【ChapterⅢ】Section:2 ダイヤモンド
その後、やることがなくなったステラはネーベルラントを探索するか、あるいは別荘の書斎や書庫というべき箇所に保管されている、中等段階のテキストで純粋な意味での自主学習でも行おうかと考えた。
しかし、学習の方面については、以前一瞬だけ視認して中身を完全に記憶してある心理学系統の教本の内容によると、あまりにも長時間連続して同様のことだけをやり続けるのは結果的に精神を壊す結果へと繋がると記載されていた。
その上、子供にとっては更に悪影響が強いとのことなので、平均的な子供とは遥かにかけ離れているとはいえ、社会的にも実年齢的にも子供でしかないステラはもう片方の選択肢であるネーベルラントの探索を行うことを決めた。
(でも、障害が意外と多いのがかなりの難点、だよね……)
そうなると問題となるのは、単独で行動するには肉体年齢が若すぎる点と、何かしらで使用する用の金銭が欲しいという点だ。特に金銭に関しては、それを用意しておかなければ一般的に生産性のあることを行なえない。
とはいえ、実のところ彼女は両方に対して解決手段を持っていた。
前者の、年齢が若すぎるという点に関しては魔術で年齢を誤魔化せば良い。周囲に害をもたらすわけでもなければわざわざ看破する必要もないので、見破れる程度の能力があったとしても化粧の延長として多少の若作りだと魔術師たちは受け取るだろう。まさか子供の背伸びだとは思わない方が圧倒的に多いはずだ。
使用する魔術についてだが、コストパフォーマンスの観点から幻覚を見せる類のものを使用することにした。
より隠蔽率というか、隠蔽力というか、ともかく看破される可能性が特筆して低いものとしては、カバラのアインの理論を用いたものと、物理的な未来の自身の肉体を現在に複製し、それに形而上学的手法を用いて一旦意識を移し替える方法の二種類があるのだが、どちらも候補からはすぐさま外された。
カバラの理論を用いた魔術は、単純に準備量が非常に多い。自身の肉体が取りうる肉体のすべての状態、つまり無限のパターンを事前に用意し、顕在化させる一つを除いた無限のパターンすべてを格納する領域を肉体の内側に存在論的に作成しなければならないため、仕事量が多い。
客観的に見ると、これは彼女にとって大した負担ではないように思えるが、無限を数えるのと、無限回作業を行うのは似ているようで全く非なるもの、奇妙に聞こえるが有限と無限の差のように異なるものなのだ。要するに作業量が連続体仮説上でアレフ・ワンと同等であるということだ。いくらZFCを含む公理系全体の論理構造自体よりも最小規模の時間の方が遥かに巨大であるとは言っても、手加減にもまた技術が必要なのと同じなのだ。
そもそもとして、思考速度を加速させるのが実のところ大変なので無駄に精神的な疲労を蓄積させたくないという理由もあるが。
未来の肉体の複製については、ステラ自身が無時間及び時間平面上での活動に未だに慣れてないのと、常時連続して魔術を使用することによる強い”酔い“を経験したことがないという二つの観点からこれについても使用を諦めた。
幻術の類であれば、現在のステラの並列処理能力からして簡単に行うことができ、主意識を探索に用いることができる。
しかし不安なのは金銭の方で、ステラが主に所持しているのはドイツの通貨にもなっている大量のユーロ紙幣であり、客観的には一般的な遊び方で数時間遊ぶのには圧倒的に過剰な金額である。
ステラは結構フリーダムに暮らしているが、それでも彼女は正真正銘の箱入り娘である。一般的な物の値段を知る機会はベルリンにおいてもアーヘンにおいてもなく、何にどれだけの値打ちが付けられているか、価値の基準の一切を知らなかった。
あのときのロバートが見せていた様子から考えるに、彼女が保有しているファイデルタとユーロ全体はちょっとした金額ではないのはわかるのだが、それでも具体的な価値を知らない彼女からしたら不覚的要素でしかなかった。
最終的には、すべてのユーロ紙幣と小ファイデルタ、全体から見て数パーセント程度の大ファイデルタを持っていき、足りないようであれば諦めて散歩と観光をするだけだと結論付け、準備を開始した。
しかし、どちらのファイデルタも硬貨であるために、かなりの量を持つにはステラの筋力では不足であり、体力を消耗してしまうことが考えられるため、どうするか悩んだ。最終的には、財布にしている袋の内側を情報抽象空間へと変換することで、すべての金銭を変数として持ち運べる──持ち運べるという語が正しいかは不明だが──ようになった。
ところで、携帯電話に関しては、やはり魔術協会内では通話しかまともに扱えない代物だったので、魔術協会内のネットワークにも接続できる魔術協会専用のスマートフォンを事前にアートマンから貰っておいた。彼からしたら子供が菓子をおねだりするかのような、ちょっとした話だったのだろう。金持ちの金銭感覚を悪い意味で侮ってはならない。
そうして準備をし、エレンが用意した昼食を摂り午後二時になった瞬間、ステラは幻影を纏って別荘から抜け出した。
脱走したステラを探してエレンが慌てふためくのは、また別の話。
そうして脱走したステラは、前回で覚えた暗証番号ならぬ暗証暗号を発し、霧に包まれてヴィクトリアンな街へやってきた。
突然霧が発生してその中から突如人間が現れるのは、ネーベルラントでは至極当たり前の事であり、外見的に単独での出現でも違和感がなく、つまり何が言いたいのかと言えば彼女は問題なく通行人たちの中に潜り込むことができた。
(とはいっても、ここの詳しい地理はほとんど知らない。目的を持った上で散策するには不可欠だし、どうにか自然に知る方法は……)
当たり前のように魔術協会へ来る人間がその地理を知らないというのは、おそらくほとんどありえないので、ステラはどうにもこうにも悩みながら歩いていた。
いくら前回のときに地図を渡されて、それを写真的に記憶しているとはいっても、流石に細かい店などまで書き込まれているわけではなく、観光客向けに名所ばかりを載せたガイドマップのようなものだったので、具体的にどこに行くかまでは決めかねていた。
とはいえ、それでも地図に書き込まれている場所と名称からして、おおよそではあるがなんとなくの傾向自体は掴めている。
地図に載っている範囲において、ネーベルラントは宮殿を中心として四つの区画に分かれている。
北区は学業や、表現が合っているかはわからないがIT等の知的活動を中心としており、西区はネーベルラントに直接住んでいる人々の住宅や商店が建ち並ぶ、住宅地とかそういう呼び方をするべき場所。南区は研究所や工場などの工業地区で、最後に東区は高級な店やらが大量に存在する富裕層のエリアであると考えることができる。
地図の範囲外にも”場所“の存在が自明的に示唆されているためにそちらも気になりはするが、縮尺から考えるに、宮殿を中心としたこのエリアは約二千七百平方キロメートル、ブランデンブルク州の十分の一程度の大きさであり、ちょっとした散策と称するには距離が遠すぎる。
エリア内に限定し、そのうちステラが利用すべきであろう場所を挙げるのならば、西区と東区という、位置的に相反するために非常に平行で利用しにくい区画だろう。
それを踏まえて、東区に向かうためにステラは西区へと向かって歩み始めた。
基本的に何事にも金銭が絡むことは流石にステラも把握しているため、西区で基本的な価値観について調べてから、東区を訪れることとしたのだ。
時間にして二十四分ほど歩いていると、魔術協会本部においての公的機関が集まる中央部と比べて、かなり現代に近しい──それでも伝統を非常に大切にしているが──建造物の集まりが見え始めた。
現代の欧州各国の都市を想起させるような、一貫性の弱い、しかしそれはそれで風情を感じさせる意図されていない奇妙な意匠が凝らされているその街並みは、だからこそ気軽に、日常的に人々が使用しているのだとよくわかる。
道に関しては、形状は完全に同一だが明確に境界線が定められており、その境界線を跨ぐと一瞬で様変わりしている。
純粋な石材だけで舗装されていた道が、陽光を蓄えやすいアイボリー色がぶちまけられたような、魂と汗と血とが染み込んでいないような道へと変わる。
建物と比べて圧倒的に露骨だからこそ、ベルリンの壁とは異なり精神的にも地理的にもそこそこ健全に隔てられているのだろう。ヴィンディヤやウラルのように完全に自然な形で健全に分けられていると言えないのが悲しいところではあるが。
そのまま数分歩くと、主婦ら家政婦らの賑やかな声が響く、多くの民間の店で賑わう道が交差しているところまでやってきた。
距離的にも賑わい方的にもちょうど良いため、ステラはそこで物の価値を調べることにした。
第一にわかったのは、こういった商売において両ファイデルタがほとんど使い物にならないのだ。
何故なら、小ファイデルタですらレートが高いのと、ユーロとの対比が綺麗な数値ではないからだ。今現在のXAU、EURの相場は、金一トロイオンス──約三十一点一グラム──四千七百八十二ユーロ、一グラムに直すと約百五十四ユーロで、つまり現在のレートでは一小ファイデルタが約十五ユーロ四十セントなのだ。
それが補助通貨、ユーロでいうところのセントでしかないというのだから、どう考えても一般的な商売における使いやすさは圧倒的にユーロの方が上である。
一応金本位制であるために国際社会からはほぼ独立しているため相場が安定しているし、早速携帯電話で検索してみたところ、紀元前のラエティア王国であった頃から魔術協会が貯め込んできたゴールドの量はかなり膨大らしいので、ある意味では国際社会以上に経済は安定しているのだろう。しかしそれとこれとは話は別である。
しかし、逆算すれば、何だかんだでおおよその価値基準は把握することができた。
スーパーマーケットらしきところで売っていたパンの値段は、素朴すぎる簡素なパンだと平均三ユーロ程度、小さいものだと平均八ユーロ五十セント程度、大きいものは平均十三ユーロ程度であり、ここからおおよその価値基準は把握することができた。つまり、結局やはり小ファイデルタですら高すぎるということだ。
パンの値段さえ知れれば、その都市、あるいは国の物の価値はよくわかる。
とはいえ、サンプルは複数あった方が良いので、ステラは街を散策していく。
(ん、このパン美味しいな……手作りなのに安いし)
買ったパンをベンチで口に詰めながら。
そうして完全に一般的な価値基準──実は魔術協会の物価水準は少し高めで、一般層向けの量産品ですらこれほどなのだが、魔術協会以外の物価を知らない身にこの見落としを指摘するのは酷だろう──を学習したステラは、東区へと向かった。
東区では一転、店前の広告などにおいても、使われている通貨が異なっていた。
つまり、西区ではユーロ、東区ではファイデルタと、明確に経済的な格差が生まれているということだ。
しかも、もちろん物にもよるが、東区特有であろう品は基本最低でも一大ファイデルタだ。しかもそういった場合において、小ファイデルタはキリが悪いという理由であまり使用されていなかった。西区とは比較にならないだろう。
だとしても、ステラの手持ちには七千三百六十四大ファイデルタが存在する。富裕層ですら多少以上に躊躇うような品物でさえなければ、むしろある程度遊ぶことができるだろう。
だがしかし、それ以上の問題として、敢えて予定も計画も大して立てずに魔術協会へやってきたために、東区へ着き買い物の準備こそ整っているものの、肝心の目的そのものを保有していなかった。
東区は富裕層の街に対する先入観でありがちな、観光都市のような場所ではない。
日常生活で用いる日用品を売っている店や、スーパーマーケット的なサムシングの店まで、案外に範囲は広いのだ。
彼らが東区で日常生活を送っているであろうことを考えれば、まぁ当然のことではあるのだが、とはいえやはり宝石店や星が複数ついていそうな飲食店など、観光都市にありがちな店も西区に比べれば大量にあるのだが。
そういった店を眼球だけで確認したり、特に気になった店に足を踏み入れてみたりしているうちに、ステラは一つのことを思いついた。
それは、自作の永続的触媒を作ることである。
所謂ファンタジーの作品におけるマジック・ワンドに該当するそれは、基本的に個々人の魔術の癖や思想に基づくために、オーダーメイドか自作で制作する場合が多い。特に、高位の魔術師ともなればすべてが自作の永続的触媒のはずである。
魔術師によって永続的触媒に籠めるべき定数や関数、概念は大きく異なるために、量産品はほとんど論外。現状では必要性が薄くとも、魔術の上達を目指すには最終的に必須となるだろう。
ステラはその材料を求めて、触媒制作に用いるそれぞれの素材、生物材料や木材、石材に貴金属、宝石などを探すために、より深くそれぞれの店と、そこの品々を観察していく。
(なにこれ──すごい綺麗で、魔素もすごい……)
そして、彼女が出会ったのは、ラウンドブリリアントカットが施された七十七カラットの、千上ファイデルタの値段が定められた、完全な純度を持つ無色のダイヤモンドだった。




