。やかんが妖しく光る。


 体内で練られた魔力が、腕輪へと注がれていくのを感じる。


 カチャ、という音と共に、左腕に付けられていた腕輪が外れる感触があった。


 金属質な音が、嘆き声の様な風の音と共鳴し、部屋の中に響き渡る。


「何だと!」


 マトージュが声をあげて驚く。


 ネイベルは、あふれ出す魔力をリンとミネルヴァに向かって解き放つべく、涙の止まらない二人の瞳を鋭く射抜いた。



 ――もう君たちは自由だ。



 二人はガクッと膝をつくと、肩で息をしながらも、興奮状態でネイベルに声をかける。


「ネイベル! ごめんなさい、私――」


「カ、カルーダ……私は何て事を……」


 ネイベルは、急いでリンにやるべき事を伝える。


「リン! カルーダの容態を診るんだ。急いで! もうかなりの時間が経っている。君だけが頼りだ!」


 そして茫然自失とし、絶望に打ちひしがれているミネルヴァにも、労わるように優しく語りかけた。


「ミネルヴァ、リンと一緒にカルーダのそばにいてくれないか。あいつの傍にはお前がいなきゃだめなんだ。あとの事は俺に任せてくれ」


 マトージュは、ひどくつまらなそうな顔をして、ネイベル達を見ている。


「はぁ……白けた」


 そして彼はそれだけ言い残すと、闇に消える様に姿を消していった。




ありがちでベタな展開だったかも。

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