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【ChapterⅠ】Section:2 書庫 (修)

人間の理想というものは、空想でしかない。世界をその目で見てみよ、弁論家どもを。奴らは理想を語るが、実際にやるのは自らの懐を満たすことか、現実的なことでしかない。生きとし生けるもので知恵を持つものは、すべてが嘘と悪で満たされているのだ。


—名前が失われたとあるアテネ人

 ステラが眠りについたのを基準として、時計の短針が二回動いた頃──正確には一時間五十七分十二秒──には、エレベーターは上昇するのをやめて、館の地上一階に収まっていた。

 揺れがなくなってことで、むしろエレベーターの揺れを前提として眠りについていたステラは違和感を覚えて、自然と目を覚ました。


 エレベーターの扉によって繋がれている部屋は、視認は問題なくできるが心なしか薄暗く、一見綺麗に見えるが細かく見ると所々に埃が溜まっており、まるでつい先ほど急いで掃除したかのような様相であった。

 アンジェリカはいくつもの高級そうな調度品を無視して扉の方に向かい、真鍮色のドアノブを回そうとする。しかし、ドアノブはそれを強く拒否し、回る様子がない。


「あら?」


 彼女は一瞬驚いたような表情を見せてから、思い出したように不変鋼の鍵を懐から取り出す。

 アンジェリカの反応から考えるに、この扉は両側に鍵穴があるという奇妙な構造であるらしい。考えられる用途としては、外部からの侵入者の対策は当然として、内部からの脱走者の対策としても用いられているのだろう。

 ──誰も居ないときに目覚めたのかもしらない、実在し得ない可能世界のステラのような。


 それほどこの部屋、あるいは集合論に基づいた地下の階梯を使っていないことまで理解した上で、微妙そうな顔をされるのに堪えたのか、アンジェリカは真顔のまま鍵穴に鍵を差し込み、捻ることで小さな音を奏でる。

 彼女らの視点で内側にドアノブを寄せると、壁ではない障害物によって扉の向こう側がふさがれている。

 材質的に、おそらく何かしらの家具なのだろう。明らかに倫理的に問題がありそうな地下室を隠蔽するために重い家具でその扉を隠してしまうという、古典的とも言える手法は却ってわかりにくくなっているのだろう。

 アンジェリカがそれに触れ、左側に手のひらを動かすと、障害物もそれに従って物理的におかしな挙動で左側へと滑るように動く。

 外側から見ると、その障害物は巨大な本棚であったことがわかる。彼女がその本棚を再び元の位置へと戻すのを見届けたところで、ステラの身体が廊下を進みだす。


 しばらく一定のリズムで訪れる振動に身を任せていると、視界の前後にいくつかの扉が見えるようになる。

 そのうちの一つを、アンジェリカは躊躇することもなく開けた。

 扉の先にあったのは、食堂だった。

 豪華な装飾が施された、巨大なオーク材のリフェクトリーテーブルが中央を占拠していて、共通したデザインの椅子が片側に三脚ずつの合計六脚が配置されていて、シンメトリーな空間を演出していた。

 しかしそれだけに留まらず、部屋のある面には風情をまるで無視したように剝き出しで調理場が置かれている。

 温故知新という古代中国に由来する言葉を体現するかのように、食堂とは打って変わって調理場は完全に現代仕様の、金属質で無機質な、最新鋭の調理器具が並ぶ硬い空気が充満している。


 そんな食堂には、既に三人分の料理と人影があった。

 ステラたちから見て、テーブルの対岸側、中央の席にある人影は、男性の形をしている。

 栞が挟まれた本を持ち、瞳を閉じている。本を読んで蓄積した目の疲労を解消しているのだろうか。


「やあ、待っていたよ。無事に目覚めたようで何より」


 閉じていた瞳を開き、本をテーブルに置いてから黄金色の視線をステラに向けながら彼はそう口にした。

 そして、それに返答するようにしてアンジェリカも口を開く。


「アートマン」


 ステラと同じ髪色を有するということは、おそらく自分の父親なのだろう。アンジェリカよりもずっとわかりやすく訴えかけてくる容姿だ。


「ああ、一応自己紹介しておいた方がいいかな。初めまして。君の父親のアートマン・ソロモン・アーノルトだ。気軽にパパと呼んでくれればいいよ」

「……パ、パ?」

「ふむ、君は僕の遺伝子が強い子のはずだから、性別の違いを除けば身体的特徴はほとんど同じはずだよ。君が僕の子であるという更なる証拠が欲しいのなら、今君が動かない表情筋の裏で考えていることをピタリと当てることもできるけども」

「い……らな、い。いらないよ、それは」


 少しずつ喋れば、だんだんと発声にも慣れてくる。

 たったそれだけのことで、彼女は幼児の身体でありながらも、流暢に喋ることができるようになる。

 アートマンは、それに対して何かを考えつつ、同時にステラを観察しているかのように、右目だけを瞑り、左目を緑色に光らせている。


「父親だとする証拠はいくつもあるけど、逆に父親じゃないと証明する証拠は乏しいから」

「おや、僕がなりすましだという証拠もいくつもあると思うけど?」

「明らかに私は普通じゃないから。普通なら使える判断材料も、真にも偽にもならなくなっているから、それだったら最多数の証拠がある方を取った方がいい」

「ははは、すまないね。ちょっとからかっただけだから、そこまで深く考えなくてもいいよ。だけどまぁ、そうやって頭を回す練習をして、頭を回す癖を着けさせておこうという意図がなかったというのも嘘になってしまうね」

「まぁまぁ、二人とも。そんな他人行儀はやめて、親子なんだから」

「──ああ、すまないね」

「ごめんなさい」


 二人の一切の反省が感じられない形式上だけの謝罪に呆れつつも、アンジェリカは本来の目的を彼に促した。


「それよりも──」

「それはもちろんだとも。改めて、ステラ、おはよう。君の目覚めを祝して、君の人生初めての食事をしようか」


 アートマンはジェスチャーで二人に席に着くよう指示し、アンジェリカはステラを席に座らせてから自身も席に座った。

 全員のメニューはほとんど一緒で、存在感があるが、かといって強調しすぎていない丁度よい香りを漂わせるライ麦粉のブレートヒェン、香辛料や調味料によって補助された肉の味を鼻に届けるような、細かく刻まれた玉ねぎとジャガイモのハーブ焼きが混じるポークシチューの二つだ。

 唯一違いがあるのは飲料で、アートマンとアンジェリカの大人にはワイングラスと、スペイン語のラベルが貼られた赤ワインのボトルがあるのに対し、ステラには現代のジンジャーエールが入った子供用サイズのカップがある。

 アートマンは、ステラが献立を確認し、匂いと見た目から情報上で何種類の素材が使われているのか──経験の問題から具体的な素材の名称は知らないが──割り出したらしいところを確認すると、ドイツにおける食事の前の言葉を発する。

 アンジェリカもそれに続いて自然と別の言葉を呟き、ステラも自然言語の構造を基にして、演繹的に分析すると、アンジェリカが呟いた言葉を自身も小さく呟く。


 食事が始まったはいいものの、ステラの進行はゆっくりとしている。

 何せ、彼女はフォークとスプーン、ナイフの使い方を知らないのだ。

 否、経験がないからわからないのだ。

 フォークで突き刺し、スプーンで掬い、ナイフで切り裂く。それぞれがどのような用途で用いられるか知っているし、持ち方も、動かし方も、すべて知っている。

 ただ一点、実際にそれを行なった経験だけがないのだ。

 手に馴染んでいないまま実践を続けていけば、何とかなるのではないか。

 そう思いながら彼女は、ナイフで豚肉を自身の口に安定して収まる大きさに切り、フォークで突き刺して口に含む。時折、スプーンでシチューのベシャメルソースを掬い、これも口に含む。

 何度も手を動かすうちに、経験を積んだことでだんだんと慣れていき、最初から諦めていたテーブルマナーを試してみる余裕さえできた。

 元々からある知識と、彼女の学習能力の賜物なのはもちろんだが、視覚情報の先に完璧な作法を見せる二人の人間がおり、それが具体的な手本となったのもあるだろう。具体的な筋肉の動かし方を知るのが身体機能を学ぶ上ではやはり最善の選択の一つ、ということだ。

 苦戦しつつも、何とか極上の味を報酬とした食事を終えたステラに、とある方角を指さしたアートマンが語り掛けた。


「さて、ステラ。君は何をしたいんだい?考えうる選択肢は用意してあげたから、その中から好きなだけ選ぶといい。もちろん、それ以外の思いついたものでも構わないよ」

「……?」


 彼は、認識が共通していることを前提にして、主語を飛ばしてステラにこう語った。

 その小前提を求めて、彼女はアートマンの指が指し示している方角に目をやる。

 そこには、スチールラックが載せられた台車があり、更にスチールラックのそれぞれの階にはシンプルなブックスタンドと、それに収められた厚い本が何冊もあった。

 すべての本の背文字を見る限り、どうやらそれらはすべてが何かしらの学問の専門書や参考書であって、著者はすべてがアートマンであった。

 本にはそれ以外の共通事項は存在せず、背文字から推測できる内容でさえ、文理双方に渡って規則性なく収められている。


「……これ、多分全部入っているんだよね?」

「その通りだとも、ステラ。そのときそのときの気分で文体を変えたり、情報の纏め方は変えてみたりしているんだけれど、それでも純粋な、人類の四千年以上の英知のほぼ全てがここに収まっている。流石に未来に発見されたものは含まれていないし、流石に物理的な制限があるから、本当にすべてを収めたとは言い難いんだけれどもね」

「大袈裟に聞こえるけど、過言ではない、ってことだよね」

「その通り」


 二人だけで完結している会話に割って入る暇がないと、アンジェリカは不満に思うが、しかし彼女がアートマンと対等なのは立場であって能力ではない。話についていけておらず、オーバーヒートしていることを責めるものは誰一人として実在し得ないだろう。

 元より、彼女はその存在の意義故に、対に劣るのは決定的なのだから。


 そうしてステラは、一つ一つに対して計算を巡らせていく。

 単純な感情論に基づいた、今興味があるもの。それに対する、未来への投資。あるいは一般常識的なものでも良いし、むしろ専門的な内容でも良い。

 ラックに近づき、実際に読んでみるために何とか椅子から立ち上がり、そちらに向かって歩み始める。


「ん……」


 本能や無意識を介さず意識的に行っている故に、ヒューマノイドロボットに歩行をさせるかの如き手法となっていることから難易度は圧倒的に上がっているが、それでもぎこちなく進んでいき、途中で学習と最適化を終えるとスムーズに歩き出した。

 そうやって近づいた本棚から、試しに適当な一冊を取り流し読みして見れば、それは明らかに素人が取り扱うような代物ではなかった。

 しかし、同時に違和感を強く覚える。

 すらすらと頭に入ってくるのだ。

 流し読みとは言っても、ステラは複数の知的能力を持っており、その中にはハイパーサイメシア──超記憶症候群の特性も含まれているために、一言一句、それぞれのアルファベットの差異やインク、紙の状態までをも記憶した上で、付属されている例題等を参考にして解読できるところを解読しながらではあるが、そのようなマルチタスクによる余りにも特殊な学習であることを前提にしても、やけに理解が素早く進行する。

 そのとき思いついた仮説を検証するために、今手に取っていた心理学の専門書をラックに戻し、他の──認識論についての専門書を流し読みしてみる。

 そうしてみると、何故理解が素早く進むのかの理由が判明し、仮説が正しかったことが明らかになった。


(ああ──ここにある本は、全部私が読むことを前提にしているんだ)

 だからこその、理解の速さ。

 明確に読ませる対象が居て、それに適しているように作られたオーダーメイド。

 著者の事を含めて考えると、これほどの内容のものをこれだけの数、自身のためだけにわざわざ執筆してくれたことに感謝しながら、流し読みで完璧に学習しながら本格的に学びたいと思うものを探していく。


 ……参考になる情報が零に等しいはずの状況で、何故これほどまでに正確にステラに完全に適しているものを執筆できたのか、何故自身をこれほど深く理解できているかの疑問については、蓋を閉じながら。

 特に心理学の本によれば、人間であるのならば誰しも詮索されたくない秘密を隠し持っているものらしいから。

 誘導されている可能性もあるが、しかしこんな中途半端な誘導を行う理由を考えても見つからない上に、普通に理にかなってはいるので、その線は除外し素直に受け取るのならば。

 そういったものに比べれば、無に等しいとはいえ、血縁関係を理由として、彼女の思考プロセスが明かされているのはまだ良い方なのだろう。


「ん──これは?」

「おや、”魔法“がどうかしたのかい?」

「あー──いや、これって学問として成立しているの?もっとこう、形而上学やら、神秘主義やら、量子力学やらとして……」

「──ああ、そういうことか。余りにも当たり前すぎて、盲点になってしまうのはどうしても防げない、か」

「なんか口振りからすると、何かが違うみたいだけど」

「ああ、大きく違うとも。これは、簡単に言うのならば、この世界の真理についての学問だよ」

「哲学とは違うの?」

「似ているようで、実際には全く異なる。むしろ、そういったものの背後に存在するものについてだとも。どちらかと言えば論理学や構造主義、あるいはポスト構造主義といったものに近い。更に正確に言うのならば、魔法がそれらに近いんじゃなくて、それらが魔法に近いんだけれど、まぁそこまではいいだろう。ともかく、それを利用した結果として、所謂オカルト的事象が人為的に起こされたのは間違いないのだけれどね」

「フーン」


 魔法。

 それは軽い説明を聞いただけでも、明らかに既存の学術体系──名称だけのものを含めて既に知識として持っていたもの──とは全く異なる方向性から展開されていることがよくわかった。

 洞察が合っているのならば、それは方法論そのものであり、ある種知性の基盤そのものについての研究なのだろう。それも、経験主義や合理主義はもちろん、認識論や現象学、論理学といった、人間の知性や思考の背後にあるものの、更に背後に存在するような。


「……それじゃあ、これ、はどうかな」

「問題ないとも。好きにするといいよ。──だけれど、その前に」

「うん?」

「君が想像しているよりも、魔法はずっと奥深い。もしかしたら、君の人生をすべて使いつぶしても、先人が切り開いた足跡を数歩までしか辿ることができないかもしれない。まぁ、君の能力から考えるに、現実にそんなことは絶対的にありえないから、あくまで比喩的表現ではあるけれどね。普通の人間からしたらそのように思えるものだという覚悟は持っておいた方がいい。脅しのようになってしまってすまないと思っているのだけれど、だがそれでも僕は聞こう。それでも、君は魔法を学ぶかい?」


 数瞬、ステラは深く考え込んだ。

 目覚めてからまだほとんど立っていない状態で、死ぬまでの自身の未来を今、この場で決めろと言われたのに等しいそれは。

だがしかし。同時に魔法を学ぼうとしなければ、何をやろうともただただ空虚な人生を送ることになるだろうという予言でもあって。

 観測が行われ、因果関係が発生するよりもずっと早く、すべてが停止した世界を体感するほどの速度で、とても永い時間考え込んだ。

 やがて、時間よりも、すべての無限よりも早く考え続けたことによる多大なる疲労を感じながら、彼女は結論を出した。


「うん」


 その言葉は短かった。

 しかし、長さに見合わない重さを持っていた。

 結局のところ、ある種の達観、傍観を行なっていながらも、ステラはどうしようもなく人間でもあった。

 未知という神秘、あるいは狂気を既知へと乏しめようとする、ヘーゲル的、あるいはサルトル的な進化に魅力を感じるような、好奇心や高揚感、達成感を求め、進み続ける科学者の姿勢を、彼女も持っているのだ。

 だから、退屈さが約束されている道ではなく、道中に退屈な箇所があったとしても、終着点がそうではない道を選んだのだ。


「よろしい。それじゃあ、更に詳しい内容の本は既に君が住むことになる部屋にある。部屋に案内しよう」

いくつかの学問は一般層には伏せられているが、千年以上前にはそれらの痕跡が既に確認されていた。意外なことに古代ギリシャなどで確認されているような哲学や心理学のようなものではなく、それに現代でも通用するか、それ以上にも及ぶ量子力学や高度な数学のような類のものの形跡が残されており、オーパーツよりも謎であるとして現在もそれらの内容の正確性や由来などが研究されている。

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