【ChapterⅢ】Section:5 朝日
「ええ、皆様がご存知の通り、物理学的次元と数学的次元は類似点を持ちます。特に物理学的な空間次元と幾何学分野の次元はかなり近似しています。しかし、これらはあくまで類似しているだけであり、古典力学においては魔法的にもまったくの別物であることをお忘れなきよう。ええ、その証拠が求められるのも当然のことです。しかし、それは至極簡単です。ホラ、一部の方の目の前にあるでしょう?テキストエディターを開いているか、この聴講をオンラインで聞いているか、またはソレ以外の差異はありますけれども」
作業が終わってからは、彼女はいつも通り眠りについた。
普段の睡眠時間と異なり、今回のものは片手で数えられる程度の時間しか眠れていない。
しかし、彼女にとっては短時間の睡眠も長時間の睡眠も変わらない。そもそも眠気なんてものもなければ、長時間の睡眠による脳血管の拡張による圧迫感も存在しない。血流は常に適切であり、血管も常にちょうど良い大きさだ。
電子機器で考えてもいいだろう。人間は普通スリープ機能だけが搭載されており、機能としてのシャットダウンは存在していない。対して、ステラはスリープ機能がなく、シャットダウンしか持っていないのだ。
それでも、睡眠はある意味においてはステラの安らぎで間違いない。
普段完全に充足されている彼女は、一転して何も含まれない虚無になることで、プロセスやメカニズムの移ろいを感じないで済むのだ。
人格という名のアプリケーションは起動されずただそこに有るだけになり、演算フレームワークにも電気は通ってない。
ある種のノンレム睡眠にも似たそれは、常にぐっすり眠れるとも受け取れるから、もしかしたらうらやましいのかもしれないが、変わりに疲労が回復するなんてこともない。
根本的に解決しないことがわかっている上で人は鎮痛剤を求めるし、鎮痛剤を作ろうとするのだ。
「ん……んぅ……。──朝……?」
彼女が朝一番にやることは、記録の整理だ。本来であれば睡眠中に自動で整理する機能が脳味噌についているが、ステラはそんなものを持っていないため、自ら取捨選択をするのだ。
名前だけの無意識領域──ある意味では、頻繁に使わないアプリをとにかく詰め込むフォルダーのようでもある──に現在では不要だと思われる情報を仕舞っていき、対して必要な情報はわかりやすいところに置いておく。
その気になれば、人間のような睡眠もできるが、神としてのステラのプライドがそれを許さない。
何故生物的に劣っている生物の特性を持たなければならないのか、何故非効率的な機能を持たなければならないのか。
同時に、とてもそれが気になる。
その気になれば、捨てることもできるものを、非効率と知りながらわざわざ保有するほどの何かがあるのか。それがとても気になる。
体感は、できない。
だからこそ、憧れて、その影だけでも踏もうと試みるのだ。
情報の整理を実数的に零秒で済ませると、有限世界で身体を動かし始める。
頭部の皮膚から、柔らかい髪の毛の感触を感じ取りながら、羽毛布団をどかして上体を起こし、両腕を少しきつめに伸ばして伸びをする。
「んー!──あぅ……」
身体的な反射として、伸ばし切ったときに口から可愛らしい吐息が漏れ出る。
起き上がり、地に──正確には大地ではなく建物の床だが──足をつけたステラは、便宜上の実家──ベルリン郊外の屋敷でもやっていた朝のルーティン、それに手を加えたものをいつも通り始めた。
洗面台でレバー式の蛇口から水を流し、鏡を見ながら目やにを指先で取ってそのまま水流に当てて流す。
一度センサーで出るタイプの備え付けのハンドソープをつけて手を洗ってから、今度は手をボウルのようにして水を貯めて、顔を洗い始める。
クローゼットから服、今日は白い服を着たい気分だから、白一式を取り出し、パジャマを脱いで取り出した服に着替える。
服を着終えたら、再び洗面台の前に向かい、今度は鏡を見ながら髪を整える。
最後に、手にいくらか付着した髪の油分を洗い流して個人でできる範疇の朝のルーティンを終えた。
今の時刻は六時十六分、あと十四分もすればアートマンが食堂で朝食を用意してくれているから。
「せっかくだし、適当な本でも読んでみようっと」
ステラはそう呟きつつ、部屋の本棚をじっくりと見ていく。
勉強用のものを読む気分でもないし、かといってなら軽いものを読めばいいだろうという話になるかもしれないが、生憎ここにはライトノベルや量産されたコピー品があるわけでもない。
じゃあそうではない分野かと言われると、ダンテ・アリギエーリの神曲はその後のキリスト教観に影響を与えたために、どちらかと言えば宗教学とかその辺りの専門書としても考えられるだろうし、何なら当時の学問の状況についての参考資料にもなる。読もうと思えば百歌のすべてを読み切ることもできるが、つまりこれだけ言い訳を述べた上で、気分ではないという話に行きつく。
そうして愚者が選んだのはカラマーゾフの兄弟だった。確かに先ほどの条件に該当するとはいえ、何をどう捉えたとしてものんびりとした内容では明らかにないが。
紙をめくる気分ではないからと、流し読みとすら言えぬ速度で頁を捲り続け、本来の人間の認識速度では捉えられない速度で捲られたそのすべてを脳内に収めてから記憶の本を読み始める。
「選択間違えた……気分が重くて堪らない……もう動きたくない……」
カラマーゾフの兄弟を一応一周読み切りはしたが、やはり朝一番のぽわぽわした状態で読むようなものではなかったとステラは後悔しつつ、言ったところで届かない上に別に現状のステラに対して一切の責任を持っていないフョードルに対して文句を垂れ流しながら、通常の時間速度の中でおとなしく十一分程度の残り時間を過ごすことにした。
とはいっても、頭を休めることはしなかった。
一般的な処理速度から、無限にならない程度の、表現するのにドナルド・クヌースの矢印表記が必要な程度の大きさの速度で脳味噌と精神体を動かして思考する。
そうして空調の効いた部屋でごろりごろりとしていれば、控えめなノックの音が聞こえる。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
扉越しで音が減衰されながらも、ステラは扉の向こうに居るエレンに対して返事をする。
「起きてるよ、エレン」
返事をしてやれば、エレンは扉を開けてこちらへとやってくる。
「アートマン様が、お食事が出来上がったためお嬢様を呼んできてほしいと」
「わかっているよ。ちょっと待ってね、今ベッドから降りるから──」
そのまま、ステラはエレンに先導されて──別に必要がないのだが──食堂へと向かう。
その道すがら、彼女は侍女に対してとあることを聞いた。
「ところでさ」
「如何なさいましたか?」
「基本的にうちは朝、昼、晩、全部パパが食事を作っているじゃん?」
「ええ」
「何で?」
「お恥ずかしながら、私も詳しくは知らないのですが。私の記憶が確かなら、アートマン様曰く、こだわりだと仰っていたかと」
「へー」
だったら朝食の後にでも聞いてみようと大脳皮質にメモをしながら、ステラはエレンの後を引き続き歩いていく。
「おはよう、ステラ。今日の朝ご飯はイギリス料理の大衆料理にちょっとしたアレンジを加えてみたものだ」
「それって油分とかの観点から私食べて大丈夫なの?」
「そこだよ、僕のステラ。イングリッシュ・ブレックファストはアメリカの大衆料理かと言わんばかりに油をふんだんに、というかほぼすべてに油を用いているけれど、今日僕が作ったのはそうじゃないから、アレンジということさ」
朝のこの時間帯に食べるにしては重い気がしないでもないが、存在の疑似核を物質的肉体にしている状況ならば、普段の脳活動や肉体の成長等を考慮してとりあえずいっぱい食っとけというのはあながち間違いでもないので、大人しく席に着くことにした。
カリカリに焼けすぎていないが、しかしよく火が通っていることがわかるベーコン。
しつこく茹でた、トマトから直接旨味を煮だしてそれを閉じ込めたベイクドビーンズ。
フライパンの上で少量の油と共に落とされ、その後蒸されたであろう目玉焼き。
そのときに一緒に火を通して豚肉の味を引き出したであろうソーセージ。
オリーブオイルでソテーした薄切りのマッシュルーム。
マッシュルームをソテーしたときに余ったオリーブオイルを染み込ませてオーブントースターで焼いたトーストの表面には、大量の砂糖で甘ぁく煮詰めて作られたマーマレードがたっぷりと塗りたくってある。
「で、これってもう食べていいの?ママもまだ来てないけれど」
「先に食べていても問題ないよ、ステラ。僕はちょっとキッチンの後片付けをしているから、後で食べるさ」
「では、私はアンジェリカ様をお連れします」
そうして始まった孤独な食事。
以前にもやらかして自宅でならいいと言われた食前の挨拶をすっぽかして手に銀製のよくわからないが高い値打ちが付きそうなフォークを握る。
少し行儀が悪いが、食事しつつアートマンに先ほどの事を質問してみることにした。
「そういえば、何でパパが食事を作っているの?_」
「ああ、その話かい。それほど難しいようなわけということでもないんだけれどね。僕がまだ小さい、まぁ六歳までの間だと、それこそ本当に宮廷料理のようなものしか食卓で出たことがないんだ。適当な売店やカフェで食べたことはもちろんあったけれども、基本はそういう物だったのさ。だからこそ、君には宮廷料理とかじゃあなくて、家庭料理、大衆料理を食べて育ってもらいたかったのさ。つまるところ、ただの親心さ」
今は包丁を洗うために蛇口から流されている水の音などに少し邪魔されつつも、理由は判明した。
味なんかからもわかる圧倒的な調理の腕前を、わざわざこういった料理に活かしているような理由が。
「物好きだと思うかい?」
「とりあえず、もちろん実益はないね。純粋に効率の観点から見てもわざわざパパがやる意味はないし。だけど……」
「もちろんこれは効率度外視の、完全に感情に由来するものさ」
彼女は少し納得しつつも、まだまだ口を開く。
「それで、他の理由は?」
「おや、他にも理由があると思うのかい?」
「原因一つじゃ動かないタイプの人でしょ、パパって」
「ふむ。別に隠す意図があったわけではないのだけれど、すべての理由を伝えてなかったのもまた事実だ」
「やっぱり」
「まぁ、それに関しても同じなんだけれども。わざわざ豪勢な料理を作って、それに見合うようなテーブルマナーで食べることこそ効率が悪いからね。実のところ、あれは見栄以外の何物でもないのさ」
「要するに、妥協ってこと?」
「そうだよ?」
つまり、こうだ。
完璧主義としては料理に妥協はできないが、それはそれとしてそういったものを作るのは時間の無駄だと。
「パパって妥協するのが上手いよね」
「大人というものは妥協しないと生きていけないものさ。君もよく知っているだろう?」
「だね」
おそらく地球上で二人しか共感できない話をしてみれば、手元から硬い音が響く。
話に夢中になってアートマンの方しか見ていなかった目をそちらに向けてみると、既に皿は空っぽになっていた。
「あ、食べ終わったよ」
「おや、逆に僕はこれから食べるところだ」
そういってアートマンは席に着くと、その瞬間にアートマンの皿は空っぽになって、彼はいつの間にか手に握っていたロイヤルミルクティーを啜っていた。
「あっ、ずるい!そんな加速して食べるなんて。私はちゃんとマナーに則ったんだけど?」
「ああ、それ、やめてくれるかい。なんだか悪いことでもしたみたいで罪悪感が湧いてくる」
表情を一切変えていないその姿からは言葉のように罪の意識を感じているようには思えない。
「えー、なにさ、調理にはあれだけこだわってるのに、今日に限って面倒くさくなったの?」
「わかっているだろう?」
「どうせこうでしょ?」
「「気分じゃない」」
一言一句、音速の衝撃がピッタリ重なるように示し合わせて二人はそう喋り、その後少しの沈黙を経て軽く笑いあった。
「アートマン様、お嬢様。アンジェリカ様をお連れしました」
「ごめんなさい、寝坊しちゃ……って、もう食べ終わってるじゃない!」
「遅いじゃないか。僕もステラもとっくに食べ終わってしまったよ」
「おっそーい──けぷっ……あ、ごめんなさい、でちゃった」
アートマンはアンジェリカを弄るためにか、あたかもまともに食事をしたかのように振舞っているので、ステラもそれに乗っかる。
胃袋を意図的に動かして、意図的に曖気を出して食後感──何だかんだ言って実際に二人とも食後ではあるのだが──を演出する。
尚、ステラは抜け目なくアートマンの演技を見ているし、アートマンも自身の演技をステラに見せることで演技力の向上を図っている。結局二人とも根本的には効率至上、合理主義的な一面を持ち合わせているのだ。妥協という脱構築を行ないながら。
直後、ステラはアンジェリカに抱きかかえられ、背中から胃の位置を一定のリズムで力なく叩き始めた。
「……」
微妙そうな表情はエレンには見えており、何とも言えない空気感が漂う中、一応ステラは赤子の如く曖気──はもう先ほど出し切ってしまったので、肋骨を動かして肺を圧迫することでそれらしい息を吐いてみる。
アンジェリカはそれで曖気を出し切ったと判断したのか、優しくステラを座っていた椅子の上に降ろす。
「……まぁ、冷えるほどではないし、問題はないと思うよ」
それをカバーするかのようにアートマンが脱線して崖下に落下した話題を線路に戻す。
「ごめんなさいね?」
それに従って、アンジェリカは席について朝食を開始した。
その影で、アートマンはステラにだけ見えるように手招きをしていたので、さりげなくアートマンを後ろから追った。会話で適当に視線も誘導しておいた上に、足音を零しか立てていないので、当事者であるステラとアートマン以外は二人が部屋を去ったことを知らなかった。別に隠すことに意味なんてないけれども。
「それで、何かあったの?私だけ連れてきて」
「君の学業についてさ」
アートマンはそう言い放つと、書斎のデスクに寄りかかる。
「現状、レフからはどこまで話を聞いている?」
「教科書で表現するならまだ十パーセントくらいだと思うけど」
「ふむ……やはり肉体の高齢化に伴い精神的な体力も低下している、か」
「どっちかというと、やりたいことをやり尽くしたせいで意欲がなくなってる──バーンアウトみたいな状況なんだよね。実体はまぁ違うけれど、結果的に同じところに着地しちゃったみたいな」
「やっぱりそうか。ヤーダスの中にいた期間がかなり長かったからね……まぁ、彼のような優秀な魔術師がヤーダスに呑み込まれなかっただけよしとしようじゃないか」
親子で面談──本来この文字列が持つ意味とは少々違うが、意味を無視して文字だけを見るならある意味では的確だろう──している最中に出た不可思議な言葉をステラは見逃さなかった。
「ヤーダスに呑み込まれる?それって、どういうこと?」
「うーん……まぁ、秘匿しているわけでもないし、伝えてもいいか」
アートマンはそれが機密に抵触しているかをノータイムで確認し、続けた。
「ヤーダス監獄街にはちょっとした噂話──迷信のようなものがあってね。迷信として扱っているが、中身には立派な実体があるけれども」
「それは?」
「稀に行方不明になるのさ、受刑者が。しかも、本人の意思ではない上に、魔術の痕跡もなく」
「欺瞞が上手、っていうわけじゃないんだよね?」
「もちろんさ。原因不明で、失踪してどこに行ったのかも不明。それに、少なくとも脱獄して何か悪事をしているわけじゃないから、調査も行われないのさ」
「え~?危険じゃない?」
「そもそも、囚人を管理するコストすら惜しまれたから、対魔術師用の収容所としてヤーダスが建造されたわけだからね。脱獄したわけじゃないなら、わざわざ犯罪者如きにコストを掛けるのも勿体ない、という声が上院の中では大多数なんだ」
「政治って大変そうだね」
他人事であるかのように、聞いておきながら興味なさげに返答しているが、彼女は本当に政治というものはめんどくさそうだなと感じていた。
自由に動けるわけでもないし、制約が多い。
「それでも、危険性は──って、ああ」
「そうさ。そもそもヤーダス監獄街自体から脱走を試みる者自体が非常に少ないのさ。いくら危険度が高いから捕らえられているとは言っても、流石に僕とかレベルの魔術師には勝てない」
「パパって核兵器だったんだね」
「人を核抑止力呼ばわりは酷いな、我が娘よ。ところで、レフに打ち込んだアンプルの中身は?」
「アッパー系の作用を麻薬にならないくらい少ない量……それこそ、カフェインの超大量摂取と同等程度と、エンドルフィンの分泌を活発にするやつ。後は、薬局で処方される程度のステロイド、そのくらいだよ。あ、ちゃんとダメな量にならないようにはしてるからね?」
「ああ、いい判断だ。カフェインだと急性中毒の可能性があるからね。ちなみに、最初のものはどうやって作ったんだい?」
「材料は手に入れられないから、工房で適当な食べ物とかの分子いじって作ったの」
臨機応変に応用が出来てえらいとアートマンは誉めながらステラの頭を撫でた。
「──ですから、無限次元のヒルベルト空間の“位置”は議論の余地が……と、失礼。質問への返答に熱中しすぎて、本筋から脱線しておりました。ええ、つまり、各物理的次元内には、永遠の数学的次元──ああ、ここでいう永遠とは、魔法的象徴主義としての永遠、つまり存在する、あるいは存在しないすべての無限を超える形式のモノの記号です。で、永遠の数学的次元があるわけです、各次元内に。コンピュータゲームだとわかりやすいでしょう?次元……ここでは三次元としますが、三次元空間内に、数学的には無限次元を収められるわけです。知覚できないだけで、プログラム上では四次元空間も五次元空間も実行可能ですし。実際に推論と観察によって──」




