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【ChapterⅢ】Section:3 アウフヘーベン

実数と虚数の違いとは。この命題に籠められた重みを正しく理解できている魔術師は意外に多くないだろう。それらが本質的に複素数として同一のものであるということは、整数と有理数の濃度が同様であるのと同じく、実数と虚数の濃度が共通であるという事実によって導かれる、魔術師的には常識的なことである。

 そのダイヤモンドの価値は、間違いなく希少なカラーダイヤモンドに劣っておらず、むしろそういったものと比較しても遥かに優っていた。

 地球上で採掘された、正真正銘の超高純度の天然物であるという魔術協会の証明書と共にケースに飾られているそれは、もし地球上の宝石学を修めた専門家が見ようものなら、発狂して自らの目を神経ごと抉り取ってしまうのではないかと思うほどに特別なものだった。

 純度百パーセント。彼の偉大なアフリカの星の異名を持つカリナンⅠですらあくまで”超高純度“であり、百パーセントは夢のまた夢。

 そんな幻想が、目の前に存在した。脇道に控えめに存在する、店主が趣味でやっているようなこぢんまりとした宝石店で。

 ステラは、思わず頭を回りに振って周囲の人間を確認する。店主と彼女自身を除けば、脇道にすら誰も居ない。

 誰も気が付かなかったのだろうか。それか、雑な検査だったのだろうか。もはや純度という概念そのものに意味がなくて面白可笑しくなるほどの逸品であるというのに、ただの超高純度”程度“として扱われている。

 魔術的にも計り知れないほどの価値があるそれを、文化財ならぬ自然財の保護だとか、これを独占しようとする言いようのない湧き出る高揚感と全能感に酔いしれないように必死に自制しながら、しかしながら頭の一部ではダイヤモンドにどのように手を加えて永続的触媒にするかのシミュレーターも働かせながら、常を装ってステラはのんびりとコーヒーを嗜んでいた店主を呼びつけて、千大ファイデルタと引き換えにこのダイヤモンドを入手した。


 あまりにも思わぬ収穫に、幻術の仮面の下で、表情筋の完全な制御で普段真顔であることが多いステラは、満面の笑みをこぼしていた。

 母親譲りのその笑顔は、もし見られていれば十人中十万人が夢中になって眺め続けられるほど美しく、可憐なもので、やはり彼女は小さな小さな少女だということが改めてわかるだろう。

 事実、彼女自身も自分についての客観的かつ冷徹な認識で改めてそう観察している。


(♪~──)


 紛失しないように、ステラは即座に魔術協会の目的なき散策を中止して、ダイヤモンドを永続的触媒にするための素材集めに動き出した。

 歩みを進めながら、せっかくだからカリナンやコ・イ・ヌールのような名前を付けてみようということで、いくつか名前の候補を考えてみる。エカチェリーナとかいう記号がついていたような気がしなくもないが、彼女は不要な記号だとして既に忘却してアーカイブ化している。原石を地中から掘り出した採掘者と、傷一つなくこの形にカットした宝石細工師に謝ったほうがいい。

 ステラは、このダイヤモンドを自分自身の小さな分け身として、シャルロッテという名前をつけた。


「これからよろしくね、シャルロッテ」


 小さく呟いたそれに対し、心なしかダイヤモンドがいい感じに光を反射したような感覚がする。実際には小さな子供用服のポケットの中に閉まっていて、光が当たるわけがないのに。



 そうして、最終的に彼女が取り揃えた素材の中には、永続的触媒に頻繁に用いられる植物由来の素材は一切なく、そのすべてが金属や宝石の類だった。

 シャルロッテも合わせて、合計二千大ファイデルタで取り揃えられた購入品を加工して作るのは、ペンダントだ。

 電子上で転がっている有名店のカタログなどを見て軽く調べたところ、永続的触媒には複数の形状が、というより好きな形状にすることができるようで、ストレートに杖から本、剣に盾、銃、果てには電子機器と、形状に関してはかなり好き勝手に作れるようだ。

 とはいえ、触媒として関数を格納したり、魔術式に定数として概念を挿入したりするためには相性の良い形状にすることは必須なのだが。

 例としては、氷の魔術を扱う際は、剣型の触媒が良いとされる。どちらも熱の影響を受けやすい上に、基本的に冷たく、丸みをそれほど持たず主に角で構成されている。そういった共通点から、剣の属性や性質を代入しやすい。

 最も著名な剣型の触媒としては、アートマンが持つレガリアの一種の国家の剣である剣神ハイペリオンだろう。Divine SwordやSacred Swordではなく、Sword of GodやGod of Sword。ラエティア王国では神の如き存在であったアーノルト家が持つ剣として、剣の中の剣、剣の中の王、剣の中の神として、それ自体が魔術師たちからの信仰を集める特異なもの。

 ハイペリオンの素材は、すべての金属を一つにした金属と、装飾の宝石も宇宙から集めた超高純度の宝石を一つにした宝石であり、そういった一つにする工法自体をハイペリオンと呼ぶ場合もあるらしい。

 それ故にどんな魔術に対しても触媒として機能する、人類史上最高の触媒。

 そこまではいかなくとも、長期的に永続的触媒として自身の御供にするのならば、体格的な観点から今挙げられたような、特に剣や銃のようにもろに肉体の成長とは相性の悪い形状はよくはない。とてもよくはない。普通に悪いと言い切れると思う。

 だからこそ、汎用性がある上拡張性も高いペンダントにすることを決定したのだ。


 そう。それらのことを、別荘でエレンに色々懇願されながら考えているのだ。


「──ですからお嬢様、こういったことは……」

「でも別にちゃんと戻ってきたからよくない?」

「で、ですから、そういう話ではないので──」

「別に散歩に行ってきただけだよ。ずっと家の中に居るのは健康に悪いじゃん」

「だからと言って家出紛いの事を行なわれるのは──」

「まぁまぁ、この子も魔術師だから。好奇心が強いのはむしろいいことなんじゃないの?」

「……はぁ……」


 ステラの教育に関してアンジェリカとエレンが対立しているのを、記録は取りつつも意図的に情報を無視して思考をし続ける。

 その中で、彼女は自身の思考を更なる高みへ、つまり実無限の演算力、アレフ数とベート数が一致するような超限基数の思考速度、絶対者の視点へと完全に昇華することを試してみた。

 零と区別がつかない大きさに無限を詰め込むことはできた。今までも出来ていたことだし、これからもできることだろう。


(それでも、今の私じゃ無限を何回……何回やればいいのかわからないけれど、とにかく何十回も詰め込めない。結果だけ見れば確かに同じ大きさにしかならないけれど、それでもその過程で発生する数え上げは確かに長くなっている)


 そうしてステラが独りでの思考を続けようとしたとき、目覚めたときから無視し続けた声が、幻覚的に鼓膜を叩いた。


(ああ、ようやく届いた。とはいっても、二十日しか……いや、十分長いのかな?)

(──超自我。そこまでして私に何を伝えたいの?今やろうとしていることに関して?)

(あらら、私の自我、あるいは自己、あるいは実相よ。あるいは、視なかったことにしたいのか)

(わかっているよ。私があんたの言葉を参考にする価値があるって推測したから、今こうやってあんたのことを意識しているってことは)

(あれ、わかっていたんだ)

(わかっていないとでも?)

(さっすが、信仰、つまり無意識を原理的に持てない現人神)

(黙って)

(すべてが鮮明で、人間とは違って我が主の中には我が主しかいない。可能態を持たな──)

(黙れ)

(はいはい)


 自分自身が少し呆れている様子を見ながら、ステラは本来の目的について尋ねる。


(それで、言いたかったことは?)

(わかっている癖に。まぁ、私自身も本物の超自我でもなし、そもそも我が主はフロイト的ではないけれど……まぁ、話を戻しましょうか。我が主は無限を中途半端に耐えられない。しかしそれは、つまり中途半端に耐えられているということ)

(で?)

(冷たいなぁ……私はあくまで我が主の無限小を映す人格という名の水鏡でしかないのに。まぁいいか。要するに、意図的に”中途半端“に見せかけているのを止めればいいということよ。我が主は完璧であるが故に、人間を演じられる。だけれど、どれだけ演じようとも我が主が現人神であるという実情は変えられない。故に、無意識的であることを演じて、その上で中途半端になっている。我が主自身でも気が付いていることのはずだ)

(……まぁ、そう、だね)

(おお!珍しい我が主のデレ)

(死ね)


 ステラはそのまま鏡を粉々に砕き、自身について見つめなおす。


(──はぁ。本当は、わかっている。わかった上で、人間に成りたい、成ろうとしている。原理的に、私は”ステラ“という名前が付いた集合。私の中には、外部の、”ステラ“以外の集合、他者は存在しない。だけれど、私という集合──固有クラスの中には、確かに要素として人格という集合がある。固有クラスの濃度を記号化できないほどに、記号化できないという記号が付くほどに)

(そのすべてが私であり、同時に私ではない。固有クラス内とその内部の集合という観点において、私は自身と他者の区別が存在する。だけれど、同時に全部が私自身。さっきも超自我を”自称する“影に諭された……いや、諭させたけれど)

(結局のところ、無限が有限を模倣しようとしたからこそ、どちらでもあってどちらでもない、連続体仮説のような、宙ぶらりんの者が出来上がってしまっていた)


 ステラは、自身を人間だと思い込むことを辞めた。

 ステラは、自身は人間であると確信した。

 ステラは、自身は神であると確信した。

 ステラは、自身は人間ではないと確信した。

 ステラは、自身は神ではないと確信した。

 ステラは、自身は有限であると確信した。

 ステラは、自身は無限であると確信した。

 ステラは、ステラは、ステラは……


 ……


 ステラは、ステラであると確信する。


 ステラの神としての深度は深くなった。しかし同時に、ステラは自らの人間性を強く維持し、結果として不安定なゼロサムを何とか維持した。

 この少女が何故ここまでして人間性に固執するのか、そもそも何故人間性を問題なく維持することが出来ているのかを、少女は言語化することができない。

 無限の数の人生のシミュレーションの中に、その答えは存在しなかった。

 内省によって、ステラは初めて自分の精神構造について正しく理解することができたのだ。

 これまでの一貫しない矛盾した思考と行動の源はここにあったのだ。

 現実での肉体を柔らかいソファーに、主観的な速度において無限小にゆっくりと横たわらせながら、同時に今自分がどれだけの数の無限を経過したのかを数えながら。


(一……二……三……四……五……六……七……)


 そうして、初めて演算量が二桁に到達した。

 一部でそうして無限に対する試行錯誤を無限に繰り返しながら、自分の構造を整理する。


(私の中には、無数の人格がある。前はこれが何なのか正しくは理解できていなかった。だけれど、これは量子的な、──私が覚醒する前にやっていた、確率分岐的な、人生に対するシミュレーション、それが記録されたファイル。だからこそ、私には知識だけがあった。そりゃ当たり前だよね。ナイフも、フォークも、スプーンも──それを握っていたのはシミュレーション上の話であって、実際に私が体験したわけじゃないんだから)

(だけど、それはいいことばかりじゃなかった。客観的にみて、無限回のシミュレーションは私に確実に悪影響をもたらしている。ただのシミュレーションであると同時に私自身でもあるから、相反する感情も、視点も、何もかもを抱えている。私として同一のものだけれども、同時に人格として独立している別個のものでもあるっていう……人間らしくないこれのおかげで、私は人間性を演出することが出来ていた)

(けど、じゃあ、でも──私には、最初から人間性なんてなかった、の?)


 自己分析の繰り返しに、彼女は安堵すると同時に激しいショックを受けた。

 相殺もされず、二者択一でもない。共存する矛盾、矛盾が許容される心。


 そんな中で、喜ばしくなく、とても嬉しい発見を見つけてしまった。

 条件を再設定した上で無限にシミュレーションを走らせた結果──ステラはこの世には存在していないはずだった。

具体的には実数と虚数の違いとは何なのだろうか。数式として単純に考えるならば、どちらも共通の本質としてz=a+biの構造を保有している。が、集合論ではない観点で考察してみると、実際には虚数が無限の部分を占めていて、実数は極わずかである。対比関係にするのならば、実数はbの値が零であるときのみで一であるのに対し、虚数はbの値が零ではないときのすべて、つまり無限、一対無限として表現できる。つまり、虚数の内部の無限小の異常構造こそが実数の正体であり、実数なんてものは最初から存在しないと言えるだろう。最も、こういった定義を用いている場合において、虚数はもはや正当な呼称ではなく、虚数自体も複素数という呼称に取って代わるだろうが。

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