『そうだ GU、行こう〜2026 FALL WINTER COLLECTION〜』(2026年9月22日投稿)
――動き易い服が無い。
私は下着のまま、クローゼットの前で腕を組んでいた。
困った。
非常に困った。
ドン。
玄関のドアが鳴った。
宅配便ではない。
ドン。
もう一度。
インターフォンは鳴らない。
ドンッ!!
今度はドアそのものが少し震えた。
「ヴ……ァ……」
外から、人間らしき呻き声が聴こえる。
私は息を止めた。
静かに。
お願いだから静かにして。
今、服を選んでいるの。
ニュースによると、国内で最初の感染者が確認されたのは十九日前だった。
原因不明。
治療法不明。
感染経路は血液、唾液。
高熱。
錯乱。
攻撃性の増大。
そして、理性の消失。
政府は彼らを『感染者』と呼んでいた。
SNSでは、もっと簡潔に呼ばれていた。
ゾンビ。
横浜市内にも感染が拡大し、昨日から不要不急の外出を控えるよう繰り返し呼び掛けられている。
不要不急。
便利な言葉である。
昨日までは私も家から出なかった。
……けれど。
冷蔵庫には水しかない。
一昨日、最後の冷凍パスタを食べた。
昨日、戸棚の奥から発見した賞味期限不明のクッキーを食べた。
今朝、何も無くなった。
つまり、私の外出は必要至急である。
問題は――動き易い服が無い。
私は再びクローゼットを見る。
ワンピース。ワンピース。ワンピース。
ジャケット。ジャケット。カーディガン。
スカート。
またワンピース。
パンプス。ローファー。サンダル。ブーツ。
……以上。
ジャージが無い。
スウェットが無い。
パーカーも無い。
スニーカーすら無い。
何故だ。
いつの間に私は、ここまで文明生活へ特化してしまったのだろう。
私は黒い花柄のワンピースを手に取った。
駄目だ。
可愛い。
可愛いが、走ることを想定して作られていない。
紺色のジャケット。
これも可愛い。
ただし、肩がしっかりしている。
ゾンビとの格闘には向いていない。
そもそも格闘したくない。
黒いカーディガン。
動ける。
だが、自動的に下がスカートになる。
私は身長一五三センチである。
人類の存亡以前から、服には常に丈という問題が付き纏っている。
世界が滅亡したからといって、突然脚が伸びたりはしない。
誠に理不尽である。
ドンッ!!
私は肩を跳ねさせた。
玄関。
……未だ居る。
ドン。ドン。
爪のようなものがドアを擦る。
カリ。カリ。カリ。
「……」
仕方無い。
今日は外に出るのを止めよう。
そう思った瞬間――
ぎゅるるるるる。
私のお腹が鳴った。
「……」
玄関の外が静かになった。
ゾンビにも聴こえたのかも知れない。
恥ずかしい。
私は冷蔵庫を開けた。
水。
閉めた。
もう一度開けた。
水。
閉めた。
冷蔵庫というものは、二回開けても中身が増えたりはしないらしい。
どうやら外へ出るしかない。
食料。
そして――
私はクローゼットを見た。
この先、いつまでこんな生活が続くか分からない。
逃げることになるかも知れない。
避難所へ行くかも知れない。
瓦礫を越えるかも知れない。
ゾンビに追われるかも知れない。
その度に、「今日はどのジャケットにしよう」と悩んでいる場合ではない。
必要なのだ。
動き易い服が。
私はiPhoneを開いた。
電波は未だ辛うじて生きていた。
検索する。
『GU 2026 秋冬 スウェット』
画面いっぱいに、私の知らない服が表示された。
「……」
そうだ GU、行こう。
* * *
私は家を出た。
服を着て。
当然である。
服を買いに行く服はある。
そこには何の問題も無い。
問題なのは、動き易い服が無いことだ。
マンションの廊下には誰も居なかった。
階段を使う。
エレベーターは怖い。
途中で開いたら逃げ場が無い。
一階。
エントランス。
自動ドアは開いたまま止まっていた。
外へ顔を出す。
道路には斜めに停まった車がある。
運転席のドアが開いている。
誰も居ない。
遠くから煙が上がっている。
救急車のサイレン。
その更に向こうから、銃声らしき音が三回。
私は歩き出した。
カツ。ペタン。
「……」
カツ。ペタン。
「……」
私の靴が五月蝿い。
こんなにもヒールサンダルが自己主張の激しい履物だとは知らなかった。
普段は好きな音である。
今日は嫌い。
カツ。ペタン。カツ。ペタン。
少し速く歩く。
カツカツカツカツ。
……駄目だ。
逃げる人ではなく、急いで会議へ向かう人みたいになっている。
通りの向こう。
男性が立っている。
私は足を止めた。
背中を向けている。
白いシャツ。
スラックス。
……会社員だろうか?
「すみま――」
声を掛けそうになって、止めた。
男性の首が傾いている。
不自然な角度。
右肩が上下している。
何かを食べていた。
赤いものが見えた。
私は後退した。
カツ。
男性の動きが止まった。
「……」
こちらを見る。
口の周りが赤い。
「ヴァッ!」
走って来た。
「うわっ!」
私は走った。
カツカツカツカツカツカツカツ!!
サンダル。
五月蝿い。
死ぬほど五月蝿い。
私は角を曲がる。
細い路地へ入る。
鞄が身体にぶつかる。
ジャケットが腕を引っ張る。
後ろから呻き声。
――速いっ!
ゾンビ。
思っていたより速い。
映画と違う。
――走るじゃん!走るのは、『28日後…』からじゃんっ!!
「聞いてないっ!」
私はゴミ置き場の脇を抜けた。
自転車を倒す。
大きな音を置き去りに死に物狂いで駆け抜けた。
感染者が転んだ音がする。
私は振り返らない。
走る。走る。走る。
息が切れる。
肺が痛い。足も痛い。
サンダルなんて二度と履くものか。
――十分後。
私はGUの入口に立っていた。
ヒールサンダルで。
* * *
店内は静かだった。
照明の半分程が落ちている。
入口のガラスは割れていた。
マネキンが倒れている。
商品が何着か床に散乱していた。
それでも、大部分は綺麗だった。
色毎。サイズ毎。
整然と畳まれている。
私は少し感動した。
世界が滅亡しかけているのに、GUはGUだった。
入口のポスタを見る。
『2026 FALL WINTER COLLECTION』
今年の秋冬。
間に合った。
目的は明確である。
――ダル着。
人生で一着も所有したことがない。
そもそも『ダル着』という言葉の定義からして怪しい。
家で着る服?
コンビニまで行ける服?
そのまま寝られる服?
ゾンビから逃げられる服?
……最後だけ少し違う気がする。
私はスウェットの売場へ向かった。
最初に目に入った。
『スウェットバルーンスリーブフルジップパーカ UL』
――長い。
非常に長い。
一着の服に対する情報量ではない。
スーパーオーバーサイズフィット。
身長百五十三センチの私に対して、やや挑発的な文字列でもある。
私はGRAYのSを取った。
――これが一番小さいのかな?
鏡の前で身体に当てる。
大きい。
袖も太い。
肩も落ちる。
普段なら選ばない。
しかし……。
今日はダル着を買いに来たのである。
ダル着界にはダル着界の礼儀がある筈だ。
郷に入っては郷に従う。
私はフィッティングルームへ向かった。
途中、パンツを見付けた。
『ヘビーウェイトスウェット3DバレルパンツST』
iPhoneで同じ商品を検索してみる。
『丈短め』もある。
丈短め。
……素晴らしい。
世界が終わっても、小柄な女を見捨てない。
GU。
私は少しGUが好きになった。
但し、オンライン商品だった。
「……」
世界は、終わっている。
LIGHT GRAYを手に取る。
厚みがある。
名前はヘビーウェイト。
如何にも重そうである。
けれど持ってみると、思ったより軽い。
これなら走れる。
しかも暖かそうだ。
秋。
これから冬。
電気やガスが止まる可能性もある。
服に保温性がある。
文明が崩壊すると、それだけで有難い。
私は一着手に取り、フィッティングルームへ入った。
カーテンを閉める。
先ずパンツ。
穿く。
「……」
楽。
――何だ……これは。
腰。
楽。
太腿。
楽。
膝。
楽。
私は屈んだ。
楽。
立った。
楽。
もう一度屈んだ。
楽。
屈伸した。
楽。
片足を上げる。
上がる。
「……凄い」
服を着ているのに、身体が自由である。
今まで私は何を着ていたのだろう。
続いてパーカー。
羽織る。
ファスナを上げる。
鏡を見る。
「……」
誰だ?
袖の中に手が半分隠れている。
肩が落ちている。
身体の線がどこにも出ていない。
下も丸い。
上も丸い。
全体的に丸い。
フードを被ってみた。
「……」
顔だけ出た。
私は首を傾げる。
鏡の女も首を傾げる。
――可愛い。
いや、かなり可愛い。
私はフードを少し深くした。
もっと可愛い。
何処と無く『守ってあげたい』を刺激する。
普段の私には無い。
黒いワンピース。
ジャケット。
ヒール。
そういう服には、『守らなくても勝手に帰って来そう』という雰囲気がある。
これは違う。
グレーのパーカー。
グレーのスウェットパンツ。
袖から僅かに出た指先。
百五十三センチ。
――守ってあげたい。
良い。
非常に良い。
私は横を向いた。
後ろも見る。
シルエットも面白い。
パンツは太いだけではなく、膝の内側が少し入っているから立体的に落ちている。
ダル着の癖に、ちゃんとデザインされている。
「……」
『ダル着の癖に』は失礼かもしれない。
私は反省した。
これが二〇二六年なのだ。
人類はとうとう、『楽』と『可愛い』を両立させることに成功したのである。
パンデミックなど起こしている場合ではない。
私はもう一度屈んだ。
立つ。軽く跳ぶ。着地。
完璧。
ゾンビから逃げるなら、百点。
これにスニーカーを合わせればいい。
売場にスニーカーもある。
今日はもう、このまま全部揃えてしまおう。
そう思った――
ドンッ。
試着室の外で音がした。
「……」
私は固まった。
ズル。
ズル。
何かを引き摺る音。
カーテンの下。
影が通る。
人間の足。裸足。片方だけ。
足首から血が垂れていた。
私は口を押さえる。
――感染者。
直ぐ外。
心臓が速い。
息を止める。
ズル。
ズル。
影が止まった。
試着室の前。
近い。
私は鏡を見る。
グレーのパーカー。
グレーのスウェットパンツ。
動き易い。
――これなら逃げられる。
私は静かにフードを下ろした。
感染者の影が揺れる。
一歩。
遠離る。
もう一歩。
遠離る。
私は鏡を見た。
「……」
――可愛い。
本当に可愛い。
度し難い。
感染者の呻き声が遠くなる。
私は袖から指を出した。
ファスナを少し下げる。
もう一度上げる。
「……」
――可愛い。
だが――
私は鏡の自分を暫く見詰めた。
そして思った。
――誰だ、こいつ。
似合っている。
そこは認める。
寧ろ、相当似合っている。
ただ……愛崎朱憂ではない。
私はパーカーを脱いだ。
パンツを脱いだ。
畳む。丁寧に。
良い服だった。
非常に良い服だった。
商品に罪は無い。
寧ろ商品は今日の目的を完璧に達成している。
可愛い。
暖かい。
軽い。
動き易い。
つまり……
悪いのは私である。
私は持って来た服へ着替えた。
鏡を見る。
「……うん」
落ち着いた。
私はGUの商品を元の場所へ戻した。
一瞬だけ迷った。
パーカー。
やっぱり可愛い。
でも、今日は止めておく。
――文明が復旧したら買おう。
* * *
スーパーには、殆ど何も残っていなかった。
水。
缶詰。
栄養補助食品。
乾麺。
保存の利きそうな物だけ選ぶ。
鯖缶を三つ。
ツナ缶を二つ。
水を四本。
チョコレート。
そして――
プリン。
私はプリンを籠へ入れた。
冷蔵設備は未だ動いている。
賞味期限も大丈夫。
この状況でもプリンは必要だ。
寧ろこの状況だから必要である。
人間は糖分によって理性を保つ。
多分。
上白糖も三キロ分を籠に入れる。
紅茶が飲めなくては、WEB小説の更新もままならない。
レジには誰も居なかった。
私は財布を開いた。
現金。
カード。
使えるのか……?
セルフレジは止まっている。
「……」
困った。
万引きになってしまう。
世界が崩壊しているからといって、窃盗が合法になったというニュースは見ていない。
私は商品の金額を大雑把に計算した。
レジの上に五千円札を置く。
お釣りは要らない。
非常時である。
多少の誤差は許してほしい。
店を出ようとした時、外を三人の感染者が横切った。
私は柱の陰に隠れた。
――静かに。
三人。
未だこちらには気付いていない。
一人。
二人。
三人。
通り過ぎる。
私は息を吐いた。
そして、ふと気付いた。
鞄が重い。
水四本。
缶詰。
砂糖三キロ。
これで走るのか?
――あのスウェットなら。
考える。
いや、もう遅い。
GUへ戻るのは危険だ。
私は鞄を肩に掛け直した。
ジャケットの襟を整えた。
歩き出す。
* * *
午後一時十九分。
神奈川県警機動隊を中心とした救助部隊は、横浜市中心部の生存者捜索を継続していた。
感染拡大から二十日目。県内の死者および行方不明者数は把握出来ていない。
携帯電話網は断続的に停止。主要道路には放置車両が溢れ、救急車両の移動も困難になっていた。
午前中だけで救助部隊から十二名の負傷者が出ている。うち四名が感染者との接触による咬傷。既に隔離された。
市街地に残る生存者の数は不明。食料を求めて外へ出る者が増え始める時期だった。
「止まれ」
隊長が拳を上げた。
隊員達が停止する。
前方。
スーパーマーケット。
入口の自動ドアが開いたまま止まっている。周囲に感染者の姿は無い。
「第一班、正面。第二班、裏口へ」
「了解」
俺は第一班と共に店内へ入った。
鼻を突く臭い。
血。腐敗。床には割れた瓶。踏み潰された食品。
レジ横に、人間の腕が一本落ちていた。
身体は無い。
若い隊員が顔を背ける。
「目を背けるな。前を見ろ」
「はい」
店内を進む。
感染者は居ない。
食品棚は荒らされている。
菓子。パン。飲料。
殆どが床へ落ちている。
「隊長」
一人が声を上げた。
「ここです」
棚。ミネラルウォーター。
数本だけ、綺麗に抜かれている。
隣。缶詰。
「こっちもです」
少し離れた反対の棚。砂糖。
こちらも同じ。
「人間だな」
隊長が言った。
俺も頷く。感染者は商品を選ばない。パッケージを開ける知性もほぼ残っていない。
――生存者。
しかも最近ここへ来た。
「未だ近くに居ます」
「周辺班へ連絡」
「了解」
その時――
無線。
『第二班より本部! 接敵!』
一気に空気が変わった。
「数は!」
『十五、いや、二十以上! 東側道路!』
銃声。
一発。
二発。
三発。
『後退する!』
「第二班、そのまま南へ抜けろ!」
『駄目です! 後ろにも居る!』
怒号。銃声。呻き声。
『応援! 応援を要請する!』
「第三班、第二班へ向かえ!」
『了解!』
無線の向こうで何かが倒れた。
叫び。
『クソッ! 近い!』
「第二班!」
『う、うわああああああああ!!』
銃声。ノイズ。
――沈黙。
「第二班!」
返事は無い。
隊長が無線を握ったまま、歯を食いしばった。
誰も喋らない。
数秒。
「捜索中止」
隊長が言った。
「撤収する」
若い隊員が振り返る。
「でも、生存者が」
「部隊を全滅させる訳にはいかない」
「……はい」
「全班へ通達。生存者捜索を打ち切る。現在位置から順次離脱」
各班から応答。俺達も出口へ向かう。
『第四班より本部!』
無線。隊長が取る。
「こちら第一班」
『生存者発見! 繰り返す、生存者を発見!』
全員が止まった。
「人数!」
『一名!』
「性別」
『女性!』
「負傷は」
『目視では確認出来ません!』
「感染兆候は?」
『無し!』
「確保しろ。直ちに離脱する」
『了解!』
通信が切れる。
隊長が出口へ向かう。
数秒。
再び無線。
『……第一班』
「何だ」
第四班。
声がおかしい。
『少し、待ってください』
隊長の眉が動いた。
「感染者か」
『違います』
「負傷したのか」
『違います』
「なら報告しろ」
沈黙。
『いや、その……』
「何だ!」
『あれは……』
「どうした!?」
また沈黙。
そして――
『妙に仕上がってます!!』
「……何?」
隊長が止まった。全員が顔を見合わせる。
『妙に仕上がってます!』
「何がだ」
『生存者がです!』
「お前は何を言ってる」
『見れば分かります!』
訳が分からなかった。
俺達はスーパーを出た。
数分後。
道路の向こうから第四班が現れた。
三人。
四人。
その中央――女。
小さい。
防護装備の隊員達に囲まれているから、余計に小さく見える。
百五十センチ少し。
多分、そのくらいだ。
最初に目へ入ったのは髪だった。
黒。顎の辺りで真っ直ぐ切られたボブ。
前髪も揃っている。
感染拡大から二十日目とは思えない。
次にジャケット。黒に近い、深いチャコール。肩は大きくない。寧ろ身体に沿うように絞られている。着丈が短い。腰の位置で綺麗に切れていた。小柄な身体を大きく見せるのではなく、逆に小ささそのものをシルエットへ組み込んでいる。
中には、僅かに艶のある淡いピンクのトップス。ジャケットの黒との間で、一度だけ光る。
高い位置から始まる黒いミニスカート。裾は真っ直ぐではなく、歩く度に僅かに揺れる。
脚には薄い黒のタイツ。
足元はつま先の開いたヒールサンダル。ヒール……高過ぎない。だが――ある。
左胸には、小さな銀色の花のブローチ。
右手にはミネラルウォーター。左手にはスーパーの袋。袋から鯖缶と大量の砂糖が見えている。
ジャケットの袖には、乾いた血が一筋だけ付いていた。
それ以外は……
完成していた。頭の先からつま先まで。完全に。
避難して来た人間には見えない。パリのショー会場へ向かう途中で、たまたま人類が滅亡した。
そう説明された方が、未だ理解出来る。
俺は第四班の隊員を見る。目が合った。彼は小さく頷いた。
――言いたいことは分かった。
確かに。妙に仕上がっている。
隊長が女へ近付いた。
「怪我は?」
「ありません」
「噛まれていませんか」
「はい」
「血が付いている」
女が自分の袖を見る。
「あ」
今、気付いたらしい。
「私のではないです」
「接触したんですか?」
「少し」
「少し?」
「追い掛けられました」
隊長が女の足元を見る。
俺も見る。
――ヒール。ボルドーのペディキュアが爪の根本まで綺麗に塗られている。
その視線に気付いたのか、女はほんの少しつま先を内側に向けた。
「……その靴で?」
女も足元を見る。
「はい」
「走った?」
「はい」
「走れました?」
「走り難かったです」
即答だった。
隊長が黙る。俺も黙る。第四班も黙る。
「もっと動き易い服は無かったんですか?」
隊長が訊いた。
女は少し考えた。
「無かったです」
「無かった?」
「家には」
「……家には?」
「はい」
「その言い方だと、他にはあったんですか」
「ありました」
隊長が目を細める。
「どこに?」
「GUに」
沈黙。
「GU?」
「はい」
「行ったんですか?」
「行きました」
「今日?」
「はい」
「……服を買いに?」
「動き易い服が無かったので」
俺は理解するのに数秒掛かった。隊長も同じだったと思う。
「買わなかったんですか?」
「はい」
「どうして?」
女は少し困った顔をした。
「かなり良かったんですけど」
「良かった?」
「パーカーも可愛かったです。パンツも凄く動き易くて。丈短めもありました」
第四班の一人が俯いた。肩が震えている。笑っている場合ではない。多分。
「だったら――」
隊長が言った。
「それを着れば良かったでしょう」
「そうなんですけど」
女はスーパーの袋を持ち直した。鯖缶。水。チョコレート。プリン。砂糖。
「似合ってましたし」
「……はい」
「暖かかったですし」
「はい」
「走り易かったです」
「なら何で?」
女は黙った。風が吹いた。顎で切り揃えられた髪が、僅かに揺れる。
彼女は左胸へ手を伸ばした。銀色の花。ほんの少しだけ傾いている。
それを真っ直ぐに直す。
満足したように指を離す。
「失礼かなって」
隊長が眉を寄せた。
「何が?」
女は道路の向こうを見る。数百メートル先。交差点。感染者が一体、こちらへ向かって歩いて来ている。その更に後ろ。もう一体。二体。三体。
隊長が手を上げた。
「撤収!」
隊員達が動き出す。女も歩き出した。
カツ。ペタン。
ヒールが道路を鳴らし、一拍遅れてサンダルの底が踵を叩く。
カツ。ペタン。
妙に良い音だった。
俺は女の横を歩きながら、もう一度だけ訊いた。
「誰に失礼なんです?」
女は首を傾げた。質問の意味そのものが、よく分からないらしい。
そして、感染者の群れを見た。
――ゾンビに会うのに、ダル着は失礼だ。




