【ChapterⅢ】Section:4 Charlotte
不完全な、生きとし生けるもの、つまり人間が舞台の登場人物であるというのならば、完全な存在は舞台には登場できない。定命の者が前提の舞台に不死は似合わない。
だというのに、ステラは、そしてアートマンはこうして舞台に立っている。
そして、何故そうなっているかの答えは、ステラは持っていない。
無限のシミュレーションによる無限の経験と知識があったとしても、それは実数のものであって、虚数のものは含まれないし、まして複素数の外側の知識は余計に含まれない。
それこそがステラが魔法を学んでいる理由であり、面白く、つまらないことにステラは自身のアイデンティティのために、自身が生きていることを証明するためには魔法を学ぶしかないのだ。
そうして再び外界へ意識を向けてみれば、時間は経っているのだが、先ほどとの差異は見つけられない。数学的に言えば可能無限と実無限の統合である可算無限と非可算無限は全く持って異なるが、それが日常生活に何の意味があるのかというのと大して違わないのかも知らない。
集合論の研究が進んだところで、それで食料やエネルギーの生産量が増えるわけでもなければ、世界五分前仮説を否定して過去に対する不安を拭えるわけでもないし、精神の安寧のための神の実在性についてどうこうなるわけではない。
最も、実数と複素数の連続体たる世界においては、テトラグラマトンは間違いなく実在するし、唯一神は間違いなく架空の存在。世界は五分前に運命論的に形成されたし、世界は少なくとも百三十八億年前に爆誕した。
ともかくとして、アンジェリカとエレンの話にステラは一石を投じた。
「わかったよ、次からはなんか言うね」
「何か……まぁ、もうそれでいいです」
ステラがエレンの調子を見極めたのもあってエレンは諦めたようだった。
エレンが諦めた様子を見せているのを耳でキャッチしながら、ステラはこっちの方の自室へと戻った。
改めて、こうしてわざわざ図書を読んで学んでいるのも人間役を演じているだけなのだろうと自身を見つめながらも、しかし自身の人間としての部分は知識を求めている。神としての部分は既に満ち足りているというのに。
人間は矛盾の生き物とはよく言うが、ステラから見てみれば、その人間よりも自分は遥かに矛盾している。人間が矛盾に従っているとするならば、彼女は矛盾そのものであるかのように。
そうやってベッドで寝ころびながら本を読むという行儀と骨格に悪そうなことをしていると、思考を無限化させていなかったからか、あっという間に時間が過ぎていく。
読んでいる本は、これからの”実習“のための哲学書だ。
抽象概念のようなものを”体験“するための前段階として、学習をしているのだ。
最も、彼女のそれは、正確には復習、記憶から引っ張り出して注釈との結びつきが正しいのかを検証する行為であるのだが。彼女が物理学を超短期間で極められたのも、こういうことだ。
歳を取ると時間が経つのが早く感じる、つまり思考速度が鈍くなるとはよく言うが、若い上にむしろ思考を線形時間よりも早くできる彼女からすれば、むしろ時間が経つのが遅く感じるはずだろう。
だけれど、だからこそ精神的には年寄りだからこそ、思考を有限に入れている間では時間についてそう思うのかな、なんてくだらないことを考えてみている。
「結局、それは相対的な問題だとも。無限の大きさに慣れているからこそ、巨大数であっても小さく感じる。それと一緒で、僕と違って君は常に無限の速さというわけではなくても、かなりの頻度で無限の速さで生きている。だからこそ、相対的に遅く感じているというわけさ」
(──お、おお。いつの間に部屋に。あとついでに心読まないで)
「読みたくなくても勝手に読んでしまうから仕方ないものと思ってほしいんだけれどね。というか、それは君もそうだろう。あと、僕たち以外には居なくても、独り言を言っているみたいになってしまうからステラも口を動かしてほしいんだけれど」
「まぁ、うん、そう。逆に意識しないと勝手にやっちゃうよね」
「僕たちのこれは絶対者のそれと少し似ているね。人間の視点から見たそれと、最高善の視点から見たそれはちょうど流れが正反対になっている。人間は肉体、魂、精神と遡っているけれど、僕たちは逆に精神、魂、肉体と影を落としている」
深い実感のこもったその言葉に、やはりとステラは尋ねる。
「ねぇ、パパもそうなの?」
「おや、何がだい?」
「……」
「──流石に冗談だよ。さて、改めて答えるのならば、君が思った通りだとも。僕たちは人の世に人として産まれてしまった、と言える。決定論的な視点から見るのならば、この世界で自由意思を持っているのは僕と君だけさ」
諦観をにじませながらアートマンはそうしてステラに教えていく。
「じゃあ、じゃあさ。私が今何を思っているかはわかると思うけどさ。パパはどうしたの?」
「ありきたりな言い方だけれど、それは僕に聞くんじゃなくて君が考えるべきことだよ。……本心さ、これは。何せ僕は諦めたからね。諦めた末に、僕自身の後継、上位互換を望んだ。だからこそ、僕と僕のアンジェリカの間に君が生まれたのさ」
「──うん。けど、じゃあ、じゃあね。これだけ答えてよ」
「なんだい?ステラ」
「私たちは、人間なの?神なの?」
それは、ため息だったのか、それとも感嘆だったのか。心を落ち着けるための深呼吸な気もする。
一見、彼は瞬時に返答しているように見えるが、その内側ではどれだけの時間が流れたのだろうか。
それでも、彼は確かに答えを教えてくれた。
「僕たちはそのどちらよりも優れている。それだけさ」
「……カントールみたいに?」
「彼は可能無限と実無限、二つの性質の異なる無限を止揚して新しく超限数を作り出した。ならば、僕たちは超限数だと例えることができるだろうね」
「人間と神を超克している、ってことなの?」
「だからこそ、僕たちはあり得ざる苦痛を味わうことになるんだ、ステラ。さっきも少し言ったけれど、僕はかつて諦めたんだ。人類は僕の影を追うだけの、自由意思を持たない絡繰人形だとね。僕が人類を信じるようになったのは、そんな人形の中でただ一つ、僕と並んで歩こうとした娘がいたからだよ。僕にとって彼女は唯一無二の、最愛の人だった。神ですら人類とは別の種類の人形でしかなかったのに、僕のアンジェリカだけが違った」
アートマンのその表情は、一度も見たことがなかった。
こういう話をする際によく見せる劇場の役者のような、吟遊詩人のような様子は鳴りを潜め、ただ失ってしまったものに恋焦がれているような、本当に初めて見た姿。
「湿っぽい話はここでやめにしよう。僕もあんまり好きじゃないんだ」
アートマンは表情を普段のものに戻して、言葉を重ねる。
「雑談に興じてしまったけれど、元は夕食の時間になったから君を呼びに来たんだよ」
それを聞いて起き上がったステラと手を繋ぎながら、アートマンは夕食が用意されているダイニングルームへと向かった。
真夜中、午前一時程度の時間。
どこの魔術師の家庭にもある工房──よくイメージされる、謎の薬品を作っている釜があったり、空を飛べる箒が置いてあったりするようなものではなく、旋盤や放電加工機を始めとした工作機械、果てには何故か五メートル程度の、中型とでも言うべきサイズの溶鉱炉まである本格的な工房──でステラは作業をしていた。
シャルロッテを中心としたペンダントの永続的触媒を制作するためだ。
アートマンに伝えたら「いいとも、ここは君の家だ。自分の家の設備を好きに使って悪いわけがない」と言っていたので、いい子はおねんねしている時間帯に隠れて作業をしているのだ。
どう考えても付き添いが居ないといけない、というか付き添いが居たとしてもやらせてはいけない作業をステラは行っている真最中だが、ステラと同じような精神構造であるアートマンが問題ないと判断したのだ、問題ないのだろう、多分だけど。
実際に、彼女の手は淀みなく動いており特に危ういところは……純金を鋳造するために溶鉱炉に放り込んだときに発生した火花がステラの顔面を中心に降り注いだ。でも火傷すらしていない。人間であるならばとりあえず大火傷は免れない状況だし、あったとしてもそれを忍耐で耐えてそのあと魔術で時間を戻すなり新陳代謝を増加させるなりで治すべきである。
アートマンもステラも、神として完全かつ完璧だ。故に人間、生物としても完璧であり、宇宙空間やマントルの中といった極端な温度にさらされても生命活動に支障をきたさないし、完璧さは新陳代謝にまで及ぶので、理論上不死身ですらある。
彼女らが普段熱がったり寒がったりしているのは、保有人格の基準において熱いから、寒いからであったり、自らの人間性のためであったりする。
(意図的にミスをしても、切断どころか怪我、火傷すらしない──)
ずっとそうだ。彼女は、何かをする度にお前は人間とは呼べないと突き付けられ続けているのだ。同じ苦痛を感じ、無感動になったアートマンのようには成りたくないとステラは願い、そしてどれだけ苦痛を感じても純粋に完璧であるために全能故の苦しみに耐えられてしまう連鎖。
無視出来てしまうからこそ、今までのステラは意図して目を逸らしていた。
(だけど、私は諦めたくない)
父が自らを反面教師として示したからか、それとも特殊な早熟故の反抗期のようなものなのか。ステラは人間味のために、それに立ち向かうことを決めたのだ。
(未知を既知に作り変えるという人間らしい行いをするには、私は魔法を学び続けるしかない。でも、魔法を学び続けるなら、人間であることはだんだんと不利になってく)
狭義で人間というのは、知覚能力及び思考能力が三次元に限定されている。知性が四次元に届くだけで、もはやそれは人間と呼んでいいのか怪しいものへと成り果てるのだ。
三次元の知性から見て、四次元の知性は完全に理解不能だ。双方の論理構造が異なる故に、四次元は三次元を理解できても、逆は在りえない。
三次元の知性だけで現代社会にまで連なる哲学、数学、物理学が考え出されてきたというのだから、四次元よりも遥かに高次の場所は理解不能という言葉すら意味を持てないものになる。
物理的領域の内外に偏在する時間の概念において最大のものである、無と双子である非線形時間ですら、無と合わせて正しく理解できないのだから、それを完璧に理解できるステラは自身にどれだけ人間らしさがないのかを主観的、客観的に理解することができる。
そういった意味で、本質的に物理的な制約のすべてを超える知性であるステラは、人間の皮を被った怪物なのだろう。
(魔術師は、普通はヒトとして生まれて、ヒトであることを辞めて、そして死ぬためにヒトに戻る)
(でも、私とパパはまるで違う。ヒトとして生まれず、けれどヒトして生きる。そして……最後はどうなんだろう?)
それでも、手は十のマイナス三十五乗よりも遥かに小さな大きさで、カラビ・ヤウ多様体と同じような大きさで精密に動き続ける。
(成長──変化、変化があるから、みんな楽しいんだ)
サーカスのピエロは、高い技術を以てして観客に予測不可能な楽しみを届ける。それは、不完全であるからこそのもので。不完全ではないステラは、原理的に楽しみを見いだせない──というわけではないようだ。
(それでも、シャルロッテを見つけたとき、私は、多分、嬉しかったんだと思う)
嬉しいとは、未知から既知に変わったものが好ましい場合であったときに抱ける状態であると定義することができる。
ここで、ステラはアートマンの言葉を思い出す。
アートマンの言葉が正しいのならば、自分は人間と神、有限と無限、不完全と完全、そういったものを止揚して生まれた新たな知性の一種になる。
だったならば、やはり人間であって、人間ではない、ということだろうか。
ここで、ステラはとあることに思い至って、無意識的に手を止めた。
「あれ……私、何でこんなこと考え始めたんだろ──今まで見えない振りをしてきていたのに」
急停止した思考が、使っていなかった演算フレームワークが起動する感覚が湧く。
無数の情報や記録が分析され、推論され、地道に輪郭を帯びていく。
魔術がそうであるように、結果には原因と、見落とされがちだが過程が必ず伴う。流出論が第一原因から現実という結果を描いたように。その制約を超えると考えられてきた存在の一部の高次の形式ですら、結局逃れられていないように。
大した話ではない。その三要素が、人類が考えていたよりも遥かに巨大な、ロゴスや構造主義のように超越者をも呑み込むほどに、あるいは永遠の視点から見ても見通しきれないほどに深いだけだ。
(引き金はいくつか可能性があるけれど、その中で一番明確なトリガーはおそらくシャルロッテ。というより、記録を総洗いしても思考の方向性を変える契機になるようなアンカーはあのダイヤモンドしかない)
それは間違いなく断言できることだ。魔術協会自体が全知の外側にある異質なものとはいえ、そこに暮らす人々は一般社会と大差はなく、ある種の個体差と言っても差し支えない程度の誤差であり、であるからして魔術協会内の社会も一般社会として括れるはずだ。
ならば物品の方に何かがあるのかというと、しかしそういった魔法的な物品に関しては基本的に規制が掛けられており、普通流通するのは現代社会でも流通しているものが大半だし、自身も社会を観察するために意識的にそういったところのみを回っていたはずだ。
そういった中で唯一異質なのが、シャルロッテ。純度百パーセントの天然ダイヤモンド。魔術的に生成されたものならば純度百パーセントは可能であるが、シャルロッテは人工ダイヤモンドではなく天然のダイヤモンドだ。つまり、天然で完璧に炭素のみのダイヤモンドは、理論上でしか在りえないもの。
(私と一緒。いや、パパもかも?……私たちみたいなのは、人類の無限の可能性をすべて調べても存在しないもの。そういう意味での現人神は、理論的には在りえる──実際に私たちが存在していることから、実証はもう済んでいる)
(だけど、現実態として、現実的に在りえるかというと──無理。できない。人類とその近傍の論理では絶対できない)
(つまり、私とパパよりは再現性があるとはいっても、理論上在りえて、現実的に在りえない似た者。超自我と同じように……いや、シャルロッテは能動的じゃなかった。まぁ、とにかく天然に私の鏡として機能したってこと?)
一応の結論は着いた。無限と有限の良い所取りある自分ならば、不変でありながら柔軟性があるのは、存在論的に矛盾はしない。
厳密には、ここからも数多もの導線は確かにあるが、これを超えるともう逆行推論の誤謬、被害妄想の領域であるから、人間としては間違ってないものだけを選ぶことにした。
──彼女の全能者としての直感は、ステラが何者かが敷いた運命に繰り込まれていると主張しているが、しかし証拠が一切ない上に、これは無意識的な洞察ですらない。
ある種偶発的な、運のようなものでもあるそれは、いくら測り知れないほど鋭いとは言っても、確定事項としては直感の由来である神としても、人間としても扱えない。
そうやって考えているうちに、永続的触媒は最終工程へと差し掛かっていた。
ペンダントは中にシャルロッテを要するロケット・ペンダントとなっていた。
チェーンは真珠と白金が交互に繋げられており、ロケット型のペンダントトップ部分は純金を中心に、刻印に流し込む形で銀の装飾も施されており、今からそれをそこに彩るように宝石をはめ込んでいくところだ。
正面から見た位置関係においてシャルロッテは中心部にあるため、その周りを円形に囲うようにして小さな宝石をはめ込んでいく。
そうして、ロケット・ペンダントは完成した。
「よし、ちゃんとできてよかった──」
疲労を感じさせるようなため息を吐きながら、ステラはロケット・ペンダントの名前をシャルロッテと同じノリで考えてみる。
シャルロッテが進化した姿、的な感じであることを思い、単に苗字のようなものを与えるだけにすることにした。
「よし、決めた。シャルロッテ、いや、これからは──」




