第4章:突然の訪問者と、母親の「他人宣言」
『ドンドンドンドンッ!』
薄い玄関のドアが、蝶番から外れんばかりの勢いで揺れていた。
すりガラス越しに見える二つの巨大なシルエットが、逃げ場のない現実として梨乃に迫る。
「吉田さーん! 居留守は通用しませんよ! こっちは元旦那さんから、あんたが慰謝料代わりに借金丸抱えしたって聞いてんだよ!」
元夫の借金。
その単語を聞いた瞬間、梨乃の喉がヒュッと鳴った。
確かに、離婚の際に「私が全額払ってやるからさっさと別れろ」と啖呵を切ったのは梨乃自身だ。しかし、それは実家に帰れば母親が泣きついて肩代わりしてくれるとタカを括っていたからであり、自分で返す気など一ミリもなかった。
「あ、開けませんから! 警察、呼びますよ!」
震える声で精一杯の虚勢を張る梨乃。しかし、外の男は鼻で笑った。
「呼べばいいじゃないですか。こっちは正当な債権回収に来てるんです。……それとも、ご近所さんに聞こえるように、もっと大きな声で事情を説明しましょうか?」
その言葉に、梨乃はハッとした。
昨日、自分が母親を脅すために使った「ご近所の目」という手口。それをそっくりそのまま突き返されたのだ。世間体を何よりも気にする実家で騒ぎを起こされれば、自分の居心地まで悪くなってしまう。
梨乃は震える手でチェーンをかけたまま、ドアをわずかに開けた。
「……な、なんですか。私、今お金なんて……」
「ないなら無いで、誠意を見せてもらわなきゃ困るんですよ。ほら、中に入れてくださいよ。お母様もいらっしゃるんでしょ?」
隙間から覗き込んできた蛇のような鋭い目に、梨乃は悲鳴を上げそうになった。
その時、梨乃の脳裏に一つの「閃き」が走った。
そうだ、私の手には今、実家の権利書と母親の実印がある。これさえ渡せば、こいつらは黙って帰るはずだ。
「ま、待って! いま、親の印鑑と家の権利書を持ってるから! これを担保にするから、ちょっと待ってて!」
梨乃はブランドバッグから、『重要書類』と書かれた分厚い茶封筒と、黒水牛の印鑑ケースを引っ張り出し、ドアの隙間から男たちに突き出した。
男の一人が怪訝な顔で封筒を受け取り、無造作にバリビリと破り開ける。
「……は? なんだこれ」
男の低い声が響いた。
梨乃は得意げに笑みを浮かべた。
「実家の権利書よ。うちの親、世間知らずでバカだから、私が全部管理してるの。連帯保証人でもなんでも親の名前で書くから、これで……」
「ふざけてんのか、てめえ」
男が地面に投げ捨てたもの。
それは、幾重にも折り畳まれた『近所のスーパーの特売チラシ』と、『三ヶ月前の古新聞の束』だった。
「え……? 嘘、だって、和箪笥の奥に……」
「お前の母親が、そんなチンケな紙切れで借金払ってくれるのか?」
パニックに陥る梨乃。印鑑ケースを開けると、そこに入っていたのは立派な黒水牛ではなく、百円ショップで売られているようなプラスチックの三文判だった。
「どういうこと……? お母さん、私のために用意してたんじゃないの……?」
「ええ、用意していたわ。あなたが盗み出すことを見越してね」
突然、背後から冷ややかな声が響いた。
梨乃が振り返ると、そこにはパートに行っているはずの恵が、腕を組んで立っていた。玄関の死角から、一部始終を静かに見届けていたのだ。
「お、お母さん!? なんで……仕事は!?」
「半休を取って帰ってきたのよ。そろそろ、あなたがボロを出す頃だと思って」
恵は梨乃の横をすり抜け、ドアのチェーンを外して玄関を全開にした。
驚く男たちに向かって、恵は深く一礼する。
「お騒がせして申し訳ありません。この家の所有者、吉田恵と申します」
「あ、どうも。お母様ですか。娘さんの件で……」
「お母さん! 早く! 早くこいつらに金払って! 私が殺されちゃう!」
梨乃が金切り声を上げ、恵の背中にしがみつこうとした。
しかし恵は、汚いものでも払いのけるように、梨乃の手をピシャリと叩き落とした。
「私は、一切の支払いを拒否します」
静まり返る玄関。
男たちも、そして梨乃も、恵の言葉の意味が理解できず呆然とした。
「な、なに言ってるの? 私、娘だよ!? 娘が見殺しにされてもいいの!?」
「ええ、構わないわ」
恵の瞳には、かつての優しい母親の面影は一切なく、ただ氷のような冷酷さだけが宿っていた。
「あなたは昨日、言ったわね。『私が自立できないのは親のせいだ』と。私がマンションを買ってあげなかったから、私があなたを勝手に産んだから、と」
「そ、そうよ! だから責任取って……!」
「なら、今日から『赤の他人』になりましょう」
恵は男たちに向き直り、毅然とした態度で宣言した。
「この人は二十八歳の成人です。私は彼女の連帯保証人にはなっておりませんし、今後一切、一円たりとも援助する気はありません。法的な支払い義務は私にはありませんよね?」
「……ええ、まあ。保証人でなければ、親御さんに請求する法的な権利は我々にはありません」
男たちは顔を見合わせ、肩をすくめた。
「じゃあ、我々は『ご本人』に用があるということで。ほら、行くぞ」
男たちが梨乃の腕を乱暴に掴む。
メッキが剥がれ、ただの無力な債務者へと転落した梨乃は、ついに狂乱した。
「ああああああっ! 離して! お母さんのバカ! 毒親! 私を捨てる気!? この家も財産も全部私のものなのに!!」
腕を振りほどき、土足のまま廊下へと駆け上がる梨乃。
その目は完全に血走り、理性を失っていた。彼女の視線が、廊下の隅に置かれていたDIY用の工具箱にロックオンされる。
「こんな家……私を助けない家なんて、全部壊してやる! 金目のもの全部叩き壊して、売ってやるわよ!!」
梨乃は工具箱から重たい鉄のハンマーを引き抜き、獣のような雄叫びを上げながら、恵が大切にしているリビングの飾り棚へと突進していった。




