第3章:寄生虫の主張「私が働かないのはお母さんのせい」
手にした督促状の束が、小刻みに震えていた。
私は大きく深呼吸をしてから、再びリビングへの扉を開けた。
「……梨乃。これ、どういうことなの?」
私はテーブルの上に転がるローストビーフ丼の空き箱を押し除け、数通の督促状をバサリと広げた。
スマホで動画を見て笑っていた梨乃は、並べられた封筒をチラリと一瞥すると、あからさまに舌打ちをした。
「ちょっと、勝手に人の郵便物見ないでよ。プライバシーの侵害で訴えるよ?」
「圧着ハガキは開いてないわよ! 表に『キャッシング』だの『督促』だの書いてあるじゃない。あなた、こんな借金……」
「あーもう、うるさいな!」
梨乃はスマホをソファに放り投げ、あぐらをかきながら私を睨みつけた。
「健太(元夫)の稼ぎが少なすぎたから、私がやりくりしてあげてただけでしょ!? 化粧品代とか、友達とのランチ代とか、最低限の生活水準を維持するための必要経費だったの。それをあいつは『浪費だ』なんてモラハラしてきてさ!」
「生活水準って……自分の身の丈に合わない生活を借金で維持していただけでしょう。とにかく、離婚したならこの借金はあなたが返すしかないのよ。明日から働きに出るか、それが嫌なら本気で再婚活でもしなさい」
私が努めて冷静に諭そうとした、その瞬間だった。
梨乃の顔が真っ赤になり、般若のような形相に変わった。
「働くぅ!? このボロボロに傷ついた私に、肉体労働しろっていうの!?」
「肉体労働に限らず、事務でもパートでもいいから……」
「そもそも!!」
梨乃は立ち上がり、私の言葉を遮って鼓膜を劈くような大声を上げた。
「私が離婚したのは、お母さんのせいだからね! お母さんが結婚祝いにタワマンの一つでも買ってくれてたら、家賃のことであいつと喧嘩になんてならなかったのよ!」
「な……タワマン? うちのどこにそんなお金があるの。私だってパートで必死に……」
「言い訳ばっかり! だいたいさ、私を産んだのはそっちでしょ? 私が『産んでくれ』って頼んだわけじゃない。勝手に産んだんだから、一生養うのは親としての当然の『人権』に対する義務でしょ! 慰謝料代わりに、一生ここで養ってよね!」
支離滅裂。
あまりの暴論に眩暈がした。自分が作った借金も、結婚生活の破綻も、すべてを親の責任にすり替える。これが、私が二十八年間育ててきた娘の正体だったのか。
「……もういい加減にして。そんな理屈、世間では通用しないわよ」
私が冷たく言い放つと、梨乃の目に狡猾な光が宿った。
彼女は突然、リビングの窓を勢いよく開け放ち、初夏の風が入る網戸の前に立った。住宅が密集するこの辺りでは、少しでも声を張り上げれば近所中に筒抜けになる。
「ひどいっ! お母さん、私が借金で苦しんでるのに、家から追い出す気!?」
突然のわざとらしい泣き声。
梨乃は、外の通りを歩くご近所さんたちに聞こえるように、悲痛な声を作り出した。
「お母さんが無理やり結婚させたのに! 離婚したら『金がないなら出ていけ』なんて……私、このままじゃ死んじゃうよぉっ!」
窓の外から、ヒソヒソという話し声や、立ち止まる気配が伝わってくる。
『毒親に虐待されている可哀想な娘』。それが今、梨乃が即興で作った脚本なのだろう。かつての私なら、近目を気にして慌てて窓を閉め、「わかった、私が払うから」と折れていたはずだ。
娘はそれを完璧に理解した上で、私をコントロールしようとしている。
「……」
私は一切の表情を消し、無言でエプロンのポケットに手を入れた。
そこから自分のスマートフォンを取り出し、画面を数回タップする。
『お母さんのせいで人生めちゃくちゃ! 慰謝料代わりに全額払ってよ!!』
窓に向かって喚き散らす娘の背中を冷ややかに見つめながら、私は静かに、ボイスレコーダーの『録音ボタン』を押した。
画面の中で、赤い時間が静かに、しかし確実に刻まれ始めていた。




