執行 後編
その週、世論は動き続けた。
SNSのトレンドに、「桐島刑事」「警察官一殺権」「制度の是非」が並ぶ。
賛成と反対が、ほぼ半々。
賛成側の主な声。
「法が裁けなかったものを、制度が裁いた。それが制度の存在意義だ」
「警察官だって、人間として権利を持っている。職業を理由に制限するのはおかしい」
「三浦刑事の遺族は、コメントを出していない。それが答えだ」
「桐島刑事が申請を受理されたということは、制度が正しく機能したということだ」
反対側の主な声。
「法の執行者が、法の外側で人を殺すのは、原則として許されない。たとえ合法でも」
「警察官は捜査権を持つ。その立場の人間が一殺権を使えば、萎縮効果が生まれる。自分を調べている刑事が申請できるなら、対象者は脅迫と変わらない」
「今回は偶然うまくいったように見えるが、今後、警察官が恣意的に制度を使い始めたら歯止めがなくなる」
「純善値が高い職業と低い職業がある以上、この制度は公平ではない。警察官は構造的に有利だ」
「法の守護者が一殺権を使うということは、法への不信を公言することと同じだ」
そして、一部から出た声。
「桐島刑事は行使後も平均を上回っているらしい。それは何を意味するのか」
その問いに、誰も明確な答えを出さなかった。
ニュース番組の特集が、夕方にも組まれた。
コメンテーターの一人が言った。
「問題は、今回の桐島刑事ではなく、制度そのものにあります。制度が警察官の申請を許可した以上、桐島刑事を個人として責めることはできない。しかし、この事例が前例になれば、今後は警察官が申請しやすい環境が作られる。それを制度側が想定していたかどうか」
別のコメンテーターが言った。
「三浦刑事が亡くなったとき、捜査は行われた。証拠が出なかった。制度としての司法が機能しなかった。そのとき、桐島刑事個人は何ができたのか。一殺権以外の選択肢があったのかという点を、抜きに議論はできません」
司会者が聞いた。
「なければ、今回は正当だったということでしょうか」
「正当か不当かではなく、制度の想定内か想定外かという問いがある。桐島刑事の行動は、おそらく制度の想定内でした。問題は、その想定の是非です」
それ以上は、掘り下げられなかった。
番組は次の話題に移った。
学校の横断歩道で、小学生がはねられた事件。加害者の純善値が低かったのでは、という話だった。
世論の関心は、移ろいやすかった。
桐島の名前は、三日後にはトレンドから消えた。
*
行使から三日後の夜、早苗から電話があった。
「見ました。ニュース」
「そうですか」
「いろんなことを言われていますね、桐島さん」
「そうですね」
「私は、何も言えません。正直に言うと」
「言わなくていいです」
「言えないのは、よかったとも悪かったとも思えないからです」
早苗の声は、落ち着いていた。
「木村が死んだと聞いて、何か不思議な気がしました。でも、それが何かは分からない。隆が戻るわけでも、あの夜がなかったことになるわけでもない」
「そうですね」
「子どもたちには、まだ言っていません」
「いつか言いますか」
「いつか、言うかもしれません。でも、何と言えばいいか」
桐島は、答えられなかった。
「桐島さん」
「はい」
「後悔していますか」
「今はしていません。この先は分かりません」
「そうですか」
「早苗さんは」
「私も、分かりません」
電話は、しばらく無音になった。
「一つだけ言っていいですか」
「どうぞ」
「桐島さんがあの夜、先行しなかったことを、私は恨んでいません」
桐島は、息が止まった。
「二人で判断したんでしょう。隆も含めて」
「……そうです」
「それなら、桐島さんだけが背負うものではない」
「でも、私は」
「桐島さん」
早苗の声が、少しだけ変わった。
「隆が死んだのは、木村のせいです。桐島さんの判断のせいではない。そのことだけは、言っておきたかった」
電話が切れた。
桐島は、しばらく端末を持ったまま立っていた。
恨んでいない。
その言葉が、どこかに刺さったまま抜けなかった。
桐島には、その言葉を受け取る準備ができていなかった。
そのまま、夜が続いた。
*
週が明け、桐島は通常業務に戻った。
事件の担当は、同期の刑事に引き継がれていた。
デスクに座り、書類の処理を続蹴る。
午前中、何人かに声をかけられた。
同じ課の若手が「お疲れ様でした」と言った。それ以上は言わなかった。目は少し違った向きを見ていた。
別の刑事が「俺には、ああいうことはできないと思う」と言った。
桐島は「そうかもしれません」と言った。
「なぜできないと思いますか」
刑事は少し考えた。
「怖いから、かな。人を殺すことが怖いというより、自分がそういうことをしたあとで、どうなるかが怖い」
「どうなるとは」
「変わるんじゃないかと思う。」
「変わりますか」
「分からない。桐島さんは、変わった感じがありますか」
「分かりません」
「正直ですね」
「分からないことを、分かると言いたくない」
刑事はうなずいた。それ以上は聞かなかった。
昼、食堂で一人で食事をしていると、別の課の刑事が隣に座った。
「少し聞いていいか」
「どうぞ」
「純善値、三百八十だったのか」
「そう書いてありましたか」
「警察官で、そこまで高い人間は、珍しい」
桐島は少し考えた。
「どうだろう。確認したことがない」
「私は気になった」
「何が」
刑事は箸を止めた。
「警察官の純善値が高い理由が、何なのか」
「犯罪を抑止することが、善行として計上されているんじゃないですか」
「だとしたら、犯人を取り逃がした刑事は、下がるのか」
桐島は答えなかった。
「俺は自分の純善値がいくつか、知らない」
刑事は続けた。
「お前が申請できても、俺は申請できない可能性がある。同じ警察官でも、純善値が違えば、持てる権利が違う。それは、公平なのか」
「制度は、公平さを保証していません」
「そうだな」
「誰が計算しているのか、誰も分かりません。警察が計算しているわけでもない」
「それが怖いな」
「何が怖いんですか」
刑事は少し間を置いた。
「測られているのに、基準が見えない。どういう行動が積まれて、どういう行動が削られるのか、分からない。なのに、それが命のやり取りに直結している」
「そうですね」
「お前は、怖くないのか」
桐島は少し考えた。
「怖い、という感覚はあります。ただ、怖いからやめる、とはなりませんでした」
「なぜ」
「三浦が怖かったんだと思います。あの夜、先行したとき。それでも行った。私が応援を呼ぼうと言わなかったから」
「……」
「恐怖より先に動くものが、人間にはある。それが何かは、その時にならないと分からない」
刑事は、しばらく黙っていた。
「お前が今回したことが正しいかどうか、俺には分からない。でも、同じことをしたいと思う人間は、俺を含めて、何人かいる」
「したいと思うことと、するべきかどうかは、別の話です」
「そうだな。だが、お前はした」
「はい」
「後悔するか」
桐島は少し間を置いた。
「分かりません」
「今は」
「今は、していません」
「そうか」
刑事は食事を終えて、立ち上がった。
「三浦のことは、気の毒だった」
「ありがとうございます」
「これからも、仕事を続けてくれ」
それだけ言って、去った。
桐島は、残った食事を片づけた。
午後の業務が、まだある。
*
その週の木曜日、記者会見を求める連絡が広報室に届いた。
桐島は断った。
翌日、フリーの記者が署の前で待っていた。
若い女性だった。名刺を差し出した。「安西奈緒、フリーランス」とあった。
「少しだけ、聞かせてください」
「広報を通してください」
「広報には断られました」
「それが組織の回答です」
安西は一歩下がった。
「一つだけ聞かせてください。無理に答えなくてもいいです」
桐島は止まった。
「制度を使ったことについて、後悔していますか」
「なぜその質問をするんですか」
安西は少し考えた。
「後悔しているかどうかで、この事件の意味が変わる気がするからです」
「意味が変わっても、事実は変わりません」
「そうです。でも、人は意味を求める」
桐島は、その言い方を聞いた。
「あなたは、この件をどう記事にするつもりですか」
「まだ分かりません。だから、聞いています」
「批判する記事を書くつもりですか」
「批判のためには書きません。ただ、何が起きたかを知りたいし、書きたい」
「中立で書く、ということですか」
「中立を目指すというより、事実を正確に書く。私の理念です」
「あなた自身は、今回の件をどう思っていますか」
安西は少し止まった。
「記者に、意見を聞くんですか」
「あなたが何を書くかは、あなたが何を考えているかに影響します」
安西は少し考えた。
「正直に言うと、判断できていません。警察官が制度を使ったことへの違和感と、なぜ違和感があるのか、という疑問があります」
「疑問ですか?」
「制度として合法なら、違和感を持つ理由が説明しにくい。でも、違和感はある。その矛盾が、整理できてないんです」
「記事にするとき、その矛盾はどうします」
「書きます。整理できていないまま、そのままを」
桐島は、その答えを聞いた。
「記事にしても、世論は変わりません」
「変えるためではありません」
「なぜ書くんですか」
安西は少し間を置いた。
「記録するためです。何が起きたかを、正確に」
桐島は、刑事の仕事も、記録だと思った。
何が起きたかを、正確に。
「後悔については、まだ分かりません」
桐島は言った。
安西はうなずいた。
「ありがとうございます」
桐島は署に戻った。
廊下を歩きながら、自分の言った言葉を繰り返した。
まだ分かりません。
後悔するかどうかが分からないのではない。
自分がしたことの意味が、まだ分からない。
木村を殺したことで、三浦が戻るわけではない。
応援を呼ばなかった判断が、正しかったことになるわけでもない。
何も変わっていない。
ただ、木村達也という人間が、この世界からいなくなった。
それだけは事実だった。
*
二週間後、議会で制度見直しを求める動議が出た。
内容は、「現職の法執行機関員による一殺権申請の審査強化」だった。
完全な禁止ではない。だが、現職警察官、検察官、刑務官などが申請する場合、通常より厳格な審査を行う。そういった内容だ。
提出者は野党議員。
「法執行機関の人員が一殺権制度を私的に使用することは、法の番人という職責と根本的に矛盾する。たとえ合法であっても、その行使は司法への信頼を揺るがす」
反論が、与党側から出た。
「職業による権利の実質的な制限は、憲法の平等原則と緊張関係にある。慎重な審議が必要だ」
賛成と反対が割れた。
動議は、継続審議になった。
実質的な棚上げだった。
桐島は、そのニュースをデスクで確認した。
継続審議。
今は変えない、ということだ。
いつか変えるかもしれない、ということでもある。
ただ、今は変えない。
桐島は、書類に目を戻した。
目の前の案件は、別の事件だった。
傷害事件。容疑者の供述に矛盾がある。証拠の裏付けが必要。
今日の仕事は、これだ。
三浦のことは、三浦のこととして残っている。
木村達也のことは、木村のこととして残っている。
議会の動議は、議会のこととして動いている。
それらは全部、別々にそこにある。
桐島は、ペンを取った。
書類に、事実を書いた。
何が起きたかを、正確に。
それが、今の仕事だった。
*
動議から一週間後の夜、桐島は署に一人で残っていた。
残業ではない。特に仕事が溜まっているわけでもなかった。
ただ、帰る気になれなかった。
デスクに座って、窓の外を見た。
東京の夜景が、広がっていた。
灯りが多い。人が多い。それだけの数の生活が、あそこにある。
制度は、全員に適用される。
この街に見える灯りの数だけ、人間がいる。全員に純善値がある。全員に、生涯一度の権利がある。
ほとんどの人間は、使わない。
使わないまま死ぬ。
自分は使った。
桐島は、自分が何をしたのかを、改めて整理した。
三浦の死に関わったと思われる人間を、制度を通じて殺した。
制度上は合法。
職権は使わなかった。
規定の手続きを踏んだ。
正しいか間違いかは、まだ分からない。
ただ、後悔はない。
後悔がないことが、正しいことを意味するわけではない。
後悔がないのは、あの判断が自分の中で一貫していたからだ。
三浦が先行したとき、桐島は止めなかった。
止めなかった結果、三浦は死んだ。
木村が、その死に関わっていた。
証拠はなかった。が、桐島の確信はあった。
確信と証拠は、法の世界では違う。
法の世界では、確信だけでは動けない。
だから、制度を使った。
制度は、動機を問わない。
純善値の差だけを見る。
桐島の確信が正しいかどうかは、制度は見ない。
制度が見たのは、数字だけだ。
その数字が、答えを出した。
答えが正しいかどうかは、誰も言えない。
制度も言わない。
桐島も言えない。
ただ、したことは、した。
それだけが残っている。
スマートフォンが振動した。
画面を見ると、早苗からのメッセージだった。
「記事、読みました」
安西の記事のことだ。
「読みましたか」
「はい。インタビューの部分も」
「連絡してくれたんですね」
「したかったので」
短い間があった。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「桐島さんは、何のためにしたんですか」
桐島は、少し間を置いた。
「隆のため、ですか」
「それだけではないかもしれません」
「自分のため、ですか」
「それも、含まれているかもしれません」
「他には」
「分かりません」
早苗は、しばらく返事をしなかった。
それから、短いメッセージが届いた。
「そうですか」
「はい」
「隆が生きていたら、何て言うと思いますか」
桐島は、かなり長く考えた。
「お前には関係ない、と言うかもしれません」
「そうですか」
「でも、ありがとう、とは言わないと思います」
「なぜですか」
「三浦は、そういうことを言わない人間でした」
「そうですね」
早苗は、そう返した。
「桐島さん」
「はい」
「私は、感謝していません。感謝すべきかどうかも、分かりません」
「分かっています」
「でも、桐島さんが悪かったとも思っていません」
「はい」
「それだけです」
メッセージが止まった。
桐島は、スマートフォンをデスクに置いた。
窓の外の灯りを、また見た。
感謝されなかった。
それで良かった、と思った。
感謝されるためにしたわけではない。
感謝されないからといって、間違いだったわけでもない。
ただ、早苗が「悪かったとも思っていない」と言った。
その言葉が、何かを少しだけ軽くした。
桐島は、ペンを取った。
書類の続きを書いた。
傷害事件。矛盾している供述。裏付けが必要な箇所。
一つひとつを、確認していった。
事実から始める。
それが、仕事だった。
*
その翌週、署内で非公式な話し合いが持たれた。
呼びかけたのは、坂本課長だった。
会議室に、七人が集まった。いずれも、桐島と同じ捜査一課の刑事だった。
「今回の件について、内部で意見を出し合っておきたい。記録はしない。ただの話し合いだ」
坂本はそう言った。
最初に口を開いたのは、ベテランの刑事だった。五十代。捜査歴二十五年。
「俺は、今回の件を支持する。仲間が死んだ。法が動けなかった。証拠が出なかった。そのとき、個人が使える手段が制度として存在した。それを使った。」
次に、三十代の若手が言った。
「私は支持できません。警察官が制度を使ったとなれば、今後、対象者になった人間が捜査に協力しなくなる可能性がある。自分を調べている刑事が申請者になるかもしれないと思えば、口を閉じる」
「それは、制度があること自体の問題じゃないか」
「制度がある以上、運用の問題です。警察官が使えば、制度と捜査権力が混ざる」
「実際には、桐島さんは職権を使っていない」
「実際に使ったかどうかの問題ではなく、印象の問題です。誰かがそう思えば、捜査は難しくなる」
別の刑事が言った。
「俺が気になるのは、純善値の問題だ。三百八十という値は、警察という職業によって作られた部分がある。その職業由来の値を使って、捜査対象だった人物を殺した。そこに、何か構造的な問題があると思う」
「構造的な問題というのは」
「警察官は、職務を通じて純善値を積みやすい。一方で、犯罪組織の人間は純善値が低くなりやすい。そのギャップが、制度上の権利格差を生む。警察官は申請しやすく、犯罪組織の人間は申請されやすい。それは、制度が特定の立場に有利に働いているということじゃないか」
「だからといって、桐島さんを責める理由にはならないだろう、警察官だから純善値が積みやすいなんて統計はないぞ」
「責めていない。ただ、制度として問題があるんじゃないかという話だ」
坂本が言った。
「桐島、何かあるか」
桐島は少し間を置いた。
「皆さんの言っていることは、どれも理解できます」
「自分自身は、どう思っている」
「正しかったかどうか、まだ分かりません。ただ、やらなければならないことだと思ってした。その判断が、どこかで間違っていたとしても、今の時点では分かりません」
「三浦のことで、後悔は」
「あります」
「何が」
「応援要請を押さえたこと。あの夜、別の判断をしていれば、三浦は生きていたかもしれない」
「一殺権を使ったことへの後悔は」
「今はありません」
「いつか後悔すると思いますか?」
「分かりません」
沈黙があった。
「一つだけ言います」
桐島は続けた。
「今回の件が、他の人間の行動基準になることは、望んでいません。私がしたことは、私個人の判断の結果です。正しいとも、間違いとも、言うつもりはありません」
「なぜ」
「言えるほど、整理ができていないからです」
坂本は、少し間を置いた。
「分かった。今日の話は、ここまでにする。各自、自分の中で考え続けてくれ」
会議室を出て、廊下を歩いた。
七人が、それぞれの方向に散っていった。
何も決まらなかった。
それが、今の状態だった。
*
行使から一か月後、安西の記事が出た。
大手のウェブメディアに掲載された。
タイトルは、
「執行——警察官が一殺権を使った夜」
だった。
桐島に対するインタビューは、
「後悔については、まだ分かりません」
の一言だけだった。
記事は長かった。
制度の歴史。
三浦隆の経歴と死の経緯。
木村達也の素性と、立件されなかった経緯。
申請から執行までの流れ。
世論の動向。
議会の動議。
署内の反応。
安西は、賛否どちらにも立っていなかった。
ただ、何が起きたかを、順番に書いていた。
記事の中に、桐島が話したことのない内容が一部含まれていた。
三浦の妻、早苗へのインタビューだった。
「桐島さんが申請していたことは、何となく分かっていました。止めませんでした。止めることが正しいのかどうか、判断できなかったので」
早苗は、そう話していた。
桐島は、その部分を読んだ。
早苗は、取材に応じていた。
自分には知らせずに。
それを責める気はなかった。
ただ、早苗がそこまで話したということの意味を、少し考えた。
記事の末尾に、一文があった。
「桐島健介は、行使後も国民平均を上回っている。その数字が何を意味するのか、制度は何も語らない。語るのは、いつも人間の側だ」
桐島は、その一文を読んだ。
語るのは、いつも人間の側だ。
そうだろう、と思った。
制度は計算をする。
数字を出す。
許可か不許可かを決める。
だが、その数字が何を意味するかを解釈するのは、常に人間だ。
三百八十が何を意味するか。
百十六が何を意味するか。
三百四十八という閾値が何を意味するか。
誰も分からない。
分からないまま、制度は動いている。
桐島も、分からないまま、制度を使った。
分からないままが、続いている。
記事は、ネット上でそれなりに読まれた。
コメント欄は、またも割れた。
「公平な記事だ」
「どっちの立場にも立たない記事は、無責任だ」
「桐島刑事の言葉が、一番正直だった」
「一言しか話してもらえなかったのに、記事になるのか」
「三浦早苗が話したのが意外だった」
「三浦早苗が話したのは、正しいことだと思う」
どれが正しいかは、分からなかった。
それも、分からないままだった。
記事が出た翌日、田辺が声をかけてきた。
「読んだ」
「そうですか」
「話したんだな」
「一言だけ言いました」
「十分だ」
「どういう意味ですか」
田辺は少し考えた。
「後悔については、まだ分かりません、という一言が、一番正直だと思う。知ってることを全部話した人より、正直に見えた」
「知っていることを話す方が、正直じゃないですか」
「正直かどうかと、誠実かどうかは、違う気がする。桐島さんの一言は、誠実だった。」
桐島は、その言い方を少し考えた。
「田辺さんは、今回の件をどう思っていますか」
「まだ整理できてないです」
「ただ、桐島さんが申請したとき、俺は止めなかった。止めるべきだったのか、それも分からない」
「田辺さんには、止める理由がありましたか」
「なかった。ただ、もし止める立場だったとしても、止めなかったと思う」
「なぜですか」
「三浦さんのことを、俺も近くで見ていたからです。証拠が出なかった。捜査が止まった。木村が普通に生きている。そのことが、ずっとひっかかっていた」
「田辺さんも、申請しようと考えたことはありますか」
田辺は少し間を置いた。
「ないです。でも、桐島さんが申請したと聞いたとき、なぜ自分は考えなかったのか、少し考えました」
「理由は分かりましたか」
「いいえ。ただ、俺には三浦さんほどの直接の理由がなかった。」
「直接の理由があれば、申請しましたか」
「分からない。桐島さんは、分かるんですか」
「私は、しました。だから、したかどうかは分かります。」
田辺は、少し笑った。
「本当に、分からないことばかりです」
「そうですね」
田辺は立ち上がった。
「三浦さんが、報われたかどうか、俺には分からない。でも、桐島さんが動いたことは、三浦さんの周りにいた人間には、意味があった気がします」
「何ですか」
「制度の話でも、正義の話でもない。ただ、誰かが動いた、ということが」
それだけ言って、田辺は自分のデスクに戻った。
桐島は、その背中を見た。
誰かが動いた、ということが意味を持つ。
それが何かは、田辺も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
言わなくても、伝わった気がした。
*
議会の動議から一か月が過ぎた。
継続審議のままだった。
また別の一殺権行使のニュースが出た。
今度は、元企業弁護士が対象だった。
申請者は、経営破綻で生活を失った元経営者だった。
純善値の差は、三倍をぎりぎり超えていた。
世論は、また動いた。
今度の話題は、桐島のことではなかった。
新しい行使の事例が、新しい議論の材料になった。
制度が機能しているのか、暴走しているのか。
経済的な強者が制度で裁かれることへの、賛否。
桐島の件は、比較対象として時々言及された。
「警察官の行使と、一般市民の行使では、社会的な意味が違う」
「いや、制度の前では等しい」
「純善値の高低が、制度の公平さを保証しているわけではない」
「それが分かっていても、数字しか見られない」
議論は続いた。
桐島は、それを時々確認した。
自分のことについての議論も、他の事例についての議論も、似たような構造を持っていた。
賛成と反対が割れる。
どちらも、部分的には正しい。
どちらも、何かを見落としている。
見落としている部分が何かは、人によって違う。
制度は、その議論に参加しない。
ただ、申請を受け取り、審査し、許可か不許可かを出し続ける。
桐島は、自分も制度の一部になったことを思った。
申請者として、記録に残っている。
合法行使者として、記録に残っている。
その記録は、消えない。
消えなくて良い。
した、ということは、した。
それが事実として残ることは、正しいことだと思った。
*
記事が出てから二か月が経った。
桐島は、毎日署に行き、仕事をし、帰った。
それだけの日々が続いた。
特別なことはなかった。
通常の業務。
傷害事件の捜査が一段落した。
容疑者が自白した。
証拠と一致した。
書類を整えた。
次の案件が来た。
置き引きの被疑者。
防犯カメラの映像がある。
特定は早い。
その次は、詐欺事件。
高齢者を対象にした特殊詐欺。
グループの一員を逮捕した。
上の人間を追う捜査が続く。
仕事は続いた。
三浦のことを、毎日考えることはなくなっていた。
考えない日もあった。
一週間で一度だけ、ふと思い出す日があった。
何かの拍子に浮かぶ。
深夜の牛丼屋の話が浮かんだ。
倉庫街の夜が浮かんだ。
三浦が先行した背中が浮かんだ。
それが浮かぶたびに、少しだけ止まった。
止まり、また動いた。
何かが終わった気がする、と早苗は言った。
桐島にも、何かが終わった気がした。
でも、三浦への気持ちが終わったわけではない。
終わったのは、別のこと。
待つことが、終わった。
証拠を探し続けることが、終わった。
木村達也の人生、が終わった。
それらが終わって、何が始まったかというと、何も始まっていない。
ただ、続いている。
仕事が。
日常が。
三浦のいない日々が。
廊下の蛍光灯は、まだちらついていた。
誰かが直すだろう、と桐島は思い続けていた。
直らないまま、また一日が終わる。
翌日、桐島は坂本課長に呼ばれた。
「別件の話だ」
「はい」
「新しい案件が入った。詐欺事件の捜査に加わってもらいたい」
「分かりました」
「ただ、一つ確認したい」
「はい」
「今の状態で、仕事に問題はないか」
桐島は少し考えた。
「問題はありません」
「集中できているか」
「できています」
「体の調子は」
「普通です」
坂本は、桐島の顔を見た。
「お前の顔が、少し変わった気がする」
「どう変わりましたか」
「以前より、軽い気がする」
「軽い、ですか」
「重さが抜けた、という言い方の方が正確かもしれない。以前は、表情も重かった。今は、それがない」
桐島は、少し間を置いた。
「三浦のことで、何かが変わったかもしれません」
「どう変わった」
「言葉にするのが、難しい」
「言わなくていい」
坂本は立ち上がった。
「仕事を続けられるなら、それでいい」
「はい」
「新しい案件は、明日から担当してくれ。資料を用意しておく」
部屋を出て、廊下を歩いた。
重さが抜けた、と坂本は言った。
そうかもしれない、と思った。
三浦が死んでから一年以上、桐島は何かを持ち続けていた。
それが何かは、今も正確には分からない。
ただ、木村達也が死んだ日を境に、その重さが変わった。
なくなったわけではない。
デスクに戻り。引き出しを開けると、手帳が入っていた。
三浦が死んでから書き始めた、思い出を記録する手帳。
最後に書いたのは、一か月前。
開いてみた。
最後のページに、こう書いてあった。
「三浦は、現場の匂いを嗅いだ方が早い、と言っていた」
その一行だけが、最後のページに残っていた。
次のページは、空白だった。
桐島は、ペンを取った。
次のページに、一行書いた。
「一殺権を行使した。後悔は、今のところない」
それだけ書いた。
手帳を閉じ引き出しに戻した。
*
この国では、人を殺す資格は数字で決まる。
桐島健介の純善値は、三百八十だった。
それは、二十年間、法を執行し続けた結果。
犯人を追い、証拠を集め、被害者に向き合った。
深夜の現場に立った。
三浦と一緒に、同じ仕事をした。
答えを出せなかった事件も、多かった。
証拠が足りなかった。
法の壁があった。
時効が来た。
そういうことが積み重なって、三百八十になった。
その三百八十が、木村達也を殺す資格の根拠になった。
制度は、数字だけを見た。
行使後、その数字は二百二十一になった。
平均より、まだ高い。
それが何を意味するのか、制度は何も言わない。
世論は、それを材料に話し続けた。
平均より高いから、問題ない。
平均より高いから、警察官は有利だ。
平均より高いから、制度は正しく機能した。
平均より高いから、制度は信用できない。
誰もが、同じ数字から、別の結論を引き出した。
その数字が、どこから来たのかを問う声は、少なかった。
桐島は、自分の純善値のことを、あまり考えなかった。
三百八十が何から来たのか、考えることはできる。
ただ、考えたところで、変わることはない。
三浦は死んだ。
木村は死んだ。
自分は、今日も仕事をしている。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
桐島は、夜の署内で、一人で書類を読んでいた。
廊下の蛍光灯が、少しちらついていた。
誰かが直すだろう、と思いながら、誰も気にしていなかった。
そういう場所で、そういう仕事をしている。
三浦も、そういう場所で、そういう仕事をしていた。
同じ場所に、桐島だけが残っている。
残っている理由は、何も変わっていない。
仕事があるからだ。
三浦との仕事の記憶があるからだ。
制度を使った記録が残っているからだ。
それらが全部、今日という日を作っている。
手帳に書いた一行を思い出した。
「一殺権を行使した。後悔は、今のところない」
今のところない、と書いた。
いつか後悔するかもしれない。
いつか、あの夜を振り返って、別の判断もあったと思うかもしれない。
そのときはそのときだ。
今は、今のところは、ない。
窓の外で、東京の夜が続いていた。
遠くに、救急車のサイレンが聞こえた。
桐島は、書類から目を上げた。
サイレンが、近づき遠ざかった。
窓の外の東京は、今夜も動いていた。
*
後日、小此木から一通のメールが届いた。
窓口の担当者だった男だ。
内容は短かった。
「桐島健介様。今回の申請に関する全手続きが完了しました。記録は適切に保管されます。一点、個人的にお伝えしたいことがあります。今回の件で、現職警察官からの申請に関する内部ガイドラインを整備する動きが機関内で始まっています。桐島さんの申請が、そのきっかけになりました。良い方向に働くことを願っています」
桐島は、そのメールを読んだ。
ガイドラインの整備。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
制限が厳しくなるのか、逆に明確化されるのか。
どちらでも、今の自分には関係がない。
一度しか使えない権利は、もう使った。
これから先、自分がその議論の当事者になることは、おそらくない。
桐島は、メールを閉じ、デスクの引き出しから手帳を取り出した。
三浦が死んでから書き始めた、別の手帳。
最後のページを開いた。
一行だけ書いた。
「執行から六十日が過ぎた。後悔は、今のところない」
仕事の書類が、まだ残っていた。
*
この国では、人を殺す資格は数字で決まる。
その数字が何を意味するのか、誰も答えを持っていない。
制度も、世論も、議会も、それぞれに答えを出そうとして、出せないままでいる。
ただ、桐島は今日も仕事をしていた。




