第二章13『溶岩に架かる橋』
パイプオルガンが奏でる絶望の狂想曲とその演奏者は、どこからともなく発生した黒煙と陽炎の中から姿を現した。
「綺麗──」
──紅の獅子、炎を鬣として纏った太陽の化身。
そう信じきれるほどに、その存在は『美』をこれでもかとヒロトに見せつけていた。
かの獣が持つ美しさは一つの容赦も秘めておらず、金色に光る冷徹な瞳で二人を見つめている。
大地を踏みしめる度にその足元から火花が飛び散り、それが熱風に流され、やがて遠くで爆発する。 そんな光景を眺めてある二人の脚は、いつしか震えていた。
一メートル、また一メートルと、脳が迫り来る恐怖に一々反応してしまい、ここから自分達がどうすれば良いのかなんて考える暇を与えてくれない。
『──』
化け物は金と紫が織り成す不気味な瞳を揺らし、瞬時に自分と二人の間合いを詰めた。
一拍遅れてなびいた風と共に、その化け物が鋭利な爪を二人に振りかざす。
「あぶっ……!」
間一髪のところ、マレッカが咄嗟の判断でヒロトを抱きしめてその攻撃を躱した。
十時方向へと倒れ込んだ二人は慌てて立ち上がり、その化け物を見つめて後退りをする。
「あんなのまともに相手できねぇ! さっさと逃げるぞ!」
目の前の存在に命を危険に晒され、そのショックから二人の思考は完全に『逃げ』へと舵を切ってしまった。
いくらガルディノスやその取り巻きに対して二人が蛮勇で挑めるとしても、蒼の竜やこの化け物ではあまりにも格が違いすぎる。 はっきり言って、見ただけで勝負にならないことがわかってしまうのだ。
逃げる時はいつも上半身を数度ほど前に倒し、がむしゃらに手を振って走る。 それが一番、早く走れる気がするからだ。
あるいは、自分は今こうして走っているぞ、敵からちゃんと逃げてるぞと、大げさに動いて安心しているからだろうか。
「逃げるってどこに逃げるの!?」
「とにかく走り回んだよ! どっか抜け道探せ!」
「抜け道って……そもそもここどこなの!?」
「あの趣味の悪い橋の更に下だよ! 多分な!」
走りながらこの空間の全てを見渡す余裕はどこにもないが、漠然と把握できるのはここが橋の存在したマグマ地帯よりも下にあるということだ。
荒い息とともに揺れる視線を少し上に向けると見える岩のアーチの間に、それらしきマグマが落ちていくのが見える。 この流れるマグマこそが、この空間に転送される前にいた地帯から落ちてきたものだろう。
「抜け道なんてないって! 逃げ場がないんだよここには!」
辛うじて確認できる景色の中から抜け道のようなものを探してみるが、それらしいものは一つ見つからない。
それ以前にだ。 例え、この空間に誰かがご丁寧に用意してくれたような抜け穴やエレベーターがあったとしても、そこまでたどり着けるかどうかがヒロトは不安なのだ。
「探さなきゃ俺達死ぬだろうが!」
「それはっ……それは……」
なにか打開策をここでマレッカに突きつけて、そうしてハッピーエンドでこの危機から抜け出したかったが、生憎その打開策が見つからない。
「考えてることはある、だけど……」
いや、思いつきなら一つだけヒロトの頭の中にある。
もしそれを実行して、成功させれば彼らの首の皮は少しだけ厚くなるだろうと思える、そんな策を考えていた。
「それ言ってみろ! あの化け物に立ち向かえば救われるってんなら俺はそれすらも嫌々やってやるぜ、多分な!」
「戦わない戦わない! 目の前の岩のアーチを登って超えたら助かるかなって思ってさ!」
アーチを登るとは言ったが、その根本に到達するまでにそもそも高い岩壁を登らないといけない。 その壁がネックとなり、ヒロト自身がどうもいい案とは思えていなかった。
「ああ……そりゃ、戦うよりはマシかも──」
『グオォォォォン!』
「──なっ!」
化け物の咆哮が背筋に響き渡り、条件反射のようにマレッカは語尾の音量を上げた。
二人を挟む岩壁と化け物の距離がほんの二十数メートルとなり、いよいよ逃げ回る時間にも限りが見えてくる頃合いだ。
あの高い壁を登りきり、その上に立っているアーチの根元から頂上まで駆け上がる。 それも、途中で上から流れてくるマグマを避けながら。
二人にそんなトレジャーハンター的なアクションをやり遂げる自信は無かったが、もうそれしかない。
「僕が合図したら手を伸ばしてすぐに跳ねて!」
「いい角度してんじゃねぇか、なあ! 姿勢良すぎだろあの壁!」
ロッククライミングの経験など皆無に等しい彼らの緊張は計り知れないものだろう。
跳ねた先で壁の凹凸を掴めなければ失敗、手を滑らせても失敗、たった一度の過ちで死へと直結してしまう現実が握りしめられた手の内側を汗で濡らした。
唇を引き締める力が強まり、溜まった唾液を最後に飲み込んで、ヒロトはその合図を始めた。
「三、二、一、跳ん──」
紅色のゴワゴワした岩肌が指先に触れた瞬間、二人の身体は大げさに宙を舞った。
頬から目先へと去ってゆく火の粉が足元で鳴り響く爆音とともに弾け、それと移り変わったのは大量の岩片だ。
「掴まれッ!」
ヒロトは自身の足元で何が起きたかも把握できないまま、マレッカに壁を登る指示を出した。
自己主張の強い壁の凹凸は手をかけやすく、ヒロトの指示を聞いてそれを一瞬で実行することは、マレッカにとって容易いことだった。
「登るんだ! 急いで!」
「わーってるって!」
手や足を乗せられそうな箇所を瞬時に見極め、とにかくアーチの根元と自分の距離を縮めていく。 ただ、それだけに没頭することが今を生きるということだ。
「クソが……ッ!」
グローブの内側から血が滲む気持ち悪い感覚を心の中で噛み殺し、マレッカはとにかく上へと手を伸ばす。
互いに危機から逃げている状況で、自分よりも先へ進んでいる人間を見ているとどうも不安でならない。
上を見上げればもうすぐアーチの根元へと辿り着くヒロトがいて、見下ろす暇のない地面では何やら岩を壊しているような音が聞こえてくる。 それが今のマレッカにストレスを与えていた。
「マレッカ、早く! 僕の手を掴んで!」
壁を登りきったヒロトが、アーチの隣でしゃがみ、険しい顔で登るマレッカに手を伸ばしている。
その光景はマレッカにとっては嬉しくもあったが、同時に生まれた焦燥感の原因でもあった。
早くその手を掴まなければ、速く壁を登らなければ、そんな感情が心拍数を跳ね上げるのだ。
「そろそろだっての……もっと手を出せ!」
「う、うん! ほら!」
ヒロトは下へと、マレッカは上へと、それぞれが手をギリギリまで伸ばした瞬間、二人の手が繋がれた。
力強く引き上げ、マレッカもその勢いに全てを任せた結果、二人は第一関門であるロッククライミングを突破することに成功した。
「ハァ……クソ、そんな高すぎるってわけでもねぇのに……なんでこんな疲れやがんだ」
「さっきまでずっと走ってたからだよ。 それより、すぐにアーチの上から逃げないと!」
「わかったって! まだここを駆け上がる方が楽そうだしな、やってやるさ!」
生き抜くためには、疲れた体に鞭を打って無理矢理にでも動かすしかない。
狭い足場からマグマの奥へと繋がる、自然が生み出したアーチ状の橋に二人は足を乗せて、流れ落ちるマグマの向こう側へと駆け出した。




