9.以前の自分が恋しいよ
「どうなってるんだよ、これ! あの女、頭がイカれてやがる!」
「まさか、もう知られているとは……」
静かに地面へ降り立ち、向かってみると、二人の騒ぐ声が聞こえてきた。黒い不気味な化け物がゆっくり振り返って、私を見つめる。子どもが絵に描いたような化け物だった。暗闇の中でも、不思議とその姿がよく分かる。
光っているわけでもないのに、口から滴り落ちる黒い液体も、半開きの口に並ぶギザギザの歯もよく見えた。穴だらけの傘みたいな漆黒の両翼、理性がない、つぶらな赤い瞳。肥え太った体には、黒光りしてる鱗が並んでいた。
しかも、人の体を掴んで、やすやすと引き裂けそうな両手と鋭い爪つき。アンバランスな体型なのに、言葉を失うほど怖い。ようやく出せた声はか細くて、多分、ジュード以外の人だったら聞き取れなかったと思う。
「……なに、あれ。知ってる?」
「ん~、死体を繋げたものかな? ロック・シュトナーの好きなものぐらい、把握しておかなくちゃだめだよ。シェリーって本当に、一等級国家魔術師の武器や得意魔術しか知らないよね。叔父さんが泣いちゃうよ」
「好きなもの? あれが?」
「……本当に何も知らないんだね。エドニアお抱えの国家魔術師、ロック・シュトナーは死体集めが趣味なんだよ。とんでもなく強いから、みんな、見て見ぬふりだ。エドニアの政治家があいつに、うるさい愛人の処理を任せたって噂もある。どう思う?」
「悪趣味ね」
「本当かなぁ、ゴシップ誌に書いてあったんだよ。堕胎させたら、精神的に病んだ愛人がストーカー化して……あ、待って! もう少し俺と喋ろうよ!」
根も葉もない、ゴシップ誌が広めた噂なんてどうだっていい。ジュードが爽やかな朝に、ゴシップ誌を貪るように読んでいる姿を思い出して、げんなりした。手に魔力を集め、出来の悪いドラゴンのような化け物から、銀色に輝く武器を奪い返す。黒い液体にまみれていた。
黒い液体にまみれていてもなお、輝きを失わない銀色の玉子を撫でてみると、案の定、指がただれ落ちた。肉片と血が、地面へぼたりと落ちる。痛みはない。即座に手を振って、治す。それまで無様に寝転がっていたロック・シュトナーが立ち上がり、嘲笑った。腕を伸ばし、化け物の長い首を撫でる。作った本人には危害を加えないんだ。
「こいつ、優しいだろ? 痛みを与えずに獲物を殺してあげるんだ」
「……今夜の獲物は私ってわけ?」
「広い意味ではな。目当てじゃない。目当てはレナード殿下なんだ。ちょっと話そうぜ、シェリー?」
確かめるような口調で呼びかけてくる。殺気は感じられない。相手は一等級国家魔術師だから、穏便に済ませたい。私とジュードが全力を出して、やっと追い出せるレベルの相手。首の裏に冷や汗が滲んだ。あまりにもリラックスしてる。
力の差を思い知らされているようで、気分が悪い。銀色に輝く玉子を槍へ変化させ、身構えていても、どこ吹く風でゆうゆうと近付いてきた。暗闇の中で輝く蛍光グリーンの瞳。生活の邪魔になりそうな、ぱさぱさの長い金髪。座っていれば、浮浪者に見える男だった。
「敵じゃないんだよ、俺達は。レナード殿下に危害を加えるつもりはないんだ」
「……じゃあ、昼間、堂々と城の門をくぐって会いに来たら? それが出来ないのなら、ただの不審者よ」
「不審者だって!? 聞いたか、ノーマン、おい! 顔見知りのお前を連れて来てやったのに、不審者扱いされたぞ」
「夜に不法侵入すれば、まあ、当然かと」
「つまんねぇの。当たり前のことしか言わないなぁ~」
「日常会話に面白さを求めないでください。そんなことよりも、レナード殿下を探さなくては」
黒いローブ姿のノーマンがぽうっと、暗闇の中に小さな光を浮かべた。虫のように飛んで逃げる光を、ジュードが炎射で掻き消す。振り返れば、銀色に輝く指貫のような魔術道具をはめていた。炎射銃なんて、いつ買ったの? 高そう。最新の魔術道具に目がないんだから……。呆れる私を気にせず、人差し指にはめた指貫を相手へ向けたまま、ジュードが楽しそうに笑う。
「ね、役に立ってるだろ? 俺。シェリーだけじゃ大変だったよね?」
「……殺すつもりなの?」
「もちろん。あいつは難しいけど、裏切り者はいけるだろ! 大丈夫、大丈夫。レナード殿下もきっと許してくれるよ」
「待って、理由が知りたい。どうしてわざわざ、他国の魔術師を連れて来たの? ノーマン。何が目的?」
お金で懐柔されるような人には見えないけど。ロック・シュトナーが笑って、振り返る。暗がりの中でも分かるほど、ノーマンは平然とした様子で佇んでいた。もしかして、特に理由は無かったりする? だったら困るなぁ。建前が欲しい。
うっかり殺しでもしたら、レナード殿下に嫌われちゃうかも。ノーマンが黒いローブの裾を揺らし、私達の前へやって来た。肌寒い夜風が吹き渡って、雲に覆い隠されていた満月が姿を現す。芝生に柔らかい月光が落ちてきた。
「絶望したんです。一秒でも早く、レナード殿下をこの城から引き離す必要がある」
「どうして?」
「……前の王妃様、レナード殿下の母君を殺したのは陛下なんですよ。自分の手で、首を絞めて殺したくせに、いもしない犯人のせいにしやがって!」
「だから、引き離す必要があると?」
「そうです。最愛の母親を殺した犯人に首輪をつけられているんですよ、今。分かります? 俺はモリスさんが出来なかったことをするんだ」
「出来なかったことって……」
「国王陛下からレナード殿下を取り上げる! 他国へ逃がす。バカバカしくないですか? 母親を殺した男に従い続けるなんて」
ノーマンが吐き捨てるように言う。だから、エドニアと手を組んだ。エドニアは癒しの血を持つ王子が手に入るし、レナード殿下はこの国と気候風土がよく似たエドニアで暮らせる。一見、悪くない話だけど……。
「どうしてレナード殿下に何も聞かず、誘拐しようとしたの? やってることが一緒じゃない! 国王陛下も、ノーマンも、モリスさんだっていつもそう! レナード殿下は何も分からない赤ん坊だとでも!?」
「教えたくないんですよ! モリスさんだってそれを望んでる!! 魔術でエドニアを自国だと勘違いさせ、暮らしてもらいましょうよ。これが一番だ」
「知ってる? レナード殿下はいつも、選択肢が無くて悲しんできた。自分の人生なのに、何一つ自分で決められない。私からすれば、モリスさんも国王陛下も一緒だから!」
どうして今になって言うの? 分からない。どうすればいいのか、ちっとも分からなくて頭が混乱した。レナード殿下を傷付けたくない、嫌われたくない、守りたい、ここから逃がしてあげたい……。私は全部出来るほど、器用じゃないから。
何かを諦めなくちゃいけない。だけど、本当は全部してあげたい。目の前の敵を殺した方がいいのか、捕まえた方がいいのか、それすらもよく分からない。ただ、月光に照らされて輝く銀色の槍を握りしめたまま、震えるしかなかった。そんな私の肩に、ジュードがぽんと手を置く。
「落ち着いて、シェリー。肩に力が入ってるよ」
「でも、だって……」
「記憶を消せばいいさ。こいつらをまず、レナード殿下のところへ連れて行こう。二人の話を聞いて、判断するのはレナード殿下だ。考える必要はない」
「記憶を?」
「うん。父親が母親を殺しましたー、って言ってさ、エドニアで暮らしたくない、父親が憎いって言い出したら、レナード殿下の記憶を消せばいいよ。これで元通りだろ?」
「……ありがとう。少し冷静になれた」
レナード殿下の気持ちを理解して、尊重できるのは私だけなんだ。価値観と感情を共有してる私だけ。今なら、レナード殿下は気絶してるから、上手くやれるはず。銀色の槍を玉子へ戻して、こっちを睨みつけてくるノーマンに近付く。私は何も分かってないって、言いたげな表情を浮かべていた。
「ノーマン、それがお前の本心か?」
「レナード殿下の声!? ま、待ってくれ、じゃあ、禁術は……」
「少しの間だけ、私はレナード殿下になれるの。怪我を肩代わりするだけじゃない。私達は一度死んで、魂を半分こした」
いつだって、レナード殿下の価値観に染まれる。感情も声も共有できる。こっそり内緒で、練習を重ねた甲斐があった。最初はお遊び、でも、途中から何かの役に立つかもしれないと思って、レナード殿下が起きている時と眠っている時に練習してみた。
その結果、分かったのは、レナード殿下の意識がある時に同化したら、バレてしまうこと。私の目を通じて、私がどこで何をしているのか、分かってしまう。今なら、レナード殿下は気絶させられているから分からない。
国王陛下である父親が母親を殺したことも、ノーマンが裏切ったことも知られずに済む。禁術の奥深さを知って、ノーマンが愕然としていた。深く息を吸い込んで、体の内側に宿っているレナード殿下の魂に意識を預けた。
「今、そんな話をしている場合じゃないって分かってるよな? 俺を売り飛ばす見返りに、何を約束された?」
「……」
「本当に、俺の気持ちを考えての行動か? 答えろ、ノーマン! モリスが知ればさぞかし嘆くぞ!」
うなだれるノーマンを、私の口から発せられるレナード殿下の声が一喝した。変な気持ち。自分という人間がどんどん小さくなっていって、レナード殿下の体に吸収されていくみたい。何とか踏ん張って、意識を保つ。心地良い。もう全部預けちゃいたい。人格がレナード殿下と同化したがってる。
「もういい、これでよく分かった。俺の味方じゃないんだな?」
「ですが、よろしいのですか!? このままだと、母君を殺した犯人に……!!」
「俺を売り飛ばした人間の言葉を信用するとでも? 逃げ出したいのなら、自力で逃げ出す。お前の手を、いいや、隣国の手を取るつもりはない」
「そんな……」
「帰れ!! ここにお前の居場所はもうない! 二度と俺の前に現れるな」
そろそろ限界、やめなくちゃ。何とか意識を引っ張り出して、レナード殿下の気配から距離を取る。めまいと吐き気がした。屈辱的で、だけど、深い悲しみがあって、怒りに体が乗っ取られそうな……。視界の端で火花が散った。それと同時に、腕を引っ張られる。耳をつんざくような爆音が響いたあと、静寂が落ちた。誰かが私の体を抱きしめる。ジュードの腕だ。いつも使ってる、甘ったるいコロンの香り。
「シェリーに怪我を負わせようとするなんて! とっとと早く、レナード殿下を探しに行けばいいのに」
「……お前が例の不思議ちゃんか?」
「不思議ちゃん?」
「ああ、ノーマンから聞いた。ひとり、行動が読めないやつがいるって」
「自分のやりたいようにやっているだけだ。不思議ちゃんじゃない!」
「うおっ!?」
ジュードが反撃した。多分。視界がぐらっぐら揺れて気持ち悪い……。おかしいな、練習を積み重ねてきたのに。事実を知ったレナード殿下の魂が暴れ回ってる。そうとしか言いようがない。どす黒く煮え滾った怒りが、体の底からふつふつと湧き上がってくる。憎い!! 全てが憎い。目に映るもの全てが憎い。
今までの生活は何だったんだ? 俺を種馬扱いして、閉じ込めて、自分の孫にあたる子どもまで利用しようと────……。母親を殺した、いや、母を殺して、俺の人生をぶっ壊そうとしてる外道。
手が銀色の玉子を呼び寄せる。脳みそがボーガンの形を描いて、きらめくボーガンがこの手に現われる。やけに冷静だった。沸騰しそうなほどの怒りにあぶられているのに、頭の芯だけ冷え切っている。ボーガンを構え、ありったけの魔力をこめ、標的へ放つ。
気にせず魔術を使ったせいで、自分のまつげが焼け落ちた。炎の矢が放たれ、途中で分裂し、出来損ないの化け物の頭上に降り注ぐ。金属音と悲鳴のような、甲高い断末魔が上がった。自然と足が動いて、怯み、逃げ出そうとしていたジュードへ近付く。
「もういいぞ、逃げて。邪魔者を片付けてから、父上に会いに行かなくては」
「困ります、レナード殿下。その体は従兄妹のものなんですよ。俺の大事な大事な、シェリーの体だというのに」
「っう!?」
「復讐なら、自分の体でやってくださいね。人の体を使って復讐しちゃだめですよ」
容赦なく鳩尾を殴られた。衝撃で意識が戻る。これは私の体、私の考え、今、呼吸しているのも私……。何とか倒れずに済んだ。私の体を受け止めようとしていたジュードが、残念そうな様子で溜め息を吐く。
「あーあ、意識戻っちゃった? 眠ってていいよ、俺が全部片付けてあげるから」
「いらない。後始末は自分でする」
「後始末?」
「先に喧嘩を売ったのは私でしょ? 向こうは穏便に済ませようとしていた」
べちゃくちゃお喋りをしている暇があるのなら、レナード殿下を探して、誘拐して、私達を再起不能にすればいい。でも、それをしなかったのは穏便に済ませようとしているから。多分だけど……。頭が上手く回らない。
眼前には炎に包まれ、のたうち回る化け物がいた。苦しいのか、重低音の呻き声を上げていた。予想通り、炎が一瞬で掻き消される。肌が粟立った。とっさに銀色の盾を構え、足元の地面ではなく、爪先から向こうの地面だけ液状化させる。熱気にあぶられた額から、汗が流れ落ちてきた。
黒い棘が盾を貫通する。どんっと重苦しい衝撃を受けて、両手が震え出した。ロック・シュトナーの攻撃を完全に防ぐことはできなくて、黒い棘が肩を貫いていた。一本、いや、二本かな。心臓と首が無事なら動ける。
魔術で液状化させた地面を動かせば、すぐ飛び退いた。誰だって、ぬかるんでいる地面の上で戦いたくはない。腕に自信がある魔術師なら、深追いしないはず。チャンスはこの先、いくらでもあるんだから。肩に突き刺さっている棘を掴んで、へし折る。不思議と痛くなかった。さっき、レナード殿下の激しい憎悪が容赦なく注がれ、神経が昂ぶってる。
(目の前にいるのは国王陛下じゃない。厳密に言うと、敵じゃないかも……)
私に出来ないことをしてくれる人達でもある。この塔から、レナード殿下を連れ出して逃げて。お願い。私も国王陛下なんて大嫌い。でも、レナード殿下は塔で私と一緒に過ごすのが幸せって言ってくれたから。みんな、レナード殿下の意思をことごとく無視しようとするから……。
殺さずに追い返す。かなり難しいけど、出来るかもしれない。嫌われたくない。傷付くところも見たくない。肩の棘に手を添え、体内に埋まっている先端を丸くした。呼吸するたび、動いていた棘が無くなる。
(あーあ。私がもっと強くて、もっと賢かったら、全部叶えられたのかな?)
おもむろに肩へ手を置かれた。ジュードだった。月明かりのせいで、いつもより顔色が悪く見える。私の肩に突き刺さった棘をゆっくり見下ろし、青ざめた。ロック・シュトナーはノーマンに取り押さえられ、激しく言い争っている最中だった。
「……何? ジュードがこのことを伝えていたら、怪我なんてしなかったのに。どうして、今さらそんな顔を」
「俺が悪いの?」
「っ当然じゃない! ノーマンがエドニアと手を組んで、侵入するって分かってたら準備できたのに!!」
「ごめん、俺、怪我してほしいわけじゃなかったんだよ。ちょっと、シェリーの気が引きたくてさ……」
掠れる声で言い訳を始めた。分かってる、責めるのは時間の無駄だってことぐらい。前の私なら、あそこで言い争いをしている二人を殺しに行ってた。冷静に動けないのがもどかしい。ジュードのすねを蹴り飛ばして、ぐちゃぐちゃ揉めてるおバカさん二人のもとへ向かう。胸ぐらを掴み、今にもノーマンをぶん殴りそうだったロックが気が付き、渋面で振り返る。
「おい! この日のためだけに用意したおもちゃを壊しやがって、ふざけんなよ!」
「……おもちゃを私に壊されたから、怒ってるの?」
「ドラゴンが好きなんだろ? あいつ」
「レナード殿下と呼んでください!」
「面倒臭いな、お前! さっき、ぶん殴ってやれば良かった。状況分かってるか? ああ?」
「分かってますよ。急いで探しに行きます。くれぐれも、シェリーに傷を負わせないように!」
だから、怒ってチンピラもどきの魔術師に掴みかかったのね。ノーマンが白い煙をまといながら、夜空へ浮かぶ。流れ星のようにぎゅいんと高速で移動して、消えた。王城に行くつもりだ。サムさんとバーデンが守ってくれたらいいんだけど……。ぼんやり夜空を眺めている時間はない。にやにや笑うロックに視線を戻したら、ジュードが近寄ってきて、私の肩へ手を回す。
「どうしてシェリーに怪我を負わせたんだ? レナード殿下の血が目当てなんだろ?」
「……ああ。だけど、ノーマンがなるべく穏便に済ませたいって言うから」
「話が噛み合ってない。どうしてシェリーに攻撃したんだ?」
「生きてるだろ。ぐちゃぐちゃ面倒臭いこと言うなよ、騎士気取りか?」
「レナード殿下なら王妃様の寝室にいる。だから、」
ついうっかり、ジュードの頭を棍棒で殴っちゃった。よろめいて、地面へ倒れこむ。気絶したジュードの後頭部を眺めつつ、棍棒に魔力を流して、銀色の玉子に戻す。死体を集める凶悪な魔術師のくせに、何とも言えない、微妙に私を責める眼差しで見つめてきた。
「……良かったのか? 味方なんだろ?」
「なれなれしく肩に手を回してる様子を見て、分かったでしょ? ジュードは味方のふりをした敵なの」
「分かんねぇよ! ったく、王族の趣味も分からん。じゃじゃ馬娘の調教が趣味か? ああ、それなら少しは分かる。お前は躾がいがありそうだ」
「レナード殿下にそんな趣味はないから!」
「どうだか。お前を誘拐して、王子様を脅迫するのが手っ取り早い」
肩に埋まっている棘が肥大化して、皮膚を突き破った。これ、武器じゃなかったんだ。武器として、こいつの手元を離れたわけじゃない。私の体に棘を寄生させたんだ。使われた魔術を見抜けなかったなんて……。
強烈な痛みが走って、地面に膝を突く。血が滴り落ちていった。棘がゆっくりと皮膚の中で回転し、嫌でも想像してしまう。棘が、私の筋繊維や血管を抉っているところを。激しい痛みで呼吸が荒くなってきた。以前だったら、こんなの、平気だったのに……。傷口を押さえても、血は止まらない。かろうじて倒れていない私の前に立って、それはそれは優しい声で語りかけてきた。
「なあ、シェリーちゃん? 取引をしよう。いじめに来たわけじゃないんだ」
「……ふざけないで。取引?」
「そう。抵抗しないって約束出来るのなら、これ以上は何もしない。俺のおもちゃを壊したことだって、まあ、怒らないさ。怪我も治してやる」
「悪趣味ね。あれがおもちゃ?」
「ここの王子様は可哀相に、あー、ほら、島に行けないんだろ? 外に出られないからドラゴンの背中に乗って、夜、空中散歩してたんだろ?」
「だから、なに……」
ノーマンに知られてたんだ。それとも、レナード殿下が話したのかな。痛みで朦朧としてきた頭で考える。目の前に座り込むロックが、こともなげに話した。
「ドラゴンが好きなら乗せてやろうかと思って。好きなドラゴンがいれば、ちょっとは大人しく言うことを聞いてくれるかもしれないだろう? 火葬前の死体を調達して作ったんだ。骨が折れたよ。あいつら、バカみたいに騒ぎ出して……」
ぷちんと何かが切れた。あの夜、レナード殿下と見た、美しいディープグリーンの鱗。こちらを見つめるドラゴンの大きな瞳。両手を広げ、夜風に当たりながら笑っていた顔。小さい頃、ドラゴンの背中に乗せて貰った話を聞いて、蜂蜜色の瞳を輝かせていた。初めて本音を話してくれた日。
誰にも言っていなかった話を、私にだけしてくれた日。レナード殿下とお母様の思い出も、楽しくて、ひたすらはしゃいだ綺麗な夜も、今、こいつに全部穢された。ドラゴンの死体を盗んで、おもちゃにして、おびき寄せようと……。銀色の玉子を強く握りしめる。耐えられないほど、手が熱い。
「っ泥まみれの口で語らないで!!」
「ぐっ!?」
油断していたロックの口の中へ、ナイフを突っ込んでやった。このまま切り裂いてやる! 地面に倒れたロックにまたがって、思いっきりくちびるの端を切り裂く。両手で私の手首を掴み、必死で逃れようとしていた。手首に凄まじい熱が襲いかかってくる。皮膚を燃やされた。
でも、やめられない。やめたくない。このまま、相手に致命傷を負わせたら、どうなるか分かっているのに! ドラゴンの気持ちも、レナード殿下の気持ちも、美しい夜も穢したクズのことが許せなかった。飛び退いて、体勢を整える。
ロックが血で汚れた口元を拭い、憎悪に満ちた視線を向けてくる。殺気の塊だ。でも、ちっとも恐ろしくなかった。怒りが頭を支配してる。術語を紡ぐ前に走って、相手の懐へ入り込む。足元から素早く棘が這い出てきた。生き物みたいに動いて、私を捕まえようとしている。
喉元にナイフが届けばいい、腹でもいい。喉元に狙いを定め、突き刺す直前、ぐにゃりとナイフの切っ先が曲がった。無数の棘を生やしたツルが、私の腕と足を絡め取る。身動きが取れなくなる前に、風でなぎ払う。一瞬の隙を突いて、私を殴ろうとしてきた。それを避けて、地面を底なし沼に変化させ、ロックの足を蹴り飛ばす。
真っ赤な光が炸裂して、何も見えなくなった。さっき、考えていた魔術を行使する。もういいや、どうにでもなれ。勝てないって知ってるよ。相手は一等級国家魔術師だもん。でも、傷を負わせたい。レナード殿下を譲りたくない。底なし沼を地面へ戻したロックの頭上に、雷を落とす。
一気に魔力を失った。手と舌が震え、頭の芯が冷たくなる。なのに、汗が滲んできた。次は黒い水の矢を複数出して、膝を突いているロックに放つ。防がれるのは分かってる。黒い水の矢が霧散した瞬間、足元の地面に槍を生やして、ロックの体を突き刺す。野太い悲鳴が上がった。あの黒い水が服や肌に触れると、ただれて、焼け落ちる。
あのクズが騒いでる間、逃げようかと思っていたんだけど……。魔力が底を尽きかけていた。膝から力が抜けて、崩れ落ちる。おしまいね、ばいばい。私の魔術を無効化したロックが、悪態を吐きながら近付いてきた。焦げ臭い匂いがする。ぶつぶつ文句を言いながら、怪我を治していた。猛スピードで私の頭を掴み、地面から持ち上げる。ぶらんと足先が浮いた。
「こんなやつに怪我させられるなんて、あーあ、自信を無くすぜ! 人が大人しくしていたら、調子に乗りやがって!! クソが!」
「っう……」
「どうした? 魔力切れか? バカみたいに連発してたもんなぁ」
思いっきりぶん殴られる。口の中に鉄臭い味が広がっていった。じんじんする。掴まれた髪の毛も痛い。精一杯頑張ったけど、無理だった。以前の私なら、もう少し戦えたのかな……。ロックが愉悦に満ちた笑みを浮かべ、私を細い針で突き刺した。体が震える。肩と腕、太ももと足の甲、腹に突き刺さっていた。呼吸ができない。呼吸をすれば、突き刺さった針が動きそうで怖い。
「怪我させないよう、気を使ってやったというのに……!! 知ってるか? バカは真っ先に死ぬんだ。考えなしのバカが一番弱くて、すぐに死ぬ」
激痛を味わっている暇は無かった。叫び出したいほどの痛みが、私の意識を黒く塗り潰していった。




