何事もなかった朝に
翌朝。
窓から差し込む柔らかな光が、静かに部屋を満たしていた。
シルフィはキッチンの椅子に腰掛け、湯気の立つカップを手にぼんやりと過ごしている。
一口、コーヒーを啜る。
「ねぇ、リリィ……豆、変えた?」
「はい。少しだけ焙煎の深いものにしてみました」
シルフィはもう一口飲み、短く息をつく。
「悪くない。前より好きかも」
その一言に、リリィの表情がわずかに緩んだ。
窓の外では、いつものように店が開き、人々が行き交っている。
――だが、どこか落ち着かない。
通りの端では、数人が足を止め、小声で話していた。
「昨夜騎士団が下水道の方へ行ったらしいぞ」
「うちの息子、朝から熱出してさ……変な病気じゃなきゃいいけど」
「馬鹿、余計なこと言うな。聞かれたら面倒だ」
声はすぐに途切れ、人々は何事もなかったように散っていく。
シルフィは窓の外を眺めたまま、カップを傾けた。
昨日の件は表向きには伏せられている。
負傷した騎士たちは夜のうちに運び出され、瘴気の塊も骸骨を討伐したことで消えた。
街は平静を装っている。
だが、隠しきれてはいない。
「……まあ、面倒ごとには変わりないか」
誰にともなく呟き、残りのコーヒーを飲み干す。
リリィが顔を上げた。
「結局、昨日は何があったんですか?」
「下水道の奥に、ローブ着た骸骨がいた」
「……はい?」
「鎌持ってて、倒しても再生するやつ」
数秒、沈黙。
「そんな大事な話を今みたいな雑談の温度で言わないでください!」
リリィが身を乗り出す。
「騎士団まで出てたんですよね!? 街の人も朝からずっと噂してますし!」
「してるね」
「してるね、じゃないです!」
シルフィは気だるそうに肩をすくめる。
「でも私はもう倒したし」
「いや…他にも…」
シルフィは少しだけ考えて、肩をすくめた。
「前も思ったけど、そういう話好きだよね」
「……気になりますから」
「まあ、いいけど」
軽く息を吐き、言葉を続けようとして――
ほんの一瞬だけ、視線が窓の外に向いた。
変わらない街並み。
変わらない日常。
――本当に?
シルフィは何も言わず、視線を戻した。
「じゃあ、どこから話そうか」
湯気の消えたカップが、静かにテーブルに置かれる。
その音だけが、やけに小さく響いた。
それからシルフィは一からリリィにあったことを説明していた。
そのとき。
――トントントン。
裏口の扉が叩かれる。
「シルフィさん……いますか?」
聞き覚えのある声だった。
リリィが扉を開ける。
立っていたのは、修道着姿のアウレリアだった。
「おはようございます……急にすみません」
「本物だ……」
リリィが呆然と呟く。
アウレリアはぎこちなく一礼する。
「初めまして。アウレリア・ルミナリアと申します」
「リリィです……」
「あなたがシルフィさんの居候先ですよね」
「はい」
「……大変ですね」
しみじみと言った。
「ねぇ。」
シルフィが口を挟む。
「私、いるんだけど」
二人の動きが止まる。
「三人しかいないのに、二人だけで話すのってどうなの?私…」
少しだけ間。
「……いや、なんでもない。」
シルフィはため息をつく。
「それで? 朝から何の用」
アウレリアの表情がすぐに引き締まる。
「昨日の骸骨について、新しく分かったことがあります」
アウレリアは一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「……まず、あの魔物についてですが」
「うん」
シルフィはコーヒーを飲みながら適当に返す。
「普通の魔物じゃありません」
「だろうね」
即答だった。
「瘴気を纏っていたし、倒しても再生したし。自然発生って感じじゃなかった」
アウレリアは小さく頷く。
「はい……私もそう思います」
少しだけ声が落ちる。
「本来、瘴気は“環境”のようなものです。場所に溜まることはあっても……ああいう形で“核”を持つことはありません」
シルフィはようやく視線を向けた。
「核?」
「はい。まるで……意図してまとめられているような」
一拍。
「誰かが“扱っている”みたいに」
その言葉に、部屋の空気がわずかに冷える。
リリィが小さく息を飲んだ。
「それって……つまり誰かが作ったってことですか?」
アウレリアは即答しなかった。
数秒の沈黙のあと、静かに首を振る。
「断定はできません」
「でも……」
視線がわずかに揺れる。
「自然では、ないと思います」
シルフィは頬杖をついたまま、ぼそりと言う。
「まぁ、そこまでは私も同じ考え」
カップを置く音。
「で?」
「それで、何がわかったの」
アウレリアは小さく息を吸った。
「……王国です」
一瞬、間が落ちる。
「この件について、何かを知っている可能性があります」
リリィが目を見開く。
「えっ……どうしてそう思うんですか?」
アウレリアは少し迷ってから続ける。
「……骸骨のいた下水道ですが」
「うん」
シルフィはコーヒーを飲みながら適当に返す。
「古い記録では、王国の管理区域だった可能性があります」
リリィが目を瞬かせる。
「可能性……ですか?」
アウレリアは頷く。
「正式な記録としては残っていません」
「ただ……構造や封鎖の仕方が、明らかに“普通の下水道ではない”んです」
シルフィの目が少し細くなる。
「隠してる感じ?」
「……そう見えます」
だがアウレリアはそこで言い切らない。
少しだけ間を置いて続ける。
「ただ、それが何を意味するのかまでは……わかりません」
沈黙。
外の街の音だけが聞こえる。
シルフィは短く息を吐いた。
「つまり、よくわからないけど怪しいってことね」
「はい……」
アウレリアは小さく頷く。
シルフィはカップを置いた。
「で、それでわざわざ来た理由は?」
一拍。
空気が少しだけ張る。
アウレリアはまっすぐシルフィを見る。
「……王都に行きませんか」
「そこでなら、この件の手がかりがあると思います」




