6.女性の愚痴は人外者でも止められない
足を揺らしながら、辛抱強く待つ。背後で眠っているローザ様が突然、苦しそうに呻き出した。ひょっとして、毒でも盛られちゃった? 慌てて顔を覗き込んでみると、眉根をきつく寄せ、くちびるを噛みしめていた。心配。どうしよう、起こした方がいい?
間近で眺めていたら、ゆっくりと青い宝石のような瞳が見開かれ、驚いたように瞬いたのち、優しげな微笑みが浮かぶ。顔色が悪いから、痛々しい微笑みになっていた。
「……ごきげんよう、シェリーちゃん。申し訳ないわ、こんな姿で」
「いいえ、大丈夫ですよ。痺れや吐き気はありませんか?」
「悪夢を見ていたの」
「どんな?」
「私だけ、真っ暗な世界へ逆さまに落ちてゆく夢。私の足元だけ、ガラスが弾け飛んでしまって…」
「ただの夢ですよ。私はここにいて、ローザ様はソファーに寝そべってる」
「そうね、ただの夢。ただの夢なのよ」
震える華奢な両手で、私の片手を強く握りしめた。彼女はか弱いお姫様。翼が折れちゃった小鳥ちゃんでもある。目元に浮かんだ涙をそっと拭ってあげて、おでことおでこを合わせる。急に優しい頭突きをされたからか、戸惑っていた。
「悪い夢を見た時はこうするんですよ。おまじない」
「そうなの? 知らなかったわ。シェリーちゃんはどこの国で生まれ育ったの?」
「国?」
「あまり見かけない目の色だから……。ご両親の出身は?」
「出身」
私は、どこで生まれ育ったんだっけ? 夏になると、曲がりくねった石畳の道のあちこちで真っ赤な花が咲き誇る。赤い花だけじゃない。市場も、海へ続いている下り坂も、公園もみんな、鬱陶しくなるほど、色とりどりの花であふれ返っていた。
風景は思い出せるのに、国の名前も街の名前も思い出せない。そういえば、ユーインとあの街の話をしたことないかも……。急に頭がぐらついた。キーンと耳鳴りがする。
「ごめんなさい。つらいことを思い出させてしまった?」
「いえ……」
「顔色が悪いわ、少し横になって。私ならもう大丈夫だから」
言われるがままに、ソファーへ腰かける。バーデンが潜む足元の影が、不安げに揺れていた。頭の奥でサイレンがけたたましく鳴り響いているみたい。金属を引っ掻いたような耳鳴りが止まない。ほどなくして、無表情なメイドが入ってくる。
スイーツが並べられたワゴンを押し、黙々と茶器やスプーンを並べ、緩慢な動きで出ていった。この間のメイドよりはましね。でも、気に食わない。隣に座っているローザ様が、目元を押さえる私を見つめ、優しい声で話しかけてくる。
「今日はね、フルーツをふんだんに使ったタルトを用意したの。食べられる?」
「はい……。どこも、悪くないので」
「お茶を淹れてあげましょうね。喜ぶかと思って、魚が泳ぐお茶を注文したのよ」
「魚?」
「どれにする? 銀色の魚と白い魚。二つあるの、ほら」
薄いティーバックに包まれているのは、なめらかな石で作られたように見える、銀色の魚と白い魚。茶葉に小さな雑貨がまぎれこんでいるかのよう。茶葉と一緒にティーバックの中へ押し込められた魚は、ちょっとだけ窮屈そうに見えた。首を傾げ、悩んでいる私のそばで、ローザ様がくすくすと笑う。
「……白いお魚にします」
「分かった。じゃあ、よく見ていてね。面白いのよ、きっと気に入るわ」
青い水の模様が描かれた半透明のティーポットへ、魚が混じった茶葉を入れて、熱いお湯を注ぐ。待ち侘びていたと言わんばかりに、白い魚が泳ぎ出した。つるんとした体。驚くほどなめらかで、鱗の一枚一枚が白く光っていた。
底に沈む茶葉から、淡い琥珀色の液体が滲み出す。だんだん茶色く染まってゆく液体の中で、優雅に泳ぎ、私を真っ黒な目で見つめ、白い尾ひれを翻す。
「可愛い……。私のこと、見てる」
「気に入ってくれたかしら」
「はい、もちろん! 魚って可愛いんですね」
「癒されるわよね、この動き。お湯から出せば、石に戻っちゃうんだけど」
「ん~、悲しい……。お茶、飲めません」
「大丈夫よ。少しずつ飲んでいけば止まらないから」
「はい」
飼えないのかな、このお魚。ティーポットを指で叩けば、反応して近寄ってくる。真っ黒な目がつぶらで可愛い。ティーポットに手を突っ込もうとしたら、慌てて止められた。
「だめよ、火傷しちゃう!」
「触ってみたいんですけど……」
「冷めてからね。シェリーちゃんの分だけポットの中に残しておくから、手を突っ込むなり何なり、好きにすればいい」
「分かりました。これ、どんな感触ですか?」
「……触ったことがないから、よく分からないわ。見て楽しむものなのよ、これって」
以前、レナード殿下に見せて貰ったことがあるような気がする。忘れちゃった、上手く思い出せない。さっきの頭痛とめまいのせいだ。両耳に金属音の残滓がまだこびりついてる。自分の頭を撫でながら、じっと泳ぐ魚を見つめている間、ローザ様がケーキをお皿に載せてくれた。
三角形の黒くて薄いチョコレートが、濡れたような艶をまとうフルーツに突き刺さっている。下はさくさくのタルト生地。タルト生地の上にフルーツが山ほど載っていて、食べにくそうだった。
「初めて見る造形のケーキです」
「そう? ……レナード殿下はシェリーちゃんに、今、人気のパティスリーで売られているケーキを買ってくることはないのかしら」
「ありません。滅多に外出できないので」
「私と一緒ね。お気の毒」
どうでもよさそうな口調で言い放つ。まずは、おそるおそるフォークを突き刺して、三日月型の白い果肉を食べてみることにした。どれもこれもフルーツは丁寧に切られ、美しく盛り付けられている。
瑞々しくて美味しい! 弾力があってむちむちした食感だ。意外。ほんのり甘くてかなり好きかも、これ。フルーツを掘り出してみると、黒いクリームが出てきた。よく分からないけど美味しそう。掬って食べてみると、ほろ苦いコーヒーとチョコの味がした。がつんと、アルコール度数高めの香りが鼻腔を突き抜ける。
「おっ、大人の味わいですね……」
「ごめんなさい、口に合わなかった? べったり甘いものは嫌いだって言ってたから、苦めのケーキにしてみたんだけど」
「大丈夫です。くせになる味わいです……」
「そう? 無理しないでね。ぜひお茶も飲んで。掴んでもいいわよ」
「やった!」
「まだ熱いから飲むだけにして」
「えー、言ってることが違う……」
「間違えたのよ。もう少しだけ待ちなさい」
白いティーカップに、より深みが増した琥珀色の液体が注がれる。ティーカップを持って、ふうふう息を吹きかけている私を見つめ、白い魚が不思議そうな顔をしてた。表情筋がないのによく分かる。面白いなぁ。
魔術で動いているだけの欠片なのに可愛い。お茶はほんのり苦くて渋かった。でも、軽やかですっと喉に染みこんでゆく。お酒の香りが漂う、濃厚なチョコクリームと相性抜群だった。
「最近、レナード殿下とはどう? 順調? 私について何か言ってた?」
「お姫様だって言ってました。所構わずキスされるけど、順調です」
「そう。……レナード殿下って掴みどころがない人でしょ? 煙みたいな人だと思っていたのよ」
「煙みたいな人」
「だって、ろくに喋らないし。出会った頃、レナード殿下は確か、十七歳か十六歳だったはず。あれぐらいの年齢で静かな男性って、不気味でしかないのよね」
「へー、そうなんですか」
結構うるさく騒ぐタイプだけどなぁ。今日、エナンドが買ってきてくれたシャツワンピースを着ただけで、ぶうぶう文句言ってたし。赤い果物を突き刺して、食べてみる。酸っぱい!! 口の中で酸味の爆弾が弾けた。慌ててチョコクリームを食べてると、中和される。美味しい。酸っぱいのが美味しくなった。
「ま、何はともあれ、上手くいっていて良かったわ」
「レナード殿下の血について話を聞かせてください。色々知ってるんでしょう?」
「……少しだけね。シェリーちゃんの望む情報は多分、持ってない」
「それでもいいです。聞かせてくださいよ」
私、癒しの血がどれだけ重要なのか、いまいち分かってない気がする。陛下の動向を探りたいけど、私の仕事じゃないし、バレた時、レナード殿下の立場が危うくなる。親子仲が悪いこと、今の王妃様との間にできた息子を可愛がっていることしか知らない。……逃げるのなら、状況を把握しておいた方がいい。ローザ様が足を組み直し、細い顎へ手を添えた。
「胸糞悪い話だけど大丈夫?」
「大丈夫です。周りが人間の形をしたクズばかりだったので、慣れています」
「苦労してきたのね……。レナード殿下の母君、前の王妃様って無理やり連れて来られたんですって」
「無理やり?」
「そう。内緒よ。多分、レナード殿下もこのことは知らない」
カーティスの話を思い出した。山岳地帯に住む、特別な血を持った人々の話。嫌な予感がする。ローザ様が物憂げな表情を浮かべ、おかわりのお茶を注いでくれた。空のティーカップが琥珀色の液体で満たされ、熱気が立ち昇る。
「王太后様、つまり、レナード殿下のお祖母様ね。先代の国王陛下が山深くにある遺跡を見に行ったさい」
「遺跡!? どうして、遺跡なんか……」
「そういうものが好きな御方だったのよ、先代の王様は。好奇心にあふれていて、何でも自分の目で確かめてみないと気が済まない性格。狩りと芸術品、遺跡、そして女性とお酒をこよなく愛していたの」
「へー」
「わずかな数のお供を連れて、遺跡を見に行ったさい、崖から足を滑らせて落ちてしまったのよ……。幸いにも一命は取り留めたものの、到底、下山できる状態じゃない。もちろん、従者達は大慌て」
ローザ様が眉間にシワを寄せ、「無鉄砲で浅はかな王様のせいでみんな、苦労したんですって」と付け加える。会ったことないけど、かなり面倒臭そうな人だ。死んでて良かった。ローザ様が舌を湿らせる程度に、お茶を少しだけ含んでから、話を再開する。
「そんな時、現われたのがレナード殿下の、母君の親族だった。彼は今にも死にそうな陛下に血を飲ませ、傷口に血を振りかけた」
「血を……?」
「普段は傷口に塗るだけで済むけど、重傷だから飲ませると言って飲ませたそうよ。たちまち陛下の傷は治り、立ち上がれるようになった」
多分、血を与えるべきじゃなかった。話がどう転がっていくのか、たやすく想像できて、憂鬱な気持ちになる。チョコクリームの下から現われた生クリームを舐めるしかない。フォークで雪のような生クリームを掬い上げ、ぺろぺろ舐めてみる。甘かった。
「無事に王宮へ帰った陛下から、その話を聞いて王太后様が興味を示した。お礼にぜひ伺いたいと言って、魔術師を連れ、山奥へ向かったの」
「……酷い」
「分かるでしょ? 話の結末が。王太后様は魔術師に命じて、山奥にあった村を焼き払い、逃げ出す人々を捕まえようとした。でも、向こうの方が一枚上手だった。ほとんど逃げ出していて、あまり人がいなかったの」
「どうして?」
「外部の人間を治したと知った瞬間、逃げ出したのよ。何度も何度も追われ、狩られてきたから、逃げ足が速かった。村に残っていたのは足が悪いお年寄りだけ。怪我や病気は治せても、老化は止められないからね」
ローザ様が青い瞳を伏せ、紅茶を飲む。私は残ったタルト生地を食べることにした。フォークに突き刺し、齧って食べてみる。幸いにも、ローザ様はお行儀が悪いと言うようなタイプじゃなかった。
「そこへ、足の悪い祖父母が気がかりで、村へ戻ってきたレナード殿下の母君を捕まえた。大人しく血を差し出すから、どうか村の人々は諦めてくれと涙ながらに訴える少女を見て、さすがに罪悪感を感じたのよ。王太后様は諦めることにした」
「王太后様が、すべての元凶なんですね……」
「そうかもね。強烈な御方で、王妃にならなければ、クーデターを起こして、王冠を頭に戴いていただろうと言われるぐらい、政治的手腕に優れていて残酷だった。王様は道楽好きだったから、政治は王妃様に任せっきりだったそうよ」
「怖い……」
「でしょ? 王太后様はいくつか条件を提示したの。その中の一つが子どもを産むこと。まだ相手がいない息子と引き合わせ、子どもを産ませた」
始め、王太后様は息子にあてがうつもりはなかったらしい。だけど、まったく他の女性に興味を示さなかった王太子が興味を示したので、喜んで引き合わせた。こうして、癒しの血を持つ少女は王太子と恋に落ち、やがて王太子妃となる。
王太子が駄々をこねたからだ。息子は女性に興味が無いのかもしれない、と深く思い悩んでいた王太后様にとって、喜ばしい出来事であり、連れてきた後ろめたさも手伝い、反対しなかったそう。
「貴族の養子となって、王太子妃に即位。めでたし、めでたしで終われば良かったんだけどねえ。数年後、立て続けに王太后様、先王陛下が亡くなって、いきなり王太子様に重圧がのしかかった。今の陛下は気弱で有名なのよ。知ってた?」
「何となく聞いたことがあるような……?」
「それでいいわ。二人の仲に亀裂が走り、王妃様は幼いレナード殿下を連れて逃げ回った。とは言っても、静養と称して旅行を繰り返しただけ」
「……」
「で、あっけなく王妃様も亡くなられたのよ。幼いレナード殿下を残して」
続きは知ってる。陛下は初恋の人だった今の王妃様を迎え、息子であるレナード殿下を塔へ幽閉した。王妃様は自分の子どもを王位に据えたいから、目障りな第一王子を塔へ追いやったんだと噂を流され、今も苦しんでいる。以前、あの人も被害者なんだよって、レナード殿下が言っていたことを思い出した。
「ね? 胸糞悪い話でしょう? お気の毒に。ああ、国民は知らないから話しちゃだめよ。異国の少女が王太子様に見初められて、玉の輿に乗ったことにされているんだから」
「はい、分かりました。……レナード殿下は、このことを知らないんですか?」
「そのはずよ。ごく一握りの人しか知らない。だって、王族が何の罪もない人々の村を焼いて、強引に少女を連れて帰ってきたのよ? 公表するはずがない」
「ですよね……。言わない方が」
「いいに決まってる。内緒よ?」
この話を聞いたら、レナード殿下はなんて言うんだろう。顔をくしゃくしゃに歪めて、うつむきそうだと思った。王太后……。見ず知らずの人に対して、憎悪に近い怒りを感じるのは初めて。そんなことがなければ、今頃、レナード殿下は山奥でひっそり暮らしていたのかな?
ううん、私と出会えなかった。悲劇が無ければ産まれてこない。黙り込んでいる私を見つめ、ローザ様が不安そうな表情になる。自分でもびっくりするほど、冷静な声が出た。
「お気になさらず。大丈夫ですよ」
「本当? シェリーちゃんって静かに怒るのね」
「いえ、怒る時は騒ぎます。お茶を注いで、魚、掴んでみてもいいですか?」
「どうぞ。気をつけて」
「はーい」
半透明のティーポットを傾け、お茶を注ぐ。ぜんぜん熱くなさそう、いけるかも。これから何が起こるのか、ちっとも理解していない様子の白魚をむんずと掴んで、ティーカップへ移す。ぬるっとした、意外。鱗も尾ひれも硬そうに見えたから、つるんとしているのかと……。
今度はティーカップを持ち、お茶の中へ手を突っ込んで、魚を掴んでみる。嫌がって暴れ出した。やっぱりぬるぬるしてる。鱗はざらりとしていて、鋭くない。頭を撫でてみると、「もういい?」って言いたげな黒い目で見つめてきた。しばらくの間、撫で続けていたら大人しくなった。
「気に入ってくれて良かったわ。楽しそうね」
「あ、私、早く帰らないといけないんです。この間、遅かったから」
「……じゃあ、帰る前にちょっとだけ私の愚痴を聞いてくれる?」
「いいですよ! どうぞ」
返事したのが間違いだった。うんざりするほど、旦那さんの愚痴を延々と聞かされた。帰り道、バーデンにどうして止めてくれなかったのって言ったら、ふんと鼻を鳴らし、帽子のつばを掴んで「俺に止める勇気があると思うのか?」って言われた。ぜんぜん威張れることじゃない。この一件で、女性の愚痴は人外者でも遮れないって学んだ。あーあ、疲れた!




