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特定生命終止許可制度  作者: 御影のたぬき


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6/8

清算 後編

 執行日は、通知から十六日目の月曜に決めた。


 雨の予報だった。


 朝から何も食べなかった。


 食欲がないわけではない。

 食べると体が重くなる気がした。


 刃物を用意したのは、二日前。


 台所の引き出しにある、料理用の包丁。


 別のものを用意することも考えた。

 だが、やめた。余計な動きを増やしたくなかった。


 包丁を、鞄の底に入れた。


 坂巻の行動パターンでは、月曜は決まった時間に事務所を出て、地下鉄で移動する。

 その途中に、人通りの少ない路地がある。浅野が地図で示した場所だ。


 認証アプリは、申請通過後にスマートフォンへ自動でインストールされていた。

 対象者の端末情報と照合し、接触認証が完了すればカウントダウンが始まる。


 十分以内に、致死行為。


 それだけだ。


 出かける前に、部屋をひと回りした。


 台所。冷蔵庫には、ほとんど何もない。

 牛乳が一本。卵が三つ。それだけ。


 今日帰ってきたら、何か買って帰ろう。


 そう思ってから、その考えが妙に滑稽に思えた。


 今日の夜のことを考えている。


 今日を無事に終える前提で。


 今日の夜が、どうなるかは分からない。


 成功すれば、自分は人を殺した人間になる。


 失敗すれば、何も変わらない。


 どちらにせよ、帰ってくる可能性は高い。


 合法だから、誰かに捕まるわけではない。


 執行後、手続きをして、帰ってくる。


 それだけのはずだ。


 机の上には、督促状が二通。封は切っていない。


 もうすぐ自己破産の手続きを始める。

 弁護士に連絡すれば、督促対応は向こうが引き受ける。


 壁には、何も飾っていなかった。


 引っ越して二年になるが、一枚も貼っていない。


 貼る気になれなかった。


 今の生活の状態が、そのまま壁に出ていた。


 傘を持ち、家を出る。


 ドアを閉める音が、いつもより大きく聞こえた。


 錯覚だ。


 雨は小降りだった。


 地下鉄の出口近く、細い路地の角で待つ。


 師走の夜。風が冷たい。


 外套を着ていても、じっとしていると体が冷える。


 鞄の中の包丁が、何度も意識に浮かぶ。


 料理に使う包丁が、今は別の目的で鞄の底にある。


 そういうことが、現実に起きている。


 自分のことなのに、少し遠い。


 待ちながら、坂巻のことを考えた。


 悪い人間だとは思わなかった。


 良い人間だとも思わなかった。


 ただ、純善値が百三の人間だ。


 国民平均の半分以下。


 それだけの悪行ポイントを積み重ねてきた生き方だった。


 だが――


 そう言うなら、純善値が三百十二ある自分が、今まさに人を殺しに来ている。


 三百十二。


 それは、十三年分の、他者のために使った時間だ。


 それが、これから何に変わるのか。


 朽木は三十分待った。


 そのあいだにも、何人かが路地を通った。

 帰宅途中らしい中年の男。イヤホンをしたまま足早に抜けていく若い女。缶ビールを片手にした作業着姿の男。


 誰も、朽木を見なかった。

 誰も、鞄の中身を知らない。

 知らないまま、通り過ぎていく。


 やがて、坂巻が現れた。


 紺のコート。

 傘は差していない。

 歩くのが速い。


 朽木は、その後ろについた。


 距離を詰める。


 路地の角を曲がった先で、坂巻は不意に立ち止まった。


 スマートフォンを見ている。


 止まり方が、あまりにも自然だった。


 さっきまであれほど足が速かったのに、急に止まる。


 朽木は近づいた。

 端末を操作する。


 接触認証。


 短い電子音。


 カウントダウンが始まった。


 坂巻が振り返る。


 雨に濡れた顔が、朽木を見た。


「……朽木か」


 名前を知っていた。


 知っていて、この路地に来た。


「申請番号は確認してある」


 坂巻は言った。


「名前も見た。介護の人間が来るとは思わんかったけどな」


 朽木は何も言わなかった。


 鞄を開ける。


「一殺権やな」


 坂巻の声音に、恐怖はなかった。

 ただ確認するような、静かな口調だった。


「浅野の組織から来たか」


「その人の依頼です」


「そやろな。うちの組織に対して、ずっとそういうことをやってる連中がおる」


 朽木は、わずかに間を置いた。


「知っているんですか」


「知ってる。二年前にも来た。一年前にも来た」


「一年前の人が刺したと聞いています」


「腹に一回。俺は死なんかった。救急を呼ぶ前に向こうが逃げた。執行失敗や。その人間は百万返したやろうな」


「なぜ逃げたと思いますか」


「倒れへんかったから、怖なったんやろ。一殺権を使ったことがある人間なんて、そのへんにはおらん。みんな素人や」


 坂巻は壁に背中を預けた。


 逃げる気配は、ない。


「二年前は」


「土壇場で止まった。期間が過ぎた」


「なぜ止まったと思いますか」


「金のためやったからやと思う」


 坂巻は、淡々と言った。


「金のための殺意は、最後の一歩でよれる」


「どういう意味ですか」


「理由のある殺意は曲がらん。本当に恨んでる人間が来たら、もっと怖い。でも、金のために来た人間は、あと一歩のところで別の何かを考えてまう。その一歩が、全部を変える」


 朽木は、カウントダウンの残りを見た。


 あと七分。


「私も、金のためです」


「知ってる」


「なぜ分かるんですか」


「顔を見たら分かる。恨みの目は、俺しか見えへん。お前の目は、別の何かを見てる」


「何を見ていると思いますか」


「借金か、帰り道か、それとも自分自身か。どれかは分からん。でも、俺以外の何かを見てる」


 正確だった。


「聞いていいですか」


 坂巻が言った。


「何ですか」


「将棋が好きな爺さんの話が、申請理由に書いてあった」


「担当していた利用者です」


「うちの案件で四十万やられた人やな」


「はい」


「俺が直接やったわけやない。でも、知ってた」


 朽木は、その言葉を受け止めた。


 知っていた。


「黙認したんですか」


「止める立場やなかった。でも、知ってた」


「それで、純善値が百三ですか」


「そんなもんやろな」


 坂巻は、雨の中で腕を組んだ。


「その爺さん、どんな人やった」


 朽木は少しだけ黙った。


「将棋が好きな人でした。毎週日曜にNHKの中継を見るのを楽しみにしていた。娘さんが遠くにいて、あまり来なかった。体が重くて、ベッドから起き上がるのに時間がかかる人でした」


「声は」


「低くて、ゆっくりした声でした」


 朽木は、少し間を置いて続けた。


「毎回、ベッドから起こすときに『すまんな』と言いました。最後まで、その口癖が抜けなかった」


「四十万なくなってから、どうやった」


「気づいていなかったのかもしれない。亡くなる前に通帳を見て、初めて気づいたようでした。もう戻らないから仕方ない、という顔でした」


「そうか」


 坂巻は、それ以上何も言わなかった。


 雨が、路地の端を流れていく。


「あなたは、その人の話を聞いて、何も感じないんですか」


 朽木は聞いた。


「感じる」


「何を」


「悪かった、と思う」


「思うだけですか」


「思うだけや。それ以上は、どうにもならん」


「四十万円を返すこともできなかった」


「返せんかった。仕組みとして、そうなってた。証明できへん。立件もされへん。せやから、黙ってた」


 朽木は、カウントダウンを見た。


 あと五分。


「俺も昔は、別の仕事をしてた」


 坂巻が言った。


「建設現場の安全管理やった。二十代の頃から十年ほど」


「今の仕事に変わったのは」


「現場で事故があった。二人死んだ。直接の原因は俺やない。でも、俺が見落とした部分があった。点検記録に抜けがあった。増設した箇所の確認を、俺はしてへんかった」


「責任を問われたんですか」


「直接は問われへんかった。会社的には処理された。でも、いられなくなった。事故から三か月後に辞めた。そのあたりから流れてきた」


「流れてきた先が、今の組織ですか」


「そやな。最初は末端の仕事やった。十年以上おったら、今の立場になってた」


「なぜ辞めなかったんですか。組織を」


 坂巻は少し考えた。


「辞める場所がなかった。安全管理の仕事は、事故を起こしたやつを雇わん。転職しようにも、空白が長くなる。金も要る。気づいたら十年や」


「流れてきて、流れ続けた」


「そういうことやな」


 雨が、路地の壁を伝っていた。


「あなたの純善値が百三なのは、その十年分ですか」


「たぶんそうや。ただ――」


 坂巻は、少し言葉を切った。


「建設現場にいた頃、事故が起きる前は、もっと高かったと思う」


「どのくらい」


「知らん。でも、もっと高かった」


 それから、静かに続ける。


「安全管理の仕事は、地道や。毎日、記録をつけて、現場を見て回って、作業員に声をかける。誰も見てへん仕事や。でも、誰かがやらんと人が死ぬ」


 朽木は、その言い方を聞いた。


 誰も見ていない仕事。

 けれど、誰かがやらなければ人が死ぬ。


「後悔していますか」


「してる。ただ、後悔してるからどうなる、いう話やない」


 朽木は少し止まった。


「それは、どういう意味ですか」


「後悔してても、二人は死んだままや。爺さんの四十万も戻らん。俺が悔やんでも、何も変わらん。せやから後悔は、持ち歩くしかない。持ち歩いてるだけで、何かの役に立つとも思えんけどな」


「なのに、持ち歩いているんですか」


「捨てられへんのや。そういうもんやと思う」


 カウントダウンは、あと三分。


 朽木は、包丁を握り直した。


 坂巻は、動かない。


「なぜ逃げないんですか」


 朽木は聞いた。


「逃げるのが嫌やねん」


「どういう意味ですか」


「三十日間、毎日考えた。逃げ続けるか。来たときに向き合うか。逃げ続けるのが、なんか俺らしくない気がした」


「二年前に来た人からは、逃げなかったんですか」


「あのときは逃げた。追われながら、なんで逃げてるんやろって思った。向こうが止まったからよかったけど、もし来続けてたら、どこまで逃げるつもりやったんか、今も分からん」


「今回は、逃げなかった」


「最初から、ここにおることにした。お前が来る日を、三十日間待ってた」


 朽木は、その言葉を聞いた。


 三十日間、待っていた。


「純善値が三百十二あるやつが、こんなことしてるのは、もったいない気はする」


 坂巻が言った。


「もったいない、ですか」


「介護で積んだ値やろ。その値が出てる人間が、俺みたいなやつを殺して、三割消えたら、百八十くらいになる。平均以下や。そんな値が出てた人間が、平均以下になる。もったいない気がする」


「数字の話ですか」


「数字の話や」


 坂巻は、少しだけ目を細めた。


「でも、その数字の背景にあるもんは、数字やない」


 朽木は、その言葉を聞いた。


 数字の背景にあるものは、数字ではない。


 十三年分のことを言っている。


 将棋番組が好きだった老人の声を思い出す。

 すまんな、という口癖。

 毎週、繰り返された言葉。


 それが、三百十二という数字の、ほんの一部だ。


 端末が震えた。


 **同期時間終了まで一分。**


 一分。


 朽木は、坂巻の顔を見た。


 坂巻は動かない。


 逃げようと思えば、逃げられた。

 足の速さは、尾行で知っている。

 この路地を抜ければ、人通りのある道に出られる。


 それでも、逃げなかった。


 朽木が来ると分かっていて、三十日間、待っていた。


「俺は、お前の借金のことは知らん」


 坂巻が言った。


「お前がここに来た本当の理由も、たぶん全部は分からん。ただ――」


「ただ」


「三百十二の値が出てた人間が、これで終わりにならんことを、少し思う」


 端末が短く鳴った。


 **執行認証失効。今回の執行は不成立です。期間内であれば再試行が可能です。**


 雨が、少し強くなっていた。


 朽木は、包丁を鞄に戻した。


 坂巻が、小さく息を吐く。


「……やめたか」


「今日は」


「今日は、ということは」


「期間は、まだあります」


 坂巻は少し考えた。


「また来るか」


「分かりません」


「分からん方がええ」


「なぜ」


「終わりが決まってたら、もう生きてるみたいな気がせんから」


 朽木は、その言い方を聞いた。


 もう、生きているみたいな気がしない。


「行きます」


 朽木は言った。


 坂巻は壁から体を離し、濡れたコートを見た。


「浅野に電話するんやろ」


「します」


「百万は返さなあかんな」


「分かってます」


「一つだけ言ってええか」


 朽木は止まった。


「なんですか」


「俺が今から死ぬかどうか、お前が決めるつもりやったやろ。それが合法かどうかは、俺には分からん。ただ――」


 坂巻は、少し間を置いた。


「お前が止まったのは、俺のためやないと思う」


「そうですね」


「どこかの爺さんのためでも、ない」


「たぶん、そうです」


「じゃあ、誰のためや」


 朽木は少し考えた。


「自分のため、かもしれません」


「自分のため」


「三百十二の値が、どこから来たのかを、今日初めてちゃんと考えた気がします。その値を使うことが、何を意味するかも」


 坂巻は、ほんの少しだけ口元を動かした。


「そういうことを考える人間が、金で動いた」


「はい」


「損な話やな」


「そうですね」


 坂巻は、傘も持たないまま路地を出ていった。


 朽木は、しばらくその場に立っていた。


 雨が、肩を叩く。


 路地の出口の向こうから、街の音が聞こえる。

 車の音。

 遠くの人の声。

 信号機の電子音。


 普通の夜が、すぐそこにあった。


 朽木は、ゆっくり歩いて路地を出た。


 *


 浅野からの電話は、三十分後だった。


「どういうことですか」


「できませんでした」


「理由は」


「ありません。できなかった」


「百万円は、返していただきます」


「分かってます」


「残りの期間、再試行はしますか」


「しません」


「そうですか」


 浅野の声に感情はなかった。


 怒りではなく、事務処理。


「ご連絡があれば、今後もご相談には応じます」


「結構です」


 電話を切った。


 地下鉄の駅で、ベンチに座る。


 鞄の中に、まだ包丁がある。


 台所に戻せば、また料理に使う包丁になる。


 そういうものだ、と思った。


 十分ほど座っていた。


 駅を行き来する人間を見ていた。


 改札を抜ける人。

 手をつないで歩く親子。

 スマートフォンを見ながら走る会社員。

 杖をついて、ゆっくり歩く老人。


 その一人ひとりに純善値がある。

 国家のどこかに、記録されている。


 自分のことを、誰も知らない。


 朽木慎一が今日何をしたか、誰も知らない。


 何もしなかったことも、知らない。


 立ち上がって、改札を抜けた。


 電車の中で、吊り革につかまって立つ。


 向かいのシートに、七十代くらいの男が座っていた。

 目を閉じている。


 眠っているのか、ただ閉じているだけなのか、分からない。


 その顔が、将棋番組の好きだった老人に少し似ていた。


 似ていないのかもしれない。


 電車が揺れる。


 男は、目を開けない。


 朽木は、その顔を見ていた。


 次の駅で降りた。


 *


 借金は、残った。


 一千八十万円は一千八十万円のまま残り、そこへ新たに百万円の返済が加わった。


 返せる目途は、以前よりもなくなった。


 翌週、自己破産の手続きを弁護士に依頼した。


「正式に依頼しますか」


「はい」


「時間はかかります。半年から一年、手続きが続きます」


「構いません」


 弁護士は書類を差し出した。


「免責決定が出れば、借金はなくなります。ただ、信用情報には記録が残ります。数年間は、新しい借り入れが難しくなる」


「介護の仕事に影響はありますか」


「資格には影響ありません。訪問介護の登録も、引き続きできます」


「では、お願いします」


 弁護士事務所を出て、歩いた。


 年が変わる前に、一つのことが決まった。


 弁護士に依頼したその日、妙に体が軽かった。


 借金がなくなったわけではない。

 何も解決していない。


 それでも、何かが動いた、という感覚があった。


 決める、ということが大事だったのかもしれない。


 三十八歳から今まで、何かを決められずにいた。


 介護の現場に戻るかどうか。

 借金をどうするか。

 どうやって生きていくか。


 ずっと保留していた。

 考えながら、動けずにいた。


 今日、一つを決めた。


 それだけだった。


 街を歩きながら、浅野のことを少し考えた。


 浅野は、今も別の誰かを探しているだろう。


 純善値が高く、経済的に困窮している人間を。


 善く生きてきて、うまくいかなかった人間を。


 その人間が、朽木の後に見つかるかもしれない。

 見つからないかもしれない。


 坂巻が次の申請者に殺されるかもしれない。

 組織間のやり取りがどうなるか、朽木には分からない。


 分からないまま、自分の話は終わった。


 三百十二という純善値が、商品にならなかった。


 それだけが、今日、確定したことだった。


 翌月から、介護の現場に戻った。


 法人格のない個人事業者として、訪問介護の登録をした。

 一人で動ける範囲だけ受け持つ。

 収入は月に十七、八万円になった。


 最初の週、仕事をしながら何度か涙が出そうになった。


 泣かなかった。


 理由は、うまく言えなかった。


 帰ってきた、という感覚が、少しあった。


 利用者のドアを叩くたびに、少し緊張した。


 開けてもらえるかどうかが、毎回分からない。


 当たり前のことだった。


 初めて来た人間を、利用者は警戒する。

 信頼は、時間をかけて作るものだ。


 でも、その緊張が久しぶりで、むしろよかった。


 緊張するということは、ここに何かがあるということだ。


 最初の一週間で、三人の利用者を担当した。


 三人とも、前の担当者について何か言った。


 一人は、

「ちゃんとしてた人やったけど、急に体を壊して」

 と言った。


 一人は、

「変な人やったけど、慣れてた」

 と言った。


 一人は何も言わなかった。

 ドアを開けて、無言で中に通してくれた。


 三人三様だった。


 だが、共通していたことがある。


 前の担当がいなくなって、しばらくの間があって、朽木が来た。


 そのあいだのことを、誰も話さなかった。


 そのあいだに何があったのか、聞かなかった。


 聞かなくても、想像できた。


 一人で過ごした日が、どれだけあったか。

 必要なことが、どれだけできなかったか。


 朽木は、三人それぞれのドアを、次の訪問でも叩いた。


 その次も、叩いた。


 それだけだった。


 担当になった利用者の一人は、七十四歳の女だった。


 脳梗塞の後遺症で、左半身に麻痺が残っている。

 家の中を、手すりづたいに歩く。


 最初の訪問のとき、女は朽木を見て言った。


「前の担当さんは、去年辞めはったんよ」


「そうですか」


「急にいなくなってしもて。寂しかった」


「なんで辞めたか、聞きましたか」


「体を壊したって。若い子やったんやけどね」


 介護職は、体を壊す。


 朽木も、腰を二度傷めた。


「今日は何をしましょうか」


「お風呂に入りたいんやけど、一人では怖くて」


「手を貸しながら、見守ります」


 女は笑った。


 その笑い方が、懐かしかった。


 昔、担当していた人たちが、よくそういう笑い方をした。

 誰かに頼んで、それが伝わったときの笑い方だ。


 入浴介助をしながら、女はよく話した。


「子どもが三人いてな。上の子は東京、真ん中は福岡。下の子だけが近くにいる」


「下のお子さんがいてくれて、良かったですね」


「でも、忙しいから。あんまり来られへんのよ。仕事が大変みたいで」


「それは、しんどいですね」


「しゃあないねん。自分の生活が大事やから。私もそう思う。ただ、たまに、誰かとしゃべりたいなって思って」


「今、しゃべってますよ」


「そやな」


 女は笑った。


 さっきと同じ笑い方だった。


 朽木は、その顔を見ながら、純善値のことを考えた。


 今日ここに来て、この人の入浴を手伝えば、少し積み上がるのかもしれない。


 あの夜の一分間が、何かを動かしたかどうかは分からない。

 執行しなかったから三割は消えていない。

 だが、積み上がった値が、そのまま全部残っているのかどうかも分からない。


 でも、そういうことではないのだと思った。


「よいしょ」


 女が声を出す。

 風呂場のドアに手をかけ、体を支えながら。


 その声が、普通だった。


 当たり前の声だった。


 朽木は、その隣に立った。


 *


 執行可能期間が終了したのは、申請通知から三十日後だった。


 **申請番号:C3-4471-09**

 **執行期間終了**

 **権利未行使継続につき、申請権失効**


 通知は、淡々と届いた。


 生涯一度の権利が、終わった。


 削除する前に、少しだけ画面を見た。


 申請番号。

 自分の名前。

 坂巻の名前。

 許可基準値、三百九以上。

 申請者純善値、三百十二。


 この番号に紐づいた三十日間が、制度の記録に残る。


 執行失敗でも、取り下げでもない。

 未行使による失効として。


 削除した。


 借金は、自己破産の手続き中だった。


 坂巻浩二がその後どうなったか、朽木には分からなかった。

 調べようとも思わなかった。


 浅野の組織が、別の人間を探すかもしれない。

 別の方法を取るかもしれない。

 坂巻が次の申請者に殺されるかもしれない。


 そういうことを、朽木は何も知らない。


 知る必要も、感じなかった。


 その日の午後、担当の利用者の家を三件まわった。


 一件目は食事の準備。

 二件目は外出同行で内科クリニック。

 三件目は入浴介助。


 三件目の帰り、自転車を漕ぎながら、今日が失効の日だということを思い出した。


 思い出した、というより――

 今日一日、まったく考えていなかったことに気づいた。


 失効が近づいていた十日間、朽木は毎日それを意識していた。

 再試行するかどうかを考えた。


 しない、と決めていた。

 それでも、決めながら考えていた。


 今日は、考えなかった。


 三件の訪問があって、それぞれに必要なことがあって、それをこなしていたら、夕方になっていた。


 そういう一日だった。


 三件目の帰り、空が明るかった。


 十二月の夕方だ。

 もう五時には暗い。


 それでもその日は、西の空に薄く光が残っていた。


 朽木は自転車を止めて、しばらくそれを見た。


 雲の切れ間から、オレンジと灰色が混ざった光が漏れている。


 長くは続かない光だった。


 純善値が今どうなっているのか、分からない。


 執行しなかったから三割は消えていない。

 あの夜、カウントダウンが終わるまでの一分間が何かを動かしたのかどうか、誰も知らない。


 今日の仕事が何かを積み上げているのかどうかも、誰にも分からない。


 そういう仕組みだ。


 誰にも分からないまま、この国では制度だけが動いている。


 善く生きることの値段を、国家が管理している。


 その値段を、浅野のような人間が商品として扱った。


 一千八十万円の借金を抱えた人間の、三百十二の純善値。


 どちらでもいい、と思った。


 空の光が、少し薄くなる。


 朽木は、自転車を漕いだ。


 自己破産の手続きは、半年後に終わる予定だ。


 終われば、借金はなくなる。


 代わりに、数年間は信用がない。


 それでも、今日の仕事はできる。


 明日の仕事もできる。


 それだけだった。


 空の光が、消えていった。


 *


 この国では、人を殺す資格は数字で決まる。


 朽木慎一の純善値は、三百十二だった。


 それは、十三年間、他人の体を洗い、食事を作り、話を聞き続けた結果だ。


 浅野の組織は、その数字を商品として扱った。


 善く生きてきて、かつ、金がない。


 それが条件だった。


 制度の許可基準と、人間の経済的困窮が重なる場所を、組織は利用した。


 純善値の高い人間が、経済的に追い詰められること。


 制度の設計者が想定した使われ方では、なかっただろう。


 だが、制度はそれを止めなかった。


 制度は、動機を問わない。

 申請者と実行者が同一人物であれば、理由は問わない。


 その隙間を、誰かが使った。


 浅野はまだ、次の人間を探しているかもしれない。


 同じ条件を満たす人間が、この国のどこかにいる。


 善く生きてきて、うまくいかなかった人間が。


 その人間が、浅野の電話を受けて、迷い、決める。


 朽木がそうしたように。


 制度は、そういう人間を止めない。


 止めるような条文が、ない。


 朽木は、その商品として機能しなかった。


 機能しなかった理由が、きれいなものかどうかは分からない。


 坂巻が植栽の枯れた葉を捨てるのを見たからかもしれない。

 将棋番組が好きだった老人の「すまんな」という口癖が浮かんだからかもしれない。

 後悔は持ち歩くしかない、という言い方が引っかかったからかもしれない。


 安全管理の仕事は、誰も見ていないけど、誰かがやらないと人が死ぬ。

 坂巻は、そう言っていた。


 介護の仕事も、そうだった。


 どちらも、誰も見ていない仕事だった。


 どちらも、誰かがやらないと、誰かが死ぬ仕事だった。


 坂巻は片方をやめた。

 朽木は続けた。


 その差が、純善値の差になった。


 制度は、その差を数字にして、一方に殺す資格を与えた。


 与えられた側が、止まった。


 それだけだった。


 ただ、今日も訪問先のドアを叩く。


「よいしょ」と声を出す誰かの隣に立つ。


 その積み重ねが純善値になるのかどうか、朽木には分からない。


 ただ、その積み重ねが、あの夜、包丁を握った手を止めたのだとしたら。


 止めたことが、十三年分の積み重ねと呼べるのだとしたら。


 少し、分かる気がした。


 少しだけ。

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