【ChapterⅠ】Section:2 書庫
二時間──正確には上昇を始めてから一時間五十七分十二秒──が経った頃には、エレベータはいつの間にか館の地上一階に到着しており、揺れが納まったことで逆に違和感を感じたステラも既に起床していた。エレベータの扉が繋いでいた部屋は視認は問題なくできるものの薄暗く、一見綺麗に見えるが細かいところに埃などのゴミが残っており、まるでつい先ほど掃除されたかのような様相であった。いくつかの高級そうな──実際アーノルト家の他の部屋や廊下と比較すると数段階級が下がっており、しかし通常の品の何倍もの価値があった──調度品とそれらを無視して扉の方に向かい、真鍮製らしきドアノブを回そうとしたところでドアノブは強くそれを拒否した。一瞬驚いたような表情を見せた後に、思い出したようにインバーの鍵を取り出す。どうやら内外両方とも専用の鍵がないと開かないような構造の扉になっているらしい。それほどこの部屋、あるいは数学に基づいた地下の階梯を使っていないことまで理解した上での微妙そうな顔で娘に見つめられたのを嫌ったのか、真顔のまま鍵を錠前に差し込み、捻ることで小さな音を奏でる。自分たちから見て内側方向にドアノブを傾けたまま持ってくると、違和感しか感じない障害物が扉の前には存在した。材質的に家具の何かしらであることを察知し、地下室が隠蔽されている──確かに客観的に自分の二時間前の様子を見ると倫理的な問題しかないように感じる──のをはっきりと理解する。実際にアンジェリカがそれに触れ西側──最もここに方位磁針はないためドアの方向を北と仮定した上にはなるが──に動かすとやはりスライドし、外に出てみればそれがよく隠し扉を隠すのに使用される巨大な本棚であった。滑らせるのを前提にしているとしても滑りすぎではないかと考えるも、物理学的におかしな挙動の原理がよくわからないのでそれについて考えるのを止めた。本棚を元の位置に戻すのを見届けたところでエレベータを降りてから自身が強張った体勢だったのを思い出し、元に戻したところで体勢を調整……しようとしたが上手くできず、アンジェリカに微笑まれながら抱き方を変えることで体勢が調整された。人生初の恥ずかしさを刻まれつつ廊下を歩くリズムの振動に身を任せると、いくつかの扉の中から一つが開かれた。
そこは巨大な四本足の机といくつかの椅子があり、その中には子供用らしきものもあり、それは明らかにステラの為に用意されたものであった。机の上にはステラの分を合わせて三人分と思わしき食事が作られていた。食堂の奥側を見ると調理場が同室内に存在し、使用された痕跡のある、しかし片付けられた直後の様相を呈していた。メニューの中身はどのタイミングでかは流石にわからないがバターがしみ込んだライ麦のブレートヒェン、ポークシチューは香辛料や調味料がふんだんに使用された漬け汁に浸し、その後ワインで煮込まれたものを使っており、みじん切りにされた玉ねぎとジャガイモのハーブ焼きがベシャメルソースの下に隠れていた。三人とも献立自体は同じだったが、唯一違うのは大人二人分にはワイングラスと高級そうな赤ワインのボトルが置かれているのに対し、代わりにステラの席にはジンジャーエールが置かれていた。
「おっと、目覚めたようだね」
机の上の食事を眺めていると、突然聞き覚えのない声が耳に入ってくる。声の方向を見てみると、そこにはついさっきまで誰もいなかったはずなのに、自身と同じ色の髪を持つアンジェリカより十五センチ程身長の高い男が音もたてずに椅子に座っていた。
「アートマン」
自分が持っていた本を机の上に元々置かれていた本の上に重ね、こちらを向いた彼に親しげに話しかける母親の姿を見て、自身との共通点も踏まえ彼が父親であると考察を飛び越えて確信する。覚醒直後に見たこの屋敷は存在論的に物理的な地球から隔離されており、何かしらの承認がなければ訪れることができないようになっていた。そうすると許可されている、あるいは許可を与える側の中で自身との共通点がある男性はほとんどの場合において父親であると考えることができるはずである。
「ステラも目覚めたようだし、人生初めての食事にしようか」
それに頷き、アンジェリカはステラを席に着かせると、自身も与えられた席に座った。
「Guten Appetit」
彼のその言葉に反応して、アンジェリカがいつも通りに返答する。
「Mahlzeit」
「……Mahlzeit」
食事前の挨拶なのを察して、アンジェリカの真似をしてぎこちなく呟く。
ステラの初めての食事はお世辞にも成功体験であるとは言い難かった。周りの目を気にする場でもないのに優雅にテーブルマナーを守りながらフォークを進めるのに対して、もちろんステラはテーブルマナーのようなものを知らなかった。両親としては少なくともこの場では別にマナーの順守を求めていないものの、フォークとスプーン、ナイフの使い方すら知らなかった。その割には何故か地球上に存在するすべての言語──本当に理由はわからないが、コンピューターで使用される言語もそこに含まれている──はある程度の専門的な会話がそれでできる程度には理解していた。とはいえ、意味を理解したとしても使いどころがわかってないので宝の持ち腐れでしかないのだが。実際に、ステラは食前の挨拶で使用する単語こそ知っているし、意味もわかるものの、それを食前に口に出すことは知らなかった。年不相応に成熟しているように見えるが、やはり彼女は幼児だった。
苦戦しつつも何とか極上の旨さを報酬に食事を終えたステラに、北北西方向を指さしながらアートマンが語りかける。
「さて、何がやりたい?好きに選ぶといい」
指につられてその方向を見てみると、そこには小さな本棚を載せた台車があり、すべての学問とその下分野の参考書が揃っていた。食事中の様子から察するに、肉体の動きに意図的に制限を掛けることで身体のマニュアル操作をしている男の方を見ると、万人受けする笑顔を貼り付けたまま頷き返す。自分のこれからを決定するであろう行ないのすべてを自己判断が難しい年齢に委ねないでほしいとも考えたが、自分がその対称に当てはまるかと問われれば否としかステラには答えることができないので、大人しく適当なものを手に取ってみた。最初に手に取ったのは心理学の専門書であり、流し読みしてみると明らかに素人に取り扱わせるような代物ではないのは明らかだった。それを手に取った瞬間だけ違和感を感じ、流し読みするふりをしながら──流し読みとはいってもステラはハイパーサイメシアであるので、各ページの不自然感を覚えるような内容を記憶した上で付属された例題などを参考に帰納的に解読できるところをしつつではあるが──再びの起床から食事中まで並列で練習していた自分の『眼』で周囲を見てみるが、その原因となりそうなものは全く見つからなかった。探しても見つからなかったし気のせいだと思い込むことにして、次の専門書を手に取った。科学工学についてとシンプルに題された表紙を見て、不自然な感覚の理由を突き止めた。オーダーメイドである。それも筆跡が同一人物のものであった。一応ではあるが先ほどの心理学の専門書の内容がステラに理解できた理由は恐らくそれであり、まさしく彼女のためだけに直筆された宝物庫であった。いくつか読んだ中で、ステラが最も面白いと感じたのが理論物理学と、一般論でいえば空想上のものであり完全な異物でしかないであろう魔法であった。
いくつかの学問は一般層には伏せられているが、千年以上前にはそれらの痕跡が既に確認されていた。意外なことに古代ギリシャなどで確認されているような哲学や心理学のようなものではなく、それに現代でも通用するか、それ以上にも及ぶ量子力学や高度な数学のような類のものの形跡が残されており、オーパーツよりも謎であるとして現在もそれらの内容の正確性や由来などが研究されている。