念じれば届く
居候になった翌日、シルフィは惰眠を貪っていた。
「すぅ……ふぅ……」
規則正しい寝息が、静かな部屋に響く。
扉が開き、リリィが顔を覗かせた。
「シルフィさん! 起きてください! もう昼近くですよ?」
ベッドに近づき、その体を揺さぶる。
「あと4時間……」
間髪入れずに返ってきた。
「4時間!? せめて5分とか言い訳してくださいよ」
「別に私がいつ起きようが勝手でしょ……」
「もういいです」
リリィは小さく息をつき、そのまま部屋を出ていく。
扉が閉まり、静寂が落ちた。
「んっ……!」
シルフィは布団の中で、脚をピンと伸ばす。
「惰眠貪ったあとの脚ピン……気持ちえぇ〜……」
カタ、カタ、カタ――
時計の針の音だけが、静かな部屋に響いていた。
その間も、シルフィは微動だにせず眠り続ける。
どれほど時間が経ったのか。
ようやく、彼女はゆっくりと目を開けた。
「……ん」
気だるげに体を起こし、そのまま部屋を出る。
階段を降りると、薬草の香りがふわりと鼻をくすぐった。
店内では、リリィが調合に集中している。
「おはよう、薬師。」
声をかけると、リリィが顔を上げた。
「おはようございます。……そして私はリリィです。なんですかその呼び方」
リリィは小さく息をつきながらも、結局食事を用意していた。
「はい、朝ごはん……いや、もう昼過ぎですね」
簡素だが温かい料理が並べられる。
シルフィはそれを見て、わずかに目を細めた。
「ひゃー、私の好きな豆腐があるみたいだね。君は気が利くねぇ」
「“みたい”って……好きなんですか?」
「うん、なんとなく今そう思った」
適当だった。
シルフィは、出された食事を無言で貪っていた。
「うま……」
ぽつりと呟く。
リリィはシルフィを見ながら控えめに言う。
「シルフィさんっていつもこうなんですか?」
「いつもだよ。」
間髪入れずシルフィはそう言う。
「そうなんですね…」
なんとも言えない声色。
リリィはその様子を横目に見ながら、外出の準備を整える。
「私はこれから森に薬の素材を取りに行ってきます。」
そう言って、扉の方へ向かう。
シルフィは顔を上げる。口の中にはまだ食べ物が詰まったままだ。
「あぁ、また。何かあったら念じて。」
あまりにも軽い調子だった。
リリィは足を止め、振り返る。
「……念じる?」
「うん」
それ以上の説明はなかった。
リリィは少しだけ首を傾げたが、深くは考えず、そのまま外へ出ていった。
森の中は、ひんやりとした空気に包まれていた。
木々の隙間から差し込む光が、まだらに地面を照らしている。
足元には小さな草花が広がり、ところどころに薬草として使える植物が顔を覗かせていた。
リリィはしゃがみ込み、葉の形や色を確かめながら、丁寧にそれを摘み取っていく。
「……これは大丈夫」
小さく呟き、袋の中へ入れる。
慣れた手つきだった。
無駄な動きはなく、必要なものだけを確実に選び取っていく。
――いつも通りの作業。
けれど今日は、ほんの少しだけ違った。
「……はぁ」
思わず、ため息が漏れる。
(あの人、まだ寝てるんでしょうね……)
自然と頭に浮かぶのは、居候になったばかりの少女の姿だった。
昼過ぎまで寝て、起きたと思ったらご飯だけしっかり食べて。
そのまま見送りもしないで、だらだらと過ごしているに違いない。
(せめて……せめて食器くらい片付けてくれてもいいのに……)
リリィは手を動かしながら、ほんの少しだけ頬を膨らませる。
(いえ、でも……助けてもらったのは事実ですし……)
そう思い直し、軽く首を振る。
葉に付いた土を払いながら、次の薬草へと手を伸ばす。
(それにしても……)
ふと、動きが止まる。
(あの強さ、なんだったんでしょう……)
路地裏での出来事が脳裏に浮かぶ。
あの動き。あの速さ。
とても普通の人間とは思えなかった。
(でも……)
少し考えて、すぐに結論を放棄する。
(本人、何も言ってくれませんしね……)
「……聞いても、はぐらかされそうです」
小さく苦笑する。
森の中に、再び静けさが戻る。
こつ、こつと足音だけが響く。
リリィは立ち上がり、次の場所へと歩き出した。
その表情には、わずかな困惑と――
ほんの少しの、安心が混ざっていた。
――がさり。
不意に、茂みが揺れた。
リリィの手が止まる。
「……?」
耳を澄ます。
森の静けさの中に、明らかに異質な音。
低く、粘つくような息遣い。
「……っ」
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは――
緑色の皮膚をした、小柄な魔物。
濁った目が、こちらをじっと見ている。
「……ゴブリン……」
喉がひゅっと鳴る。
一歩、後ずさる。
だが、その動きに反応するように――
ゴブリンも、にやりと口を歪めて一歩踏み出した。
「……来ないで……」
声が震える。
足が動かない。
心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
(どうしよう……)
逃げなきゃいけないのに。
分かっているのに、体が言うことを聞かない。
じり、じりと距離が縮まる。
(……嫌……)
ゴブリンが腕を振り上げる。
その瞬間――
リリィは、ぎゅっと目を閉じた。
(シルフィさん……助けて……)
――次の瞬間。
空気が、裂けた。
「え――」
目を開けた時には、もう遅かった。
いや、正確には――
何もかもが、一瞬で終わっていた。
ゴブリンの姿は、そこにはなかった。
代わりに、地面が抉れ、周囲の草木が薙ぎ倒されている。
そして――
その中心に、一人の少女が立っていた。
淡い青の残光が、わずかにその軌跡を描いて消えていく。
「シルフィさん……!?」
リリィの声が震える。
あまりにも突然すぎて、理解が追いつかない。
シルフィは足元を見下ろしていた。
ぐしゃり、と。
何かを踏みつけるように、地面に足を押し付ける。
「君、ほんと災難だね」
興味なさそうに、ぽつりと呟く。
足を軽くどける。
そこには、もはや原型を留めていない何かがあった。
リリィは息を呑む。
「シルフィさん……!ありがとうございます……!昨日も、今日も……」
声がかすれる。
安堵と恐怖が入り混じったまま、言葉を絞り出す。
シルフィはちらりとだけリリィを見る。
「別に」
興味なさげに返す。
それから、少しだけ首を傾げた。
「ただ声がしたから。」
「え……?」
「ほら、言ったでしょ」
当然のように言う。
まるで、それが普通であるかのように。
リリィは言葉を失う。
(本当に……来た……?)
考えるほど、分からなくなる。
距離も、時間も、何もかもがおかしい。
けれど、目の前の現実だけは否定できない。
シルフィはそんな様子を気にするでもなく、軽く伸びをした。
「……さて」
「素材、取るんでしょ?」
何事もなかったかのように言う。
リリィは、しばらく呆然としていたが――
やがて、小さく頷いた。
「……は、はい……」
その声は、まだ少し震えていた。




