【ChapterⅠ】Section:1 無知の知
科学者──とりわけ物理学者は世界を、小宇宙を論理的に表そうとする。虚構の中で愚かにもがくその知性体は、いつ自身の影こそが現実の真理であることに気が付くのだろう。
二〇二八年七月七日。
羊水を再現した液の中に、一人の衣服を一切身にまとっていない少女が胎児のように丸まりながら浮かんでいた。
一般的に知られていない液体の中で浮かんでいるために、呼吸の補助のために人工呼吸器が取り付けられている彼女は、身体の大きさからは二歳児程度であるように考えられる。
しかし、実際のところ、白金のような髪を持つ彼女は三歳児であり、一歳分若いように見えるのは、生育環境の都合で肉体の成長が少々遅れているからであって、真に二歳児というわけではない。
強化ガラスを優に超える耐久性を備える透明な円柱の中に居る少女の瞼。
それが、ほんの少し、しかし間違いなく動いた。
やがて、少女は少しずつ目を開けていき、世界を知ることになる。
少女の、空よりも澄み、海よりも深い青色の瞳が世界を捉える。
俯瞰して世界を見ている。三次元を見下ろしている。高次元から三次元を見下ろしている。万華鏡として視覚化されたそれが映す一つ一つの光景は、それぞれの角度だった。
綾模様の地球が見える。数多もの膜に覆われた地球が見える。地球を覆う膜が数式と概念で出来ているのが見える。あるいは精神的に区分けされ、層状に積み重なっている地球のそれは、上の如く、下も然り。原理的には違いが見受けられず、膜の存在そのものが夢現になっている。
肉体に備わった一対の目ではない、第三の目がそのような光景を少女の脳に送り届ける。
そして、第三の目を閉じたとき。第三の目に塗りつぶされて見えていなかった彼女の肉眼の前には、自身を見守る妖艶な女性が居た。
妙齢の、若いその女性はゼニスブルーのワンピースを中心に据えた服装と、琥珀色の髪を纏い、かの聖母のような温かい眼差しを少女に向けていた。
しかしどうだろうか。今の彼女は少女が目を開いたことにひどく驚いており、その衝撃の大きさは、思わず落としてしまった、たった今まで嗜んでいたレモンティーと割れたカップに表れている。
それが、少女──ステラ・ブラフマン・W・アーノルトが人生で初めて見た光景であった。
やがて、女性は驚きが落ち着いたのか、顔を元の慈愛に溢れたものへと戻すと、落とした紅茶のことを気にせずに、鋼鉄の無骨な、鋭く冷たい椅子から立ち上がった。
女性はその状態で一度深く息を吸うと、培養槽に関わるのであろう機器に近寄り、操作を始めた。
しかし、女性がその場所に駆け寄った途端、少女を守っていた筒に亀裂が走った。
少女の周りを埋め尽くしていた溶液は勢いよく外界へ漏れ始めて、さながら滝のような様相を見せ、だが割れ目は少しずつ大きくなる。
美女は、自身の大事な愛娘を守るべく、ワンピースに液体が染み、自身の足が取られそうになっていることも気に留めずに少女に向かって駆け寄る。
端から端に、縦に割れ目が開き切ったと同時に円柱は完全に砕け、少女は液に逆らうことなく流されそうになる。
しかし、完全に外へと出る寸前。時折転びそうになりつつもなんとか辿り着いた美女が彼女を抱えることができた。
美女が採った生命懸け行動の末に、少女は無事に助け出された。
そして、少女の鼓膜が人生初めての音を受け取った。
「おはよう、ステラ」
「──ママ……?」
少女の初めての言葉が、ドイツ連邦共和国ベルリン州の郊外にある豪邸の、物理的及び物質的に存在しない地下γ階──ここでいうγとは、すべての絶対的な総体であるΩ、そのΩ未満である超限数、有限数の双方含む任意の仮説的なあらゆる値である──の部屋に広がり、満ちるのが第三の目によって捉えられる。
優しく自身に語り掛ける美女を、少女は生物学的におそらく母親であるものとして認識したのだろう。
その発声に対し、美女は酷く嬉しそうな顔を作り、少女にこう返した。
「ええ、私は、あなたの母親。ママ。ママよ、ステラ」
少女は、このとき始めて自分の名前を知った。
ステラ。共和政ローマ及びローマ帝国で用いられ、後の世では主に知識人によって用いられたラテン語で、星を意味する言葉。
(ああ、なんだかわからないけれども、綺麗。綺麗な響き)
それを起点に始まったのは、年齢には全く合わない思考の回転。
(私って、一体何なんだろう……)
人間が一定の年齢に達すると生まれがちな、自身や世界への疑問。自己を定義し、世界を生きていく原動力を心の奥深くに縫い付ける、至極当然な人間的な活動。
本能と理性の明瞭な分離がなされていないそれと似ているようで、また異なるものを彼女はしていた。
少女は、まさに生まれたばかりであった。真に生まれたばかりであった。
だがしかし、その精神は、人間性は少女と称するのに全くと称しても過言ではないほどに相応しくないだろう。
間違いなく自身は幼児だ。ほとんどの観点から見て、それは自明であるというのに、対して精神の活動は少なく見積もっても十代半ば程度のものだ。
(──なんで、そうだってわかるの?)
そして、その推察の源となっている知識、それ自体がどこから来たのかという疑問。
自らが懐疑心を持てること自体への疑問。
無限に後退する円環と、それに対する客観的推察によって成る、可能無限的に視覚化できる鎖。
そういった無数の、明確な量として表すのが困難な数の疑問が押し寄せ、そしてそれら疑問を解消する手段を持たないままに、彼女は、自身と全く似ていない母親によって連れられて行く。
白金色の髪と琥珀色の髪。青い瞳と黒い瞳。
外見に、共通点は何もない。
父親の遺伝が強かったとしても、受け継いだものは何もない。
生物的な本能と、冷静な理性との境界線による判断について揺れる中、それを気にせずに美女はとある箇所へ向かっていく。
地上と、この地下を結ぶ特別なエレベーター。
それを呼び出すボタンを、彼女は点灯させた。
物理法則を無視した、光を遥かに超える速度で地上階にあった籠が降りてくる。
一分もすれば、それは数学的領域に存在するこのγ階へと辿り着き、戸を開いた。
鉄の箱の中身は、まぁ何とも見事なことに、このエレベーターが異端なものでなければ説明がつかないような様相を呈していた。
アンティーク調の壁紙で覆われた百平方メートルはあるだろうそこには、これまた同じくアンティーク調のソファーが置かれている。閉鎖感を誤魔化すために頻繁に設置されている鏡も、”取り付けられた“のではなく、”置かれて“いる。果てにはキャビネットや花瓶すらも存在するが、それらの内容物が上昇、及び下降の影響を受けた様子は微塵もない。まるで籠は動いておらず、その周りだけが上下に動いているのではないかと錯覚してしまう程だ。
そもそもここの深さを表すのに、γという代数が使われているという奇怪さも合わせて、強い違和感と気持ち悪さが押し寄せるが、それを無理矢理飲み込んだ。
そんなエレベーターに、美女は──アンジェリカ・シャーロット・アーノルトは何の感動も示さないまま、乗り込んだ。
それが当たり前であるかのように。
なんの疑問も感じさせないほどに、ごく自然に。
不自然な世界が、まるで自然なものであるのだと告げるように。
彼女は、眠ってしまったかのように動かない身体の代わりに、忙しなく目を動かして異常な世界を眺め続ける。
ソファーに座った際の軽い振動が、腕を通してこちらまで伝わってくる。
それがやってきてから少しすると、アンジェリカが話しかけてきた。
「地上に着くまでに二時間くらいは掛かるから、寝ていてもいいわよ?」
彼女はそう囁いたが、ステラはもう少し起きていたかった。
幼女と少女の双方の性質を併せ持っている彼女にとっては何もかもが初めてであり、何よりも自分の存在に気持ちの悪さを覚えた。
経験なんてものが存在しない初めてのはずのことなのに、自分の中には知識としてそれがある。
ああ、母親。確かに、生理的な反射の一種として初めて視認した、自身より大きな女性を母親だと考えるのは余りにも当然なことだろう。母親としての行動を行なっているのならば尚更。だが、何故そんな仕組みを自らは知っている?その知識を身に付けた経験もなければ、自身の無意識領域を探しても、それの因果関係、つまりは知識の由来がどこにも存在しないのだ。
まるで最初から最後までそうであるかのように。
知識に欠けがないのが当然であるかのように。
いくら考えても無限に後退するだけのそれに彼女は疲れ果ててしまい、やがて眠りについた。
瞼を閉じて、瞳に映る色を黒に。意識を無に沈めた。
「現在はキュクロプス号の搭乗者に着用させる宇宙服の開発にリソースを集中しているとのことですが、それは一体既存の宇宙服の性能と比較してどうなるのでしょうか?」
「現段階では宇宙服自体の耐用性と生命維持装置の性能の向上に着手しており、耐用性は従来のものから二倍程度の性能、生命維持装置については以前より様々な機能を組み込んだうえでの小型化に努めており──」
フランス共和国、パリ市某所。
そこでは、つい先ほどまで便宜上欧州宇宙機関──ESAによるプロジェクト、タルタロス計画の会見が開かれていた。
便宜上というのは、タルタロス計画は書類上ESAということにはなっているものの、実際にはその枠組みを大きく超えて、アメリカ航空宇宙局──NASAや国際連合といった他国の宇宙機関や、国際機関も支援及び参加している、国際的なプロジェクトであるためだ。
何故かローマ教皇庁も支援しているその超巨大プロジェクトの会見終了に合わせて、参加していた発表側の研究者たちがその場から静かに消えていく。
彼らはマスメディアの強烈なフラッシュを背にしながら、プロジェクトのことだけを考えていた。
アメリカ合衆国のアポロ計画の年月にはまだ満たないものの、それでも長い時間を掛けた超大規模プロジェクトであり、世界各国の威信を賭けているからこそ得られる名誉を求めながら。
「──ああ、僕だ。うん、ちょうどアルファ・ケンタウリ星系の有人探査計画の会見が終わったところだとも。そっちはどうだい?………ふむ、計画通りに目覚めてくれて何より。ああ、ゴスジール、そうだとも。知っての通りここから僕たちは忙しくなるよ。何せ、あの子を上手く育てなければならないからね。ヨーロッパ諸国とロシアへの根回しは既にやったから、君は先んじてアメリカに──」
そんな中に、様々な意味で異色の研究者が居た。
タルタロス計画の主任であり、長い歴史を持つ家系の当主であるアートマン・ソロモン・アーノルト。
彼は、様々な意味で周囲から酷く浮いていた。
一つ、その家柄。
かつてのドイツ帝国における大貴族アーノルト家の末裔であり、更に遡ればローマ帝国の時代から続く由緒ある古い王族の家柄である。
二つ、その能力。
タルタロス計画の主任を務め上げられるだけの能力を持つ彼の頭脳は、他の研究者たちとは隔絶している。
わかりやすく目立った功績には数度のノーベル物理学賞の受賞、複素連続体理論や集合論的様相実在論の提唱、熱力学的インフレーション理論の証明などが存在する。
まだまだ若い身でありながら、既に全体の功績を数え上げるのならば三十は下らないほどの、二十一世紀最大の研究者、科学者であると目されており、だからこそプロジェクトの主任を依頼されているのだ。
嫉妬などの負の感情を抱くことそのものが馬鹿らしくなるほど比較にならない能力を持っているからこそ、彼の存在感は、宛らアナウサギの群れに放り込まれたベンガルトラの如く酷く浮いていた。
三つ、その影響力。
アートマンの出自やその能力から、彼の出身国であるドイツ連邦共和国はもちろん、世界各国に強い影響力を持っており、経済的にも非常に巨大な存在として有名な人物でもあり、特にスイス連邦において非常に大きい力を持っているとも噂される。
そんな彼も他の研究者と同様に、会見の場から去りつつ、通信機器でとある人物と会話をしながら別のことを考えていた。
とは言っても、他の研究者と同様にプロジェクトのことについて考えていたのではない。
彼にとって、タルタロス計画は隙間時間に片手間で行えるようなものでしかなく、今は本来の仕事──”魔術師“としての仕事のために意識を割り振っていた。
そのうちの一つが、自身の娘──ステラ・ブラフマン・W・アーノルトのことであった。
間の悪いことに、今日この日こそが彼女が目を覚ますと予測した日であり、本来ならばその場に居合わせるつもりであった。
しかしながら、会見の他にも連続したスケジュールで学会も行われており、すべてに参加させるために彼は政府に拘束されているために帰宅は叶わなかった。前回の会見を、妻であるアンジェリカの誕生日であるからという理由で、無断で休暇を取り何処かに旅行に行っていたことのツケが回ったのだろう。
アートマンら魔術師持つ”魔術“と呼ばれる特別な力を用いれば、様々な原理を用いることで自宅に居ながらも会見や学会にも同時に参加できるのだが、様式美を重んじる魔術師と呼ばれる科学者たちの例に漏れず、彼も非常にそれを重んじているために、それを使わず生身で参加することにしていた。
しかし、学会は既に終了し、会見もたった今終わった。
「──よし、命令はこれで十分だ。コンピュータの中で眠っているアレにも後で──ああ、後というのは眠りから覚めたときのことだとも。そのときに起きたアレにも伝えておいてくれ。うん、それじゃもう用はないから切るよ……ん、どうかしたかい?──ああ、あれかい?ははは、いや、なに、君が気にすることではないよ。君が懸念しているそれはとっくの昔に既に組み込んであるさ。いいかい、ゴスジール。計画を完璧にするというのは、つまりすべてをカバーできる無限のサブプランを用意するということだ。塵すらも計画に組み込んで、糸ではなく布を用意する、そういうものだよ。そういうことだから、裏切りは既に想定している。だから、安心してくれて構わないよ。それでも不安なのなら、時間があるときにでも一から説明してあげよう。じゃあ、今度こそ切るよ」
もはや彼を縛る制約は存在せず、隠れて魔術で自宅があるドイツ連邦共和国ベルリン州に帰還した。
そして、彼は並列思考や別人格のようなものを受肉させたものに諸々を任せつつ、自らは屋敷の調理場に立つ。
ライ麦粉やイーストなどの量を割り出し、感覚だけで完璧な量だけを取り出し、片手でこねる。
もう片方の手では、シチューに入れる用の豚肉の下拵えをしており、たった今香辛料や調味料がふんだんに使用された漬け汁に浸されたところだった。
そうして彼は、豚肉を煮込む際に用いるワインを脳内で選別しながら、ステラが地上へとやってくる二時間後のために、彼女の人生初めての食事の準備を黙々と進めていった。




