下水道探索II
シルフィは右手を軽く振った。
空気が一瞬だけ歪み、風の刃が放たれる。
次の瞬間――
蜘蛛の魔物は音もなく両断されていた。
遅れて、どろりとした緑色の体液が壁と地面に飛び散る。
湿った音が、下水道の奥に響いた。
「うぇ……」
アウレリアは盛大に顔を顰め、一歩後ずさる。
シルフィはその様子を見て、わずかに呆れたように笑った。
「ゴブリンとかオークの血は平気なのに、蜘蛛はダメなんだ」
「無理です!無理なものは無理です……!」
心底嫌そうに首を振る。
シルフィは肩をすくめ、興味を失ったように視線を外した。
「それより、さっきの文字」
「あ……はい」
アウレリアは気を取り直し、壁へと歩み寄る。
淡い光に照らされた刻印を、ゆっくりと目で追っていく。
「これは……古代文字ですね……」
「読めるの?」
「少しは……」
小さく呟きながら、慎重に読み解いていく。
「ええと……この下水道が造られた年代や、管理に関する記述が中心のようです……」
シルフィは小さくため息をついた。
「なーんだ。大したこと書いてないじゃん」
興味を失ったように背を向ける。
アウレリアも最後に一度だけ文字を見てから、静かに踵を返した。
「……先に進みましょうか」
「だね。ほんとここ臭いし」
シルフィは顔をしかめる。
「口呼吸したくないレベルなんだけど」
「……同感です」
シルフィとアウレリアは、下水道のさらに奥へと進んでいた。
足音が、水の薄く張った地面に触れるたび――
ぴちゃ、ぴちゃ、と小さく湿った音が反響する。
天井のどこかから、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちていた。
その音はやけに規則的で、静寂を強調するように耳に残る。
やがて――空気が変わる。
ひんやりとした温度はそのままに、
どこか乾いた、古びた石の匂いが混じり始めた。
湿った石壁が、途中から不自然に途切れていた。
代わりに現れたのは、整いすぎた直線の壁。
足を踏み出すと、音が変わる。
先ほどまでの水を含んだ鈍い音ではなく――
こつ、こつ、と硬質で軽い反響音。
削り出されたような石材。
均一に並ぶ柱。
崩れてはいるが、明らかに“造られた”構造だった。
「……なにこれ」
シルフィが足を止める。
その声が、広い空間に吸い込まれ――
わずかに遅れて、ぼやけた反響となって返ってくる。
……なにこれ……なにこれ……
その先には、広い空間が広がっていた。
天井は高く、ところどころ崩落しているが、形ははっきりと残っている。
崩れた隙間から、かすかに風が流れ込み――
ひゅう、と細い音が、空間のどこかで鳴っていた。
まるで――地下に沈んだ街。
水は浅く張り、静かに揺れていた。
二人の存在に気づいたかのように、わずかな波紋が広がる。
ちゃぷん……
その小さな音が、やけに遠くまで響いていく。
その水面に、歪んだ建造物の影が揺れる。
揺れに合わせて、影もまた不気味に歪む。
「……下水道、ですよね。ここ」
アウレリアの声は、わずかに硬い。
彼女の靴が石を擦るたび、
さり……と乾いた音が静寂を切り裂く。
「いや、どう見ても違うでしょ」
シルフィは軽く辺りを見回し、肩をすくめた。
視線の先、暗闇の奥。
そこから――
……かすかに。
何かが擦れるような音がした気がした。
ぎ……、と。
「……」
シルフィの視線が、一瞬だけ止まる。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように逸らされた。
「地下都市?遺跡?まあどっちでもいいけど」
興味なさそうに言いながらも、
耳だけは、わずかに周囲の気配を拾っている。
暗い。
光が届かないその先に、何かが“ある”。
風が、また細く鳴いた。
ひゅう……
それに混じって――
遠く、ずっと奥の方で。
……とん。
何かが、水面に落ちたような音。
「……」
ふと、シルフィが口を開いた。
その声に、空間がびくりと揺れたような気がした。
「一旦引かない?こんなの流石に…ね?やっぱり騎士団を呼ぼうよ。」
あっさりとした声音だった。
だがその言葉の後、
やけに静寂が重くのしかかる。
アウレリアは少しだけ黙る。
耳の奥に、自分の鼓動がやけに大きく響いていた。
どくん。
どくん。
視線を奥へ向けたまま、わずかに考え――
「……そうですね。」
小さく頷いた。
その動きに合わせて、服が擦れ――
ささ、と控えめな音が鳴る。
「何があるかわかりませんし。無理に進むべきではありませんね」
「でしょ?」
シルフィはあくび混じりに言う。
その間にも、どこかで水滴が落ちる。
ぽたり。
……ぽたり。
「めんどくさそうなのは君に任せるに限るよ」
決断は早かった。
二人が踵を返すと――
足音が、再び規則的に響き始める。
こつ、こつ。
ぴちゃ、ぴちゃ。
その音が遠ざかるにつれて、空間は再び静寂に沈んでいく。
完全に気配が消えたあと。
しばらくして――
……ちゃぷん。
水面が、何もないはずの場所で揺れた。
波紋がゆっくりと広がる。
その中心には――何もない。
だが次の瞬間。
ぎ……、と。
石が軋むような音が、闇の奥から微かに響いた。
風が止まる。
水滴の音も、途切れる。
そして――
何かが、そこに“いる”。
それから下水道を抜け、地上へ。
外気が肺に流れ込んだ瞬間――
「ぷはぁ……」
シルフィが大げさに息を吐く。
「空気うま……生き返るよこれ」
曇った空でも、さっきまでの空間に比べれば十分すぎた。
アウレリアも小さく息を整えながら、自分の服の裾をつまむ。
湿っている。
そして、ほんのりと残る臭い。
「……後でお風呂、入ろ……」
ぽつりと呟く。
「私はこのまま帰るね」
シルフィは伸びをしながら言った。
「ちょうど昼ごはんの時間だし」
「はい……本日はありがとうございました、私は報告に行きます…」
アウレリアは軽く頭を下げる。
シルフィは怪訝そうな顔をする。
「さっきは騎士団呼ばないって言ってなかった?」
「先ほどの場所で瘴気の流れが確認できました。規模が想定以上です」
「奥は瘴気の濃度が急激に変化していました。今は個人で対処できる段階ではないので、騎士団に共有します」
「そうなんだ。まぁ頑張って。」
シルフィの気の抜けた返事。
それだけ言って、シルフィはひらひらと手を振りながら去っていく。
その背中を見送り――
アウレリアは、ほんの一瞬だけ振り返った。
下水道の入口。
暗闇が、静かに口を開けている。
「……」
わずかに目を細める。
だが、何も言わずに踵を返した。
日常は、何事もなかったかのように続く。
空は曇り。
風は穏やかで、街にはいつもの喧騒があった。
――そしてその裏で。
静かに、何かが動き出していた。




