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特定生命終止許可制度  作者: 御影のたぬき


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執行 前編

 刺したのは、夜の九時十七分。


 現場は品川区の路地。車一台がやっと通れるほどの幅しかなく、両脇にはコンクリートの塀が続いていた。照明は端に一本あるだけ。師走の夜で、風は冷たかった。


 桐島健介は、木村達也が路地に入ったのを確認し、五秒数えた。


 一。二。三。四。五。


 それから、歩き出した。


 木村は振り返らない。気配を消すのは、刑事として身に染みついていた。二十年、夜の現場を歩いてきた。足音を殺す歩き方など、いまさら意識する必要もない。


 十メートル。七メートル。五メートル。


 端末を出す。


 対象者の端末情報との照合が完了した。短い電子音。カウントダウンが始まる。


 十分以内に、致死行為。


 木村が立ち止まった。スマートフォンを取り出している。画面の光が顔を照らした。


 桐島は三歩で距離を詰めた。


「木村」


 声をかけると、男は振り返った。


 脂ののった顔。五十近くに見える。額に小さな傷がある。昔の抗争の跡だろうか。


 桐島の顔を認識するまで、一秒かかった。


「……誰だ」


「桐島健介。警視庁捜査一課」


 木村の表情が固まる。


「刑事が」


「……何しに来た」


「三浦のことで」


 木村は一瞬だけ目を細めた。


「一殺権を取りました」


 端末の画面を向けると、木村はその場で後退する。背中が塀にぶつかった。


「待て」


「待ちません」


「俺は、関係ない」


「関係あります」


 ナイフを出した。


 包丁ではない。工具店で買った、刃渡り十二センチの折り畳みナイフだった。


 木村が叫ぼうとする。


 だが、桐島の手のほうが先に動いた。


 腹部に一回。深く入れ捻った後に抜く。


 木村は声を出さなかった。膝から崩れ落ちる。大量の出血、塀に沿って、ずるずると落ちていった。


 桐島はしゃがみ込み、木村の顔を見た。


 木村は口を開けていた。言葉は出ない。目だけが動いている。


 雨が、少し降り始めていた。路地のコンクリートに、細かい粒が落ちる音がした。


 桐島は動かなかった。


 端末に手を伸ばし、救急への通報を入力する。


 制度の規定だ。執行完了後、申請者は最寄りの緊急機関への通報に努めることとされている。


 場所と状況を入力し、送信した。


 木村の目が、どこかを見ていた。


 何を見ているのか、桐島には分からなかった。


 二分後、木村の息が完全に止まった。すぐに端末に通知がきた。


 **執行認証完了。合法行使として記録されました。**


 桐島は、その画面を見た。


 三浦のことを考えた。


 そして、何も考えなかった。


     *


 執行の前夜、桐島はアパートでビールを一本飲んだ。


 特に意味はない。飲みたい気分だったから、飲んだだけだ。


 テレビは消えていた。


 部屋は静かだった。


 明日の夜、自分は人を殺す。


 そのことを、あらためて整理しようとした。が、できなかった。


 そもそも整理する必要があるのかどうか、それすら分からない。


 刑事として、現場で証拠を見ながら考えるのは得意だった。だが、机の前で、まだ起きていないことを考えるのは苦手だ。


 三浦もそうだった。


「俺は、現場に行かないと何も分からない」


 三浦は、よくそう言っていた。


「書類を読んでいるより、現場の匂いを嗅いだ方が早い」


「それは経験則か、それとも勘か」


「両方だ。経験と勘は、分離できない」


 そういう話を、よくした。


 話題の多くは仕事だった。


 三浦はあまり、プライベートの話をしなかった。


 家族のことは、ときどき口にした。


 息子が学校でトラブルを起こした、と一度だけ話したことがある。


「どういうトラブルだ」


「友達の物を壊した。故意ではないらしいが、あやまり方が悪かったと先生に言われた」


「どうした」


「一緒に謝りに行ったよ。息子に、謝るときは相手の目を見ろと言った」


「それだけか」


「それだけ。あとは、息子自身が考えることだ」


 三浦は、息子に対して感情的になることがなかった。


 淡々としていた。


 それは仕事でも家庭でも一貫していた。


 桐島には子どもがいない。


 妻とは離れて、もう十年になる。


 仕事が原因だったとも言えるし、そうでないとも言える。


 離婚の理由を、桐島はあまり考えないようにしていた。


 考えたところで、何かが変わるわけではないからだ。


 ビールを飲み干した。


 缶をゴミ箱に捨てる。


 明日の夜、人を殺す。何かが変わるだろう。


 桐島は、その晩早く寝ることにした。


 眠れるとは思っていなかったが、思ったより早く眠れた。


 夢は見なかった。


     *


 翌朝、ニュースは燃えた。


「警視庁刑事、一殺権を行使」


「現役捜査官が合法殺人、対象は元暴力団関係者」


「殉職刑事の復讐か。桐島刑事の動機に注目」


 テレビ局の朝の報道番組は、七時台から特集を組んだ。


 コメンテーターの意見は、最初から割れた。


 元検察官の弁護士が言った。


「制度上は完全に合法です。純善値条件を満たし、申請手続きも正規ルートで行われた。ただ、現役の警察官が制度を使ったという点に、重大な問題提起が含まれています」


 元警察官僚の評論家が言った。


「三浦刑事は職務中に亡くなった。桐島刑事が一殺権を行使したことは、彼が個人として持つ権利の行使です。職業を理由に権利が制限されるべきではない」


 司会者が問う。


「では今回の件について、制度そのものの是非はいかがでしょう」


 スタジオが、一瞬だけ沈黙する。


 誰もが、自分の言葉を選んでいた。


     *


 三浦隆が死んだのは、一年と六か月前。


 六月の夜。倉庫街。麻薬の密輸に絡む内偵捜査の最中だった。


 木村の組織が、港区の倉庫を中継地点として使っている。そういう情報が、三課の協力者から入った。


 信頼できる情報だった。ただ、情報源の身の安全を考えると、動かせる人間を絞る必要があった。


 桐島と三浦は、現場確認だけのつもりで向かった。


 倉庫の外観を確認する。人の出入りを見る。もし動きがあれば、翌日に応援を呼んで本格的に動く。それが計画だった。


 問題は、倉庫の内部だった。


 外から見ると、明かりが漏れていた。人がいる。


「中が見えるところまで、俺が先に行く」


 三浦が言った。


「やめとけ、待った方がいい。明日、ちゃんと人数を揃えて来た方がいい」


「確認だけだ。動く前に、何がいるか分からないと判断できない」


 桐島は、三浦の判断を止める材料を持っていなかった。


 内偵の経験が長い三浦を、桐島は信頼していた。


「…分かった。俺も続く」


「少し待て。二人で動くと気づかれやすい。三分後に来てくれ」


 三浦はそう言って先行した。


 三分後、桐島が追うと、三浦は倒れていた。


 頭部への打撃。現場から逃走した複数の人物の足跡が、砂に残っていた。


 倉庫の扉は開いたままだった。中は空だった。


 三浦は病院に運ばれたが、意識を戻さないまま、三日後に死亡した。


 四十一歳だった。


 妻と、息子が二人。上は中学一年生、下は小学三年生だった。


 葬儀は六月の末に行われた。梅雨の合間の晴れた日で、陽射しが妙に明るかった。


 桐島は、棺の前に立った。


 三浦の顔は、眠っているようだった。殴られた傷には、処置が施されていた。


 三浦の息子が、父親の手に触れた。


 上の子は、泣くのを我慢していた。


 下の子は、状況をまだよく分かっていないような顔で、母親の袖を引いていた。


 桐島は、その場から動けなかった。


 あのとき、もう一度止めていれば。


 あのとき、二人で動いていれば。


 応援を呼ぶことを、最初から強く主張していれば。


 すべて、後からなら言えることだった。


 捜査は始まった。


 だが、容疑者を特定することはできなかった。


 足跡は残っていた。指紋もいくつか検出された。だが、直接三浦を殴った人物の特定には至らなかった。木村の名前は内偵資料に出ていたが、現場にいたことを示す証拠は、弁護側に崩された。


 木村は任意同行に応じた。


「その夜は別の場所にいた」


 そう言った。


 アリバイの裏付けがあった。そのアリバイが作られたものだと桐島は確信していたが、証明はできなかった。


 現場から検出された指紋は、木村のものではなかった。


 木村が直接手を下したとは限らない。組織の人間を使ったのかもしれない。その人間の特定には至らなかった。


 立件できなかった。


 捜査は、実質的に止まった。


 桐島は、その後も捜査を続けた。


 最初の三か月は、組織の正式な捜査として。


 新しい証拠は出なかった。


 捜査本部は縮小し、担当者は減らされた。


 桐島は、プライベートの時間を使ってでも捜査を続けた。


 妻と別れて十年になる。帰っても一人、誰もいない。


 時間はあった。


 木村の行動を、可能な範囲で追った。


 週に何回、どこへ行くか。誰と会うか。どの車を使うか。


 刑事としての訓練と経験は、そういう調査には役に立った。


 木村は、六か月後に事務所を移転した。


 一年後には、建設業の会社を設立した。


 新しい名刺を持ち、商工会議所に顔を出し、地域の行事にも顔を出した。


 純善値が百十六の男が、市民として生きていた。


 そのことが、桐島の中で少しずつ固まっていった。


 この男を、通常の捜査で立件することはできない。


 証拠がない。


 証拠を得る手段がない。


 ならば…。


 制度を使う。


 その考えが浮かんだのは、三浦が死んで八か月後だった。


 すぐに行動したわけではない。


 長く考えた。


 正しいか間違いかではない。

 どこまで、自分の誠実さを保てる範囲かを。


 職権を使わないこと。


 私的な調査を超えないこと。


 制度の規定を守ること。


 その範囲でできることが、申請だった。


 申請書を書いたのは、それから半年後だった。


 計画的だったのか、と問われれば、そうだと思う。


 衝動的ではなかった。


 ただ、冷静でもなかった。


 三浦の顔を、ずっと思い出しながら決めた。


 死んだ日の顔ではなく、生きていた頃の顔を。


     *


 三浦の妻、早苗は、息子二人を連れて、実家のある名古屋へ帰った。


 桐島は、その引っ越しを手伝った。


 荷物を運びながら、早苗は何も言わなかった。泣きもしなかった。ただ、ときどき手が止まった。


 段ボール箱の一つに、三浦の手帳が入っていた。仕事用ではなく、プライベートで使っていたらしい小さな手帳だった。


 早苗はそれを見て、少しだけ手を止めた。


 それから、また箱にしまった。


 出発の朝、早苗は一度だけ言った。


「桐島さんが無事で良かったです」


 桐島は、その言葉に返せなかった。


 三浦が先行していたのは、桐島が応援要請を押さえたからだ。


 漏洩を懸念したのは三浦だったが、判断したのは二人だった。


 その夜は、ずっとそれを考えていた。


     *


 申請を出してから、審査結果が届くまでの二十六日間、桐島は普通に仕事をした。


 外面では。


 毎朝、署へ向かう電車の中で、自分が何をしようとしているのかを考えた。


 一殺権の申請をした。それが通れば、木村を殺す。


 それだけのことだ。

 だが、そのことが、頭の中から消えることはなかった。


 考えが薄れる日と、強くなる日があった。


 事件の捜査が忙しい日は、薄れた。


 夜、一人でいる時は、強くなった。


 三浦は、よくこう言っていた。


「証拠がなければ動けない。感情だけで動く刑事は、最終的に仕事ができなくなる」


 冷静でいることを、三浦はいつも大事にしていた。


 だが、その三浦自身が先行したのは、なぜだったのか。


 冷静な判断だったのか。


 それとも、何か別の考えがあったのか。


 分からなかった。


 今となっては、もう聞くことはできない。


 十五日目の夜、桐島はアパートで手帳を開いた。


 仕事用の手帳ではない。三浦が死んでから、時々書くようになった別の手帳だ。


 書いていたのは、日記ではない。


 思い出したことを、箇条書きにしていた。


 三浦が言っていたこと。三浦がしていたこと。二人でいた時間のこと。


 死んだ夜の前に、最後に話したのは何だったか。


 その日の午後、署の廊下で話をした。別件の捜査について、五分ほど。


 それが最後だった。


 特別な言葉はなかった。


 仕事の話だった。


 たぶん、最後の会話は、いつも仕事の話だ。


 そういうものだと思った。


 三浦は良い刑事だった。


 証拠に忠実で、感情に流されず、被害者に丁寧に向き合った。


 それが、純善値に積み上がっていたはずだ。


 桐島は、その数字を知らない。


 知らないまま、三浦は死んだ。


 制度上、死んだ人間の純善値は、公的には開示されない。


 どこかに記録されているはずだが、遺族にも同僚にも届かない。


 三浦の純善値がいくつだったのか、桐島は永遠に知らない。


 それが、少しだけ引っかかっていた。


 知ったところで、何が変わるわけでもない。


 だが、知りたかった。


 二十日目、署内で別の刑事と話した。


 捜査二課の刑事で、名前は田辺といった。三十八歳。桐島より五歳下だった。


「申請したって聞いた」


 田辺が言った。


「はい」


「木村達也に」


「そうです」


「通ったら、どうするつもりですか」


「執行します」


 田辺は少し間を置いた。


「俺には、できない気がする」


「そうですか」


「怖いとか、悪いとか、そういう理由じゃない。ただ、自分の手でやることの意味が、想像できない」


「想像できなくても、できます」


「そういう意味じゃない」


「どういう意味ですか」


 田辺は少し考えた。


「やった後、自分がどうなるかを想像できない。良い方に変わるのか、悪い方に変わるのか、それとも変わらないのか」


「変わらないかもしれません」


「それが、一番怖い」


「なぜ」


「何かをして、何も変わらないなら、意味がないじゃないですか」


 桐島は少し考えた。


「意味があるかどうかは、今の時点では分かりません。ただ、しなければならないことがある。それだけです」


「しなければならない、とはどういう意味ですか」


「しないと、終わらないことがある。終わらないまま続けることが、私にはできない。そういう意味です」


 田辺は、その言葉をしばらく考えていた。


「終わる、というのは、三浦さんへの気持ちが終わる、ということですか」


「終わるとは思っていません。ただ、別の形になる。そう思っています」


「別の形とは」


「分かりません」


 田辺は少し笑った。


「分からないことばかりですね」


「そうですね」


「申請、通るといいですね」


 桐島は、その言葉を聞いた。


 通るといい、というのは、木村に死んでほしいということか。


 それとも、桐島がしたいことができるといい、ということか。


 どちらかは分からなかった。


 田辺自身も、どちらの意味で言ったのか、分かっていなかったのかもしれない。



 窓口の担当者の名札には、「小此木」とあった。四十代位の男で、書類に向ける視線に変化はない。


「申請者の職業を確認します。現職の警察官ですか」


「はい」


「職務上の関係者に対する申請ではありませんか」


「内偵対象だった人物です。ただし、直接の業務上の接触は一度も行っていません」


「その点について、書類で確認します」


 小此木は端末を操作した。


「申請は受理できます。ただし、現職警察官からの申請は、通常より精査に時間がかかることがあります」


「どのくらいですか」


「三週間から一か月程度です」


「理由は」


「職務上の立場と、申請動機の分離を確認するためです。制度の趣旨上、職権を背景にした申請であってはならない」


「警察官からの申請は、過去にありましたか」


 小此木の動きが、わずかに止まった。


「件数はお答えできません。」


「件数ということは、あったということですね。過去の案件では、どうなりましたか」


「個別案件についてはお答えできません」


「審査が通ったかどうかも」


「はい」


 桐島は少し考えた。


「つまり、私が捜査権限を使って申請を有利に進めていないかどうかを確認する」


「そうです」


「それは、正当な確認です」


 小此木は顔を上げた。


「ありがとうございます。そう言っていただける方は、あまりいません」


「当然のことだと思います」


 申請理由の欄には、簡潔に書いた。


「職務遂行中に死亡した同僚との関係。および、その死に関与したとする根拠」


 根拠として、内偵資料の抜粋と、木村の周辺調査の記録を添付した。いずれも公式の捜査資料ではなく、桐島が私的に集めたものだった。


 小此木が書類を確認しながら言った。


「これは、公式の捜査記録ではありませんね」


「私的に収集したものです。捜査権限は使用していません」


「確認します」


 書類の確認に、三十分かかった。


 精神鑑定の面談は、若い女性職員が担当した。


「お仕事柄、こういった申請に対して特別な考え方をお持ちですか」


「どういう意味ですか」


「警察官として、制度を支持するかどうか、という意味です」


 桐島は少し考えた。


「支持も反対もしていません。制度は制度として機能している。私は個人として、その制度を使うことにしました」


「職務上の立場と、個人としての立場を、分けて考えているということですか」


「できる限り、そうしています」


 女性職員は、何かを書き留めた。


「一点だけ聞かせてください」


「どうぞ」


「申請を通じて、警察官という立場が有利に機能した部分はありますか」


 桐島は、正直に答えた。


「あると思います」


「どういう部分ですか」


「対象者の行動パターンを、通常の市民より詳細に把握できた。これは職務経験から来るものです。申請手続きそのものへの有利さではありませんが、執行に向けた準備において、私は他の申請者より有利な立場にあったと思います」


 女性職員は、また何かを書いた。


「正直にお答えいただけましたね」


「そうでなければ、意味がありません」


「もう一つ聞かせてください」


「はい」


「今後、この申請が通った場合、それを職場の同僚に話すつもりはありますか」


 桐島は少し考えた。


「上司には報告します。他の同僚には、問われれば答えます。積極的に話すつもりはありません」


「なぜ」


「私個人の判断が、他の人間の行動基準になることを、望んでいないからです」


 女性職員は、長いあいだ何かを書いていた。


 面談を終えて廊下に出ると、窓の外が見えた。


 晴れていた。


 桐島は、三浦の顔を思い出した。


 倒れていたときの顔ではない。


 二人で深夜の牛丼屋に入り、玉子が1つしかないと店員に言われ、玉子をどちらが食べるかで揉めていたときの顔。


「この前奢ってやったよな」


「それとこれとは別の話だ」


 くだらない話だった。


 それがなぜ今になって浮かぶのか、分からなかった。


     *


 申請してから審査結果が届くまでの二十六日間のことを、もう少し話しておく。


 十二日目、桐島は三浦の案件の捜査記録を改めて読んだ。


 公式の記録ではない。自分で作ったものだ。


 三浦が死んでからの一年間、桐島は証拠を探し続けた。


 木村が、三浦の死に関わっている。


 それを示す証拠が、どこかにあるはずだった。


 足跡。指紋。目撃者。通信記録。口座の動き。


 一つひとつを当たった。


 足跡は残っていたが、木村のものではなかった。


 指紋は複数検出されたが、いずれも別人だった。


 目撃者はいなかった。


 通信記録から、事件夜の木村の位置情報を特定しようとしたが、捜査権限を使わずに取得できる情報には限界があった。


 口座の動きは、専門の調査業者に依頼した。


 調査業者から戻ってきた報告書には、「特異な動きなし」と書いてあった。


 木村は、事件の前後で金の動きを作っていなかった。



 捜査の壁は、二つあった。


 一つは、証拠の不足。


 もう一つは、桐島が職権を使えないことだ。


 捜査権限があれば、取得できる情報がある。通信キャリアへの照会、金融機関への照会、電話の通話記録。


 だが、使えば、それは職権乱用になる。


 私的な調査のために、職務上の権限を使うことはできない。


 桐島は、それを守った。


 一度だけ、誘惑があった。


 捜査データベースにアクセスすれば、木村の情報をより詳しく確認できる。それが分かっていた。


 だが、しなかった。


 理由は単純だ。


 それをした瞬間、自分がしていることの正当性が崩れる。


 制度の内側にとどまることが、最低限の誠実さだと思っていた。


 職権を使わずに集めた情報を、申請書類に添付し提出した。



 十八日目、早苗から珍しく連絡が来た。


 電話ではなく、短いメッセージだった。


「子どもたちは、元気です。長男が部活に入りました」


 桐島は、少し間を置いてから返した。


「良かったです」


「桐島さんも、体に気をつけてください」


 それだけだった。


 早苗がなぜそのタイミングでメッセージを送ってきたのか、分からなかった。


 申請のことを察していたのかもしれない。


 あるいは、ただそういう気分だったのかもしれない。


 どちらであっても、返事の内容は変わらなかった。


 桐島は、子どもたちの顔を思い出した。


 葬儀の日の顔。


 上の子は、泣くのを我慢していた。


 下の子は、状況をよく分かっていなかった。


 その子たちが、今は部活に入り、元気でいる。


 それが何かの答えだとは思わなかった。


 ただ、知ることができて良かった、と思った。


     *


 審査通過の通知は、二十六日後に届いた。


 **申請番号:T3-0213-51**

 **申請者:桐島健介**

 **対象者:木村達也**

 **事前審査結果:許可**


 **申請者純善値:三百八十**

 **対象者純善値:百十六**

 **許可基準値:三百四十八以上**

 **執行可能期間:通知日より三十日間**


 三百八十と、百十六。


 二十年間の積み重ねと、四十六年間の積み重ねが、数字になっていた。


 三百八十から三百四十八を引くと、三十二。


 その三十二が、木村を殺す資格の根拠だった。


 桐島は、しばらくその数字を見ていた。


 三十二という差を、何かで表せるかと考えた。


 できなかった。


 通知の末尾に、行使に関する注意事項があった。


 **執行後、善行ポイントの三割が消失します。現在の善行ポイントから三割を差し引いた値が、新たな計算の基準となります。**


 桐島は、その一文を読んだ。


 三割。


 二十年間で積み上げた善行の、三割。


 消える、という感覚はなかった。


 何かを持っているという実感がなかったから、失うという実感もない。


 ただ、数字が変わる。


 それだけだった。


 通知を閉じた。


 翌日、坂本課長に報告した。


 坂本は、しばらく黙っていた。


「本気か」


「はい」


「止める気はないが」


「はい」


「制度上は問題ない。ただ、現職の警察官が行使したとなれば、騒ぎになる」


「分かっています」


「騒ぎになれば、お前の今後の職が」


「分かっています」


 坂本はため息をついた。


「三浦の件は、俺も悔しい。証拠が出なかったのは、捜査の限界だ。お前を責める気はない」


「責めてもらって構いません」


「桐島」


「三浦が先行したのは、私が応援要請を止めたからです」


 坂本は、机に両手をついた。


「それは、判断としては……」


「後だから言えることです」


「そうだ。後だから言えることだ」


 坂本は顔を上げた。


「お前が何をしようと、組織として止める権限は俺にはない。ただ、一つだけ言う」


「はい」


「三浦は、お前が一殺権を使うことを、望んでいたと思うか」


 桐島は、少し間を置いた。


「望んでいないと思います」


「なぜ使う」


「望まれなくても、私がしなければならないことがあるからです」


 坂本は何も言わなかった。


 桐島も、それ以上は言わなかった。


 沈黙が、少し続いた。


「一つ聞いていいか」


 坂本が言った。


「はい」


「お前は、自分が正しいと思っているか」


 桐島は少し考えた。


「正しいとは思っていません」


「では、なぜだ」


「正しいかどうかが判断できないまま、しなければならないことがある。そういう状況だと思っています」


 坂本は、机から手を離した。


「俺は、申請しなかった。なぜしなかったか、自分でも分からない。ただ、しなかった」


「はい」


「どちらが正しいかは、俺には言えない。ただ、お前が選んだ以上、俺はそれを支持する。個人としてな」


 桐島は、その言葉を受け止めた。


「ありがとうございます」


「礼は要らない。仕事してくれ」


 坂本は書類に視線を戻した。


     *


 執行の三日前、桐島は三浦の墓に行った。


 神奈川の、小さな墓地だった。


 三浦の家族が選んだ場所で、桐島は一度しか来たことがない。


 六月の葬儀の後、一度だけ来た。そのときも一人だった。


 墓前に花を置いた。


 線香を立てた。煙がまっすぐに上がった。その日は風がなかった。


 しばらくの間、ただそこに立っていた。


 何を言えばいいのか、分からなかった。


 刑事として、言葉を扱う仕事をしていた。証言を聞き、記録し、供述調書を書く。人の言葉を何千も受け取ってきた。


 なのに、三浦に向かうと、言葉が出てこない。


 早苗には、事前に連絡を入れていた。


「申請が通りました」


 早苗は、しばらく黙っていた。


「知っていました」


「通知が届きましたか」


「被申請者の家族には通知が行かないと、以前聞いていました。でも、何となく分かっていました」


「止めますか」


 早苗は少し間を置いた。


「止めません」


「いいんですか」


「いいとか悪いとか、分かりません」


 それだけ言った。


「桐島さんが申請するだろうとは、ずっと思っていました。正直に言うと」


「何で分かったんですか」


「顔です。葬儀のとき、木村達也という名前が出たときの顔。隆と一緒に仕事してきた人の顔じゃなかった。」


「そうですか」


「私は、そのとき少し怖かったんです」


「止めたかったですか」


 早苗は少し考えた。


「分かりません、止める必要があるのかどうかも、分かりませんでした」


「桐島さん」


「はい」


「隆は、あなたのことを信頼していました。それだけは言えます」


「ありがとうございます」


「でも、隆が今ここにいたら、たぶん止めると思います」


「そうですね」


「止めないんですか」


「私には止められません」


 早苗は少し黙り。

 静かに言った。

 


 桐島は墓の前にしばらく立ち続けた。


 自宅に帰る時間も。三浦のことを考えた。


 死んだ夜のことを考えた。


 応援要請を押さえた瞬間のことを。


 三浦が「自分たちで確認する」と言ったとき、桐島は何も言わなかった。


 言わなかったことが、その時の判断だった。


 その判断は、間違っていたのかもしれないし。間違っていなかったのかもしれない。


 どちらかはわからない。


 ただ、三浦は死んだ。


 木村は生きている。


 その事実だけが、動かなかった。


     *


 執行の夜、桐島は仕事を定時で終えた。


 私服に着替え、ロッカーを閉める前に、手帳を一度見た。


 三浦と一緒に入った現場の記録が、いくつか残っていた。


 走り書きのメモ。対象者の情報。時刻。特記事項なし。


 三浦の字も混じっていた。


 二人で一つの手帳を使うことはなかったが、メモを共有するときに三浦が直接書き込むことがあった。几帳面な字だった。桐島のものより読みやすかった。


 手帳を閉じ、ロッカーを閉めた。


 駅まで歩き、電車に乗った。


 品川の駅で降り、コンビニでミネラルウォーターを買って飲んだ。


 木村の行動パターンは、把握していた。


 月曜の夜は、品川区内の知人宅を訪ねることが多い。帰りは九時頃。路地を通って最寄駅に向かう。


 浅野のような仲介者は使わなかった。


 自分で調べた。自費で。職権は使わなかった。


 調べる過程で、木村の日常が見えた。


 朝、コンビニで缶コーヒーを買う。昼は近くの定食屋。週に一度、ジムに通う。月に一度、品川の知人宅を訪問する。


 どこにでもいる、中年男の生活。


 路地の入口近くで待った。


 待ちながら、三浦の顔を思い出そうとした。


 思い出せなかった。


 三浦の顔を思い出せないまま、木村が現れた。


 そして、九時十七分になった。


     *


 執行の翌朝、桐島は警視庁に出頭した。


 一殺権の行使者は、執行後に管轄機関への報告義務を負う。合法行使であれば刑事責任は問われないが、事実確認と記録のための出頭は必要だ。


 担当は、捜査二課から派遣された刑事だった。


 桐島より年下で、顔に緊張があった。


「昨夜、木村達也氏に対して一殺権を行使したことを確認します」


「はい」


「執行は完了しましたか」


「しました。木村は病院に搬送されましたが、死亡が確認されました」


「申請手続きは適正に行われましたか」


「はい」


「現職警察官として、職務上の権限を行使のために利用しましたか」


「していません」


「職務上の情報を行使のために活用しましたか」


 桐島は少し間を置いた。


「私的に収集した情報を使用しました。ただし、その情報収集において、捜査権限は使用していません」


「具体的には」


「木村の行動パターンは、公開情報と自費での調査によって確認しました。捜査データベースへのアクセスは行っていません」


 これは本当のことだった。


 意図的にそうした。


 職権を使えば効率は上がる。だが、それは制度の外側に踏み込むことになる。


 制度の内側にとどまることが、最低限の誠実さだと思っていた。


 担当刑事は、記録を取りながら聞いた。


「執行の方法を教えてください」


「腹部への刺傷。刃渡り十二センチの折り畳みナイフを使用しました」


「一回ですか」


「一回です」


「通報は」


「認証完了後、すぐに救急へ通報しました。制度規定の通りです」


「通報したのに、死亡しましたか」


「私は、病院が助けられる状態かどうかを判断する立場にありません。制度の義務として通報しました」


 担当刑事の手が、少し止まった。


 それ以上は聞かなかった。


「以上を確認します。桐島健介さんは、特定生命終止許可制度に基づき、適正な手続きを経て、木村達也氏に対して一殺権を行使した。これに相違ありませんか」


「ありません」


「ありがとうございました。今後の手続きについては、別途連絡が入ります」


 部屋を出ると、廊下に坂本課長が立っていた。


「終わったか」


「はい」


「何か問題はあったか」


「ありません」


 坂本は廊下の壁を見た。


「騒ぎになってる」


「ニュースは見ました」


「署内でも、意見が割れてる」


「そうですか」


「具体的に言うと、お前を支持する声と、批判する声が半々くらいだ」


「半々ですか」


「支持する側は、法で裁けなかったものが裁かれた、と言っている。批判する側は、警察官が制度を使うのは筋が違うと言っている」


「どちらも、理解できます」


「お前は、どちらが正しいと思う」


 桐島は少し考えた。


「どちらも、部分的には正しいと思います」


「部分的には、か」


「どちらかが完全に正しいとは、思えません」


 坂本は、少し間を置いた。


「一時的なことかもしれない。ただ、しばらくは目立つ。それは覚悟しているか」


「はい」


 坂本は桐島の顔を見た。


「お前は、これで何かが変わったと思うか」


 桐島は少し考えた。


「変わっていないと思います」


「三浦のことは」


「変わりません」


 坂本は小さくうなずいた。


「そうだな」


 それだけ言って、廊下を去った。


 桐島は、その後ろ姿を見送った。


 坂本も三浦の案件を追い続けた一人だった。


 証拠が出なかった悔しさは、桐島だけのものではなかった。


 だが、坂本は申請しなかった。


 それは、それぞれの判断だった。


 桐島は、エレベーターホールに向かった。


 廊下で、別の課の刑事と目が合った。


 その刑事は、一瞬だけ足を止めた。


 それから、何も言わずに通り過ぎた。


 何を思ったのかは、分からなかった。


 支持したのか、批判したのか、ただ戸惑ったのか。


 エレベーターのボタンを押した。



 その朝の署内は、静かだった。


 ただ、静けさの質が、前日までとは違っていた気がした。

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