第5章:寄生虫、最後の暴走
ガシャァァァンッ!!
耳を劈くような凄惨な破砕音が、長年平穏だった実家のリビングに響き渡った。
亡き夫との思い出の品である、アンティーク調のガラス製飾り棚。それが今、実の娘の手によって無惨に打ち砕かれた音だった。
「どうせあんたの物は全部私の物なんだから! 私がどうしようと勝手でしょ!!」
鉄のハンマーを振り回す梨乃の姿は、完全に常軌を逸していた。
目は血走り、髪を振り乱しながら、手当たり次第にリビングの家財を破壊していく。液晶テレビの画面がクモの巣状に割れ、お気に入りだった花瓶が粉々に砕け散った。
そのあまりの狂気に、玄関先に立っていた取り立て屋の男たちさえも顔を引きつらせた。
「……おい、こりゃヤバいぞ。警察沙汰に巻き込まれる前に退散だ」
彼らは厄介事を避けるように踵を返し、足早に去っていった。しかし、暴走状態の梨乃はそれすら気づいていない。
彼女の標的は完全に、自分を拒絶し「他人宣言」を突きつけた母親へと向いていたのだ。
「お母さんが悪いんだよ! 私を見捨てるから! これも全部お母さんのせいだからね!!」
私は、飛んできたガラスの破片が頬を掠めるのも意に介さず、ただ冷ややかにその光景を見つめていた。
かつては、この子が転んで膝を擦りむいただけで涙が出そうになった。熱を出せば夜通し看病し、少しでも幸せになってほしいと願い、自分の身を粉にしてパートで働いてきた。
けれど今、目の前で暴れ狂う女に、微塵も愛情を感じない。そこにあるのは、底知れぬ自己愛と被害者意識で丸々と太った、醜い「寄生虫」の姿だけだった。
私はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、迷うことなく「110番」をタップした。
「あ、警察ですか。はい。自宅で娘が暴れていて、家財を破壊しています。手が付けられません。至急お願いします」
通報する私の静かな声を聞きつけ、梨乃がピタリとハンマーを止めた。
その瞬間、彼女の歪んだ顔に、ゾッとするような狡猾な笑みが浮かんだ。
「……へえ。警察呼んだんだ。いいよ、呼べばいいじゃない」
梨乃はハンマーを床に放り投げ、突然、自らの衣服の襟元を勢いよく引き裂いた。さらに自分の腕を強くつねり上げ、人為的な赤い痣を作る。
「警察が来たら言ってやるわ。『母親が狂って、私を虐待して家を壊した』ってね! あんたがやったことにすれば、世間体最悪だね! 娘に暴力振るう毒親として、ご近所中から後ろ指さされて生きていきなよ!!」
どこまでも浅ましく、卑劣な発想。しかし、私は反論すら口にしなかった。
ただ、遠くから近づいてくるパトカーのサイレンの音を、氷のように冷たい気持ちで聞いていた。
数分後。
駆けつけた二名の警察官が、荒れ果てたリビングを見て絶句した。
その隙を見逃さず、梨乃は顔を両手で覆い、わざとらしい嘘泣きをしながら警察官にすがりついた。
「お、お巡りさん! 助けてください! この人狂ってるんです! 私を追い出そうとして、突然暴れ出して……私、殺されかけましたぁっ!」
悲劇のヒロインを完璧に演じ切る娘。警察官の一人が、厳しい視線を私に向けた。
「お母さん。これは、あなたがやったんですか? 事情を聞かせてもらえますか」
「狂っているのはその子です。私ではありません」
私は極めて冷静に答え、ポケットから再びスマートフォンを取り出した。そして、昨日から仕込んでおいたボイスレコーダーのアプリを開き、音量を最大にして再生ボタンを押す。
『私が離婚したのは、お母さんのせいだからね!』
『慰謝料代わりに、一生ここで養ってよね!』
昨日の、近所に響き渡るように叫んだ常軌を逸した暴言。
そしてそれに続き、つい数分前に録音したばかりの音声も再生される。
『こんな家……私を助けない家なんて、全部壊してやる! 金目のもの全部叩き壊して、売ってやるわよ!!』
『警察が来たら言ってやるわ。母親が狂って、私を虐待して家を壊したってね!』
静まり返る惨状のリビングに、梨乃自身のドス黒い声が高音質で鮮明に響き渡った。
梨乃の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いていく。
「な、ちが……違う、それは……!」
「お巡りさん。この録音の通り、家財を破壊したのは娘です。さらに、彼女は多額の借金を抱えており、私の実印や権利書を盗み出して勝手に担保にしようとしました」
私は、玄関先に散らばっている「ダミーの封筒」と「三文判」を指差した。
「これは立派な器物損壊、そして親族に対する脅迫と窃盗未遂です。被害届を出します。連れて行ってください」
決定的な物的証拠と、言い逃れのできない音声データ。
警察官たちの視線は、もはや哀れむようなものではなく、卑劣な犯罪者を警戒する冷酷なものへと変わっていた。
「……お母さんの言う通りですね。狂っているのは、あなたの方ですよ。署でたっぷり話を聞きましょうか」
「いやっ! 離して! 私のせいじゃない! 私は悪くない!! 全部お母さんが……!」
警察官に両腕を強く掴まれ、梨乃は無様に泣き叫んだ。しかし、もはや彼女の虚言に耳を貸す者は誰もいない。
手錠こそかけられなかったものの、半ば引きずられるようにして外へ連れ出される梨乃。パトカーに押し込まれる直前、彼女は振り返り、私を射殺すように睨みつけた。
その目は、親への逆恨みと憎悪に満ちた、不気味な光を宿していた。
しかし、私の心には微塵の恐怖も後悔も湧かなかった。
ただ、巨大な汚物を一つ捨て終えたような、清々しいほどの虚無感があるだけだった。




