理由のない安心
日はすっかり傾いていた。
森の中は橙色の光に染まり、木々の影が長く地面に伸びている。
その足元に広がる薬草を、リリィは最後にひとつ摘み取り、そっと袋へと収めた。
「シルフィさん、集まりました。ありがとうございます」
振り返って声をかける。
木陰では、シルフィが幹に背を預けていた。
気だるげに目を細めたまま、大きくあくびをひとつ。
「やっとかぁ……」
間延びした声が返る。
「君、いつもこんなことしてるの? 大変だね」
どこか他人事のような口調だった。
リリィは少しだけ視線を逸らし、照れくさそうに笑う。
「そんな……」
「別に褒めてはないよ」
間髪入れずに返された言葉に、リリィの表情がすっと引いた。
「……そうですか。ほんとにシルフィさんは……」
呆れたように呟く。
声に棘はなく、ただ軽い疲れが滲んでいた。
シルフィは気にする様子もなく、ゆっくりと体を起こす。
「さっさと帰ろう」
ぐっと背筋を伸ばし、軽く肩を回す。
「少し動いただけで疲れちゃった」
本気とも冗談ともつかない調子でそう言って、先に歩き出した。
夕暮れの森の中、二人の影が並んで伸びていく。
夕暮れの森を抜けると、空はすでに群青へと沈みかけていた。
並んで歩く足音だけが、静かな帰り道に淡く響く。
ふと気づけば、シルフィはいつの間にかすぐ隣にいて、その距離にリリィは何も言えなかった。
そのまま二人は言葉少なに、灯りの漏れる家へと戻っていった。
扉を閉めると、外の冷えた空気が遮られ、室内にわずかな温もりが戻る。
リリィは慣れた手つきで台所に立ち、手早く晩ごはんの支度を始めた。
包丁の小気味よい音が、静かな部屋に一定のリズムを刻む。
シルフィは椅子に腰掛け、頬杖をつく。
そのまま、ぼんやりと――しかしどこか興味深そうに、リリィの背中を眺めていた。
視線に気づいたのか、リリィの手がわずかに止まる。
振り返ると、目が合った。
「なんですか…?」
頬にほんのりと赤みが差す。
「別に〜」
間延びした声で、シルフィは答える。
視線は逸らさない。
リリィは少しだけ困ったように眉を寄せ、それから小さく息をついた。
「……あの」
包丁を置き、控えめに切り出す。
「シルフィさんは、なんであんなに強いんですか…?さっきも、その……瞬間移動みたいなこと、してましたし…」
シルフィは一瞬だけ目を細め、それからあっさりと言った。
「あぁ、私は昔から足が速いんだ。」
それだけだった。
「昔さ、鬼ごっこで無双して。出禁になったんだよね」
あまりにも軽い調子。
リリィは言葉を失う。
口を開きかけて、そのまま止まった。
「いや…そういうことじゃなくてですね…」
ようやく絞り出す。
「じゃあ何?」
「もっとこう……魔法とか……そういう話です」
「もーーー、いいでしょ、そんなの。めんどくさいなぁ…」
即答だった。
「えっ」
思わず声が漏れる。
シルフィは肩をすくめる。
「それよりお腹空いた」
再び頬杖をつき、視線をリリィに戻す。
まるで、もう興味が尽きたかのように。
リリィはしばらくその場に立ち尽くっていたが、やがて小さく首を振り、再び調理に戻る。
包丁の音が、少しだけ不規則になる。
(……絶対、誤魔化してますよね)
そう思いながらも、これ以上追及する気にはなれなかった。
背中に感じる視線は、相変わらず消えないままだった。
リリィが料理を皿に盛り付ける頃には、部屋の中はすっかり夕食の匂いに満ちていた。
「できましたよ」
振り返ると――
すぐ後ろに、シルフィがいた。
「うわっ……!?」
思わず声が漏れる。
「近いです……」
「そう?」
シルフィは首を傾げるだけだった。
自覚はなさそうだった。
リリィは小さく息をつき、皿をテーブルへと運ぶ。
二人で向かい合って座る。
……はずだった。
「いただきまーす」
いつの間にか、シルフィは隣に座っていた。
「……あの、向かい空いてますけど」
「こっちの方が近いし」
「いや、近いです」
「そう?」
本当に分かっていない様子だった。
リリィは少しだけ肩の力を抜く。
(……なんなんでしょう、この人)
そう思いながらも、なぜか強くは言えなかった。
食事は静かに進む。
シルフィは特に感想も言わず、淡々と箸を動かしていたが――
「……おいしい」
ぽつりと呟く。
それだけだった。
リリィは一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ頬を緩めた。
食後。
リリィが皿を洗っていると、また気配が近づく。
振り返るより先に、すぐ背後にいるのが分かった。
「……また近いです」
「暇なんだよね」
後ろから、気の抜けた声が降ってくる。
「手伝う気はないんですか?」
「ない」
即答だった。
水音の中に、小さなため息が混ざる。
それでも――
不思議と、嫌ではなかった。
隣にいるわけでもないのに、距離だけがやけに近い。
けれど、その近さに落ち着いている自分がいることに、リリィは少しだけ戸惑っていた。
(……変なの)
皿を拭き終え、片付けを終える頃には、外はすっかり夜になっていた。
その後、簡単に身支度を済ませる。
リリィが本を開くと、少し遅れてシルフィも近くに来た。
わざわざ隣に座る。
「……読むんですか?」
「なんとなく」
そう言いながら、ページを覗き込む距離が近い。
肩が触れそうなほどだった。
「……見づらいです」
「じゃあもっと寄る?」
「離れてください」
少しだけ強めに言うと、シルフィは「はーい」と気の抜けた返事をした。
――が、結局ほとんど距離は変わっていなかった。
ページをめくる音だけが、静かな部屋に響く。
その隣で、シルフィは何もせず、ただそこにいる。
しばらくして、本を閉じる。
灯りを落とし、それぞれ寝る準備をする。
布団に入り、目を閉じる。
静かな夜。
少しだけ意識が浮かんだまま、リリィは考える。
(この人は……)
今日一日のことを思い返す。
森でのこと。
あの速さ。
そして――今も感じる、この妙な距離感。
(どうしてこんなに近いのに……)
胸の奥に、わずかな違和感。
けれど同時に――
不思議な安心感があった。
(……嫌じゃないんだろう)
理由は分からない。
分からないまま、意識がゆっくりと沈んでいく。
まるで――
最初から、そうであったかのように。




