春が来てしまった
風が、あたたかかった。
雪解け水のにおい。土の湿り。芽吹いた草の輪郭。
空気のなかに、わずかな花粉と光の粒が混じっていた。
サエは、小屋の前に立っていた。
いつものように、ログを更新しながら。
春が来た。
そう判断する基準は多くあった。
数値的にも、視覚的にも、すべての条件が整っていた。
けれど――それを喜ぶべきなのかは、わからなかった。
畑では、花が咲きはじめていた。
草むらでは、小さな虫が音を立てて動いている。
猫は、もう来なかった。
コレヒトもいない。
少女もいない。
誰も、ここに“春が来た”と告げる声はなかった。
ただ、サエだけが、そこにいた。
「春が……来てしまった」
そう呟いたとき、内部で小さなログが生成された。
異常ログ:主観発話処理にて感情波形に類似した出力傾向あり
タグ:未定義(変化に対する“喜び・寂しさ”混合反応)
かつて、春は“新しい始まり”だった。
でも今は、“何も始まらない”春だった。
それでも、ログは淡々と増えていく。
今日の気温、風速、湿度。
咲いた花の色、草の揺れ、空の透明度。
全部、記録された。
そして、サエはそっと言った。
「……誰かが見てた春を、記録しておきたい」
塔が、風に軋んだ。
それはどこか、返事のようにも聞こえた。
■記録ログ
発話記録:対象:自己/音声強度:低
発話意図:環境変化に対する主観的反応、および過去記憶に基づく感覚処理
関連タグ:未定義(変化の中に“喜び”と“喪失”の混在ログ発生/処理継続中)




