第6章:愛を叫んだ娘の行き着く先
あの日、パトカーで連行されていった娘が、再びこの家の敷居を跨ぐことはなかった。
私は警察に被害届を提出し、並行して弁護士を通じて法的な退去命令と接近禁止の手続きを粛々と進めた。
感情に流されることなく、ただの「法的な処理」として娘との縁を切り離す作業は、思いのほかスムーズに進んだ。
念のため実家の鍵もすべて新しい防犯性の高いものへと交換し、物理的な繋がりも完全にシャットアウトした。
手続きの最中、一度だけ家の前に現れた梨乃は、閉ざされた門扉の外から真っ赤な顔で喚き散らしていた。
「あんなボロ家、こっちから願い下げよ! 私はもっと金持ちと再婚して、絶対にお前を見返してやるんだからね!!」
それが、私が直接聞いた娘の最後の言葉だった。
その滑稽な捨て台詞を聞いても、私の心は凪いだ海のように静まり返っていた。
憎しみも、悲しみも、呆れすら湧かない。ただ、「見知らぬ他人が外で騒いでいる」という事実があるだけだった。
それから、数ヶ月の月日が流れた。
季節は巡り、穏やかな秋の陽射しがリビングに差し込んでいる。
娘が破壊したアンティークの飾り棚はすでに処分し、空いたスペースには私が趣味で育て始めた観葉植物が青々とした葉を広げていた。
家の中にはトリュフオイルの嫌な匂いも、耳障りな愚痴も存在しない。
パートから帰り、自分のためだけにお茶を淹れてくつろぐ時間は、これまでの人生で最も贅沢で、平穏なひとときだった。
「そういえば、恵さん」
先日、庭先で水やりをしていると、近所の奥さんが声をかけてきた。
世間話のついでといった様子だったが、その目には微かな好奇心が混じっていた。
「駅の向こうの、大きな物流倉庫あるじゃない? うちの親戚があそこでパートしてるんだけど……この前、梨乃ちゃんを見かけたって言うのよ」
「……そうですか」
私は手元のジョウロを傾けたまま、短く相槌を打った。
「なんかね、化粧もせずにボロボロの服を着て、重い荷物を運ぶ日雇いの仕事をしてるらしくて。でね、休憩時間になると周りの人に『私は悲劇のヒロインだ』とか『いつか白馬の王子様が迎えに来て、こんな底辺の生活から救ってくれる』って、武勇伝みたいに語ってるらしいのよ。みんな気味悪がって、誰もあの子に近づかないみたいだけどね……」
近所の奥さんは、少し言いにくそうに、それでも「自業自得だ」というニュアンスを込めて教えてくれた。
かつて「肉体労働なんてあり得ない」と叫び、高級デリバリーばかりを食べていた女が、今や誰にも相手にされず、過酷な労働の合間に妄想を呟くだけの存在に成り果てている。
「教えていただいてありがとうございます。でも、もう私には関係のない方ですから」
私が静かに微笑んでそう返すと、奥さんも察したように「そうよね、あんなにひどい目に遭わされたんだから」と深く頷き、それ以上その話題に触れることはなかった。
コトリ、と。
淹れたてのダージリンティーのカップを、ローテーブルに置く。
ふわりと立ち上る芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私は窓の外を見た。
澄み切った青空に、白い雲がゆっくりと流れていく。
(明日は、新しいカーテンでも買いに行こうかしら)
ふと、そんな思いが頭をよぎる。
明るいイエローか、それとも落ち着いたグリーンがいいか。
リビングに差し込むあたたかな光の中で微笑む私の意識の中に、もう「吉田梨乃」という人間の存在は、1ミリたりとも残っていなかった。




