4.嵐をそよ風へ変える方法
レナード殿下が私をしっかりと抱きかかえ、飛び降りる。大丈夫かな? 筋肉がある方じゃないし、骨にヒビでも入ったら……。杞憂だった。私を優しく地面に降ろしたあと、平気な顔で立ち上がる。
カーティスが器用に翼を折りたたみ、ふっと、姿を消した。あ、違う。人間の姿になったんだ、びっくりした。ドラゴンから人間の姿になったカーティスが、トレンチコートの裾を翻し、大真面目な顔で近寄ってくる。
「どうだった? 二人とも。空の旅は」
「最高の気分だよ! ありがとう。まさか、海まで行って貰えるなんて!」
「風で髪がぐしゃぐしゃになったけど、楽しかったです」
「……はしゃいでいるところ、水を差すようで申し訳ないが、背中の上でイチャイチャするな! 観光地にいるドラゴンだったら、振り落としていたぞ」
「観光地にいるドラゴン?」
何それ、初めて聞いたんだけど。私、ドラゴンに詳しくないからよく分かんないって言おうとしたら、すかさずレナード殿下が説明してくれた。
「ドラゴンの背中に乗って、空を飛ぶアクティビティがあるんだ。ドラゴンは気高いから、滅多に人を乗せたりしないけど……」
「その通り。給料が良いから、プライドを捨てなきゃ生活できない貧乏人どもがやってる。ごくたまに、人間好きなお年寄りがやっているけどな」
「へー、知りませんでした」
「あいつらは大抵、恋人がいないから背中の上でイチャつけば、叩き落とされるぞ! 何度かそれで人が死んでるんだ、なのにお前達ときたら、」
「知らないもん!! 私がイチャつきたいって言ったわけじゃないのに、どうして怒られるの!?」
「ご、ごめんごめん、俺が全部悪かったから……。落ち着いてくれ、シェリー」
「やっぱり殺して埋めましょう。些細なことで激怒するドラゴンなんて、この世界に必要ありません」
手に力をこめて、眩しい光を生み出す。作るのは分厚い鱗を一刀両断できるほど、切れ味が鋭くて硬いナイフ。まずは意識を集中させ、青い菱形の結晶を生み出したところ、レナード殿下がそれを掴み、奪い取った。
「あーっ!?」
「あー、じゃないよ、まったく。物騒なものを生み出しちゃいけません!」
「おそろしく速いな……。魔術って、そこまで便利なものじゃないだろう?」
「私は特別なんです。武器でも、コップでも、生み出そうと思えば何でも生み出せます」
「なるほど?」
「シェリーに嫉妬されるから、やめてくれないか?」
こそこそと、カーティスがレナード殿下の背中に隠れる。レナード殿下よりも身長が高いから、まったく隠れられていない。腹が立って引き剥がす前に、レナード殿下がべりっと引き剥がしてくれた。うん、さすがは私の恋人だわ! 嬉しくなってきちゃった。殴るべきなんだけど。
「ありがとう、カーティス。血を渡すから帰ってくれ。シェリーが嫉妬する」
「忘れてた!! 一応、ジャムの瓶を持ってきたぞ」
「ジャム……」
「家にこれしかなかったんだ。水筒にいれない方が良いだろうし」
「不衛生だもんな。よく分かるよ」
「ちょっと一発殴らせてください。とりゃ!」
「うあっ!?」
「シェリー、だめだって……。いや、今のは完全に俺のミスか。余計なこと言わなきゃ良かった」
顔に傷が残ると怒られそうだから、お腹を全力で殴ったのに、ちょっぴり怒られた。不満! 理解できない。言葉の暴力を暴力で返しただけなのに。カーティスが咳き込み、地面に転がったジャムの空き瓶をレナード殿下が拾う。すんなりと咳が落ち着いちゃったみたいで、息を深く吐き出した。
「……嘘だろ? おかしいって。本当に普通の女の子か?」
「普通の女の子に見える!?」
「普通の女の子に見えないって話をしているんだ! 見てみろ、ほら。俺は腹にも鱗がある」
「本当だ。触ってみてもいいですか?」
「だめ」
「シェリー、不用意に男の体に触っちゃだめだよ」
「鱗があるから、人間のパンチなんてものともしないはずなのに……」
「拳に空気の壁をまとわせて、殴りました!」
「ふーん。血を貰って、大人しく帰った方が良さそうだな。すまん、もう余計なことは言わない……」
私から目を逸らし、空き瓶を差し出す。レナード殿下が苦笑しながら、魔術で針を生み出し、指の腹を突いた。慣れているその仕草を見て、ちくりと胸が痛む。不思議。私が刺されたわけじゃないのに、胸に針が突き刺さったような気がする……。
胸を押さえている間、レナード殿下は淡々と瓶へ、数滴の血を落としていた。カーティスが泣き出しそうな表情を浮かべ、震える手で、ゆっくりとジャム瓶の蓋を閉める。
「ありがとう……。これで叔父のことを助けられる」
「どういたしまして。カーティスのおかげで夢が叶った。母上の話も聞けたし」
「……俺が住む島へ来てくれたら、また、背中に乗せてやるよ。イチャイチャしても怒らない」
「ありがとう。分かっているだろうけど、血に少量の水を混ぜて飲ませるといい」
「分かった! 逃げ出したくなったら、いつでも言ってくれ。親族全員で駆けつけるから」
「頼もしいな」
すごく嬉しかったみたいで、カーティスがにこにこ笑い、レナード殿下を力強く抱きしめる。すぐに離れたけど、背中をばしばし叩いた。許せない。もう一発殴っても許されると思う。拳を作った瞬間、急にカーティスが見下ろしてきて、私の手を引っ張り、抱きしめた。
「わっ!?」
「物騒なお嬢ちゃんも元気でいろよ! 大丈夫だ。二人が愛し合っていれば、大抵の嵐はそよ風になる」
「離してください……」
「いいか? 二人とも。早まるなよ。もう限界だと感じたら連絡してくれ。いいな?」
「わ、分かった。ありがとう、カーティス」
押し潰す勢いで、私とレナード殿下を力いっぱい抱きしめたあと、破ったメモ用紙に連絡先を書き記し、手渡してきた。レナード殿下が嬉しそうに紙きれを受け取る。……ドラゴンになれる薬があったらいいのになぁ。たぶん、鱗があって、翼もあるから、初対面の怪しいドラゴンを好きになったんだ。私にも、鱗があれば。とめどなく考えていると、遠慮なく背中を叩かれた。地味に痛い。
「ありがとうな、お嬢ちゃん! 元気で」
「はいはい、お元気で」
「カーティスも元気で! また来てくれると嬉しい」
「えっ!?」
「ああ、分かった。叔父が治ったらまた来るよ!」
「来なくてもいいですよ……」
「陛下に見つかると危険だから、夜に来てくれ。じゃあ、また」
「またな、二人とも! 本当に助かった、ありがとう」
トレンチコートを羽織ったカーティスが、暗闇の中でも鮮やかに浮かぶディープグリーンの鱗をまとい、帆布のような両翼を広げた。人からドラゴンへ変わるさまを見て、ほんのちょっぴりだけ、レナード殿下がドラゴンに憧れる気持ちが分かった。悔しい。でも、見惚れちゃうほど綺麗。
拳を握りしめながら見守っていると、鋭い鉤爪を持った筋肉質の後ろ脚が、大きく地面を蹴り飛ばした。鱗で覆われた巨体が夜空へ向かい、風が巻き起こる。強い風が髪の毛を乱し、思わず目を閉じてしまった瞬間、レナード殿下が歓声を上げた。
「うわぁ! シェリー、見てくれ! 俺達、あれに乗ってたんだぞ! すごいな」
子どものようにドラゴンを指差して、はしゃぐレナード殿下を見たとたん、疎外感が襲ってきた。でも、いいや。レナード殿下が楽しかったのなら、それで。眼前を飛ぶ羽虫を捕まえて、握り潰す。陛下はまだ諦めていない。いつかは、血を提供しなくちゃいけない。前までの私だったら、レナード殿下をさらって逃げていた。
(一度試してみないとね。私の力がどこまで通用するのか)
モリスさんは国王陛下を敵だと思えって言った。初めて、胸に嫌な無力感が広がってゆく。ドラゴンの背中の上で、旅行に行きたいと言っていたレナード殿下の声が忘れられない。私は何もできない存在なんだ。
今まで、殺せばどうにかなると思ってたのに。レナード殿下はそれを望まないから、我慢しなくちゃいけない。浮かんできた涙を拭ってから、もう一度、夜空を見上げる。ドラゴンはおもちゃのように小さくなっていて、ろくに見えなかった。柔らかい夜風が頬を撫でてゆく。
「……レナード殿下、行きましょうか」
「ああ。怪我の手当てをしなくちゃな」
「すっかり忘れていました。もう大丈夫ですよ。明日の朝、バーデンに治して貰います」
「じゃあ、綺麗に洗って包帯を巻こう」
「わっ」
レナード殿下がひょいっと私を抱き上げる。別にいいのに、歩けるから。でも、満ち足りた笑みを浮かべ、優しく見つめられると何も言えない。黙ったまま、首に腕を回してしがみつく。
「寂しい思いをさせてごめん、シェリー。頼むから、ドラゴンになれる薬があったとしても飲まないでくれよ」
「……でも、私に鱗が生えてきたら嬉しいでしょ?」
「まったく! まったくもって嬉しくない。鱗で怪我するのは嫌だなぁ」
「あ、そっか」
「抱く時に、いででっ!?」
「恥ずかしいから思い出したくありません!」
「ごめんよ、悪かった……」
髪の毛を引っ張ったら数本抜けちゃった。あれ? 手加減したのに。おかしいな。さすがに謝ったら、苦笑しつつ、許してくれた。だけど、これぐらいはいいよね。私の前でドラゴンに見惚れていたんだし……。
バスルームヘ直行してすぐ、服を脱がされそうになった。嫌がると、しぶしぶ足の裏だけ洗ってくれた。浴槽のふちに腰かけ、丸い頭を見下ろす。ダークブラウンの髪が、浴室の薄暗い照明に照らされ、ほのかに輝いていた。私の目には鱗よりも光って見える。
「カーティスよりも、レナード殿下の方が綺麗ですよ」
「……綺麗? ありがとう」
「はい。レナード殿下は鱗に見惚れていたけど、私はまったく魅力を感じませんでした」
「ごめんごめん。おわびに、こうやって尽くしているから許して?」
「どうしようかな~」
長くごつごつした指先が石鹸を泡立て、足の裏や爪の間をくまなく丁寧に洗う。指が足の裏や爪の間に触れるたび、くすぐったい気持ちになる。最後は水流が弱めのシャワーで洗い流してくれた。きゅっと蛇口をひねり、立ち上がる。
「これでよし。傷口、痛まない? 大丈夫?」
「ちょっとだけ治して貰ったので大丈夫です。過保護ですね」
「過保護にもなるさ。……俺のせいでごめん」
「ありがとうって言ってくれたら、それでいいのに」
「ありがとう、シェリー。ドラゴンよりも何よりも好きだよ」
甘い言葉を口にしてから、私のことをもう一度抱き上げた。体を預けていると、不安や嫉妬心が消えてゆく。もういいかな、責めなくても。つやつやの、宝石のように美しいディープグリーンの鱗が無くても、好きでいてくれるのなら……。
眠たくなってきた。お湯を浴びたせい? まぶたが重たくなり、小さいあくびが出る。レナード殿下が残念そうな表情で、かすかに息を吐いた。背中が柔らかいもので包まれる。
「無理させてしまってごめん。おやすみ、シェリー」
「……はい。ベッドでしたか」
「うん。一緒に寝よう」
「寒い……」
「タオルケットじゃ足りないかな? ちょっと待ってて」
寝そべっている私を、柔らかい薄手の毛布で包んだあと、丁寧に包帯を巻く。気が付けば、毛布の中で抱きしめられていた。胸元のシャツへ思いっきり鼻を突っ込み、ふんふん嗅いでいたら、レナード殿下が苦笑し、私の背中を撫でる。眠りたくないの、もう少しこのままでいたい。何もかも全部忘れて、すやすや眠るのはもったいないでしょ……。
「ひょっとして、俺、臭い? 無言の抗議だったりする?」
「海の匂いがします」
「ごめん。離れて眠った方がいい?」
「落ち着くから、このままでいたいです……」
「ならいいんだけど。臭かったら言って」
「はい。眠るのが怖い時ってありますか?」
「あるよ。怖いの?」
心臓が縮んでしまうほど甘い声。鼓動が速くなった。落ち着かない。シャツをぎゅうっと握りしめたまま、無言で頷くと、頭の後ろへ手を回した。長い指先が髪を梳かしてゆく。こうしているのが一番幸せだって言ったら、傷付くかな?
ドラゴンの上で見る夜景もいいけど、私は二人きりがいい。寄り添って眠るのが一番幸せ。深く上下している胸元に耳を当てたら、心臓の音が聞こえてきた。嫌なことや過去を洗いざらい全部、忘れられそうな音がする。
「眠れないのなら、子守歌でも歌おうか?」
「一緒に歌います?」
「斬新な発想だね。別に、それでもいいんだけど……」
「歌うのなら一人で歌ってください。眠たくなってきました」
「歌わないよ。歌いたいわけじゃないって!」
くすくすと笑い、おでこにキスしてくれた。幸せなまどろみへ沈み、もうそろそろ眠れそうだなと思った瞬間、意識が途絶える。レナード殿下におやすみなさいって、ちゃんと言えば良かった……。
急に毛布を剥ぎ取られる。目を開けてみると、真っ白な光が突き刺さった。こちらを覗き込んでいるのは、私と同じ赤紫色の瞳。虚ろで何を考えているのか、ちっとも分からない。
「おはよう、シェリー。昨夜はどうだった?」
「……眠っている私に近付くなって、命令して貰う必要がありそうね」
「もう襲ったりしないよ! 大丈夫。エナンドさんに縛られてるんだから」
「レナ-ド殿下は?」
「採血しに行った」
「……そう」
朝日があまりにも眩しくて、腕を目元へ押し付ける。いつかはこうするんじゃないかと思ってた。レナード殿下いわく、遅れてやってきた反抗期。多分、ちょっと足掻いてみたかっただけ。私に内緒で、休ませてくださいって伝えてたのかも。
いつからか、血を採るお医者さんが来なくなったし……。黒いシャツを着たジュードが私の毛布を腕にかけて、バルコニーへ続くドアを開け放す。風が部屋に舞い込んできた。何もする気が起きないけど、一旦起き上がって、膝を抱えてみる。毛布を手早く干したジュードが戻ってきて、見下ろしてきた。
「怒らないの?」
「レナード殿下が決めたことだから。いつか、こういう風になるんじゃないかって思ってたし」
「シェリーが悩む必要は無いよ。それに、大したことがない」
「大したことが……?」
「血を採られるだけじゃないか。少しだけ血を採る回数を減らすことになったみたいだし」
どうでもよさそうに呟き、ベッドへ腰かける。乱暴に座ったせいでベッドが軋んだ。分かってない。ジュードは何も分かってない。私の王子様に選択肢は無くて、自由を奪われて、元々囚人が住んでいた、血と古い魔術、怨嗟と冬の寒さが染みついた塔に軟禁されている。外出は、時々許されてるけど……。膝を抱えたまま、うつむいていると、静かな声でもう一度呟いた。
「俺達に比べたら幸せだろ。暴力を振るわれることも、尊厳を踏みにじられることもない。幸せだ、レナード殿下は」
「そんなことを言ったら、きりがないでしょ!? 今、まさに殺されかけている人に、お前らの方が幸せだって言われたらどう思う?」
「……どうでもいいかな。あ、ほっとするかも」
「でしょ? 私は嫌だ。レナード殿下には世界で一番、幸せでいてほしいのに。他の人なんてどうでもいい!」
レナード殿下が諦めて、行っちゃった。この状況が嫌なわけじゃない。ただ、ひたすら、レナード殿下が全部を諦めた目で受け入れているのが嫌なだけ。現実を破壊してしまいたい。みんな、殺して逃げられたらいいのに……。
おでこを腕へ押しつけ、息を止める。息を深く吸ったら、涙が出ちゃいそう。ジュードの前で絶対泣きたくない。分かっているのか、分かっていないのか、ジュードが溜め息を吐き、足を組んだ。
「そこまで気にするようなことじゃない。晴れやかな表情で行ってたよ」
「分かってなさすぎ! レナード殿下は、感情を殺すのが得意なんだから……」
「あーあ。もう、やめておこう」
低い声で呟き、静かに立ち上がる。肩がびくっと跳ねた。体がジュードを怖がってるような感じで、すごくイライラする……。扉が閉まり、ジュードの気配が無くなる。私が気にしなければいい話なのかな、これって。悩みすぎ?
しばらくの間、膝を抱え、めそめそ泣いていたら、ちょっぴり気分がましになった。ご飯でも食べよう。腕でごしごしと涙を拭い、洗面所へ行く。レナード殿下がくれた洗顔料と化粧水を目にしたら、胸が痛んだ。
(嘘吐き! 遅れてやってきた反抗期だって言ってたのに……)
最後まで反抗してほしかった。無理なのは分かってる。血のストックがあるから、陛下や鬱陶しいおじさん魔術師のロダンは余裕ぶっているだけで、拒否し続けていたら、無理やり血を奪っていくことぐらい、分かってる。
最善の方法だけど、ものすごく嫌な気持ちになった。鬱憤を晴らすため、レナード殿下の部屋にあるクローゼットを引っ掻き回し、紺色のポロシャツを奪う。私、今日はずっとこれを着る! ポロシャツに鼻を埋めて嗅ぐと、少しだけイライラが薄れていった。鼻歌を歌いつつ、螺旋階段を降りて、リビングの扉を開ける。ベージュ色のエプロンを着たエナンドと目が合う。
「おはよう、エナンドさん、カイ」
「おはよう! あれ、今日は呼び捨てじゃない……?」
「気分で変えてるの。前に助けてくれたから」
「へえ、知らなかったよ。だからかぁ、聞けて良かった。普段はレナード殿下がべったりしてるから話せないけど、いないから沢山話せるね!」
「ご飯は?」
「俺って飯係なの?」
「うん。あと、困ってる時に問題を解決してくれる人」
「都合の良い男ってわけか……」
時計の針が十一時を指し示していた。午前中だから、木の枝に囲まれたシャンデリアが燦々と眩しい光を放っている。切り株のような椅子に座って、エナンドが運んでくるご飯を待っていると、リビングの中央でストレッチしていたカイが黙って、扉から出て行こうとした。暑い季節なのに、グレーのローブを羽織っている。
「口が聞けないの? おはようって、返してくれたらいいのに」
「……喧嘩になるから、お前とは話したくない」
「ねえ、私が悪いの? ジュードがね、気にするようなことじゃないって言うんだけど」
「話が見えねぇよ。ちゃんと説明しろ」
「今、レナード殿下が採血に行ってるでしょ? 悲しくて」
「あっ、もう聞いてるんだ?」
「うん。悲しい」
エナンドがやって来て、レモンの輪切りと小さな赤い実が浮かんだ、アイスティーらしきものを目の前に置く。見上げたら、ふっと笑い、寝ぐせがついた私の頭を撫でた。朝から不機嫌オーラを撒き散らしていたカイも近寄ってきて、エナンドの手首を掴み、捻りあげる。
「いでてっ!? 何だよ、潔癖症だなぁ……」
「ジュードは頭がおかしいやつだから、気にするな」
「知ってるけど。たまには合ってることも言うかなと思って」
「言わないだろう。今回の件は俺も不服だ。でも、レナード殿下が決めたことなんだから従え」
「あれ? このままの状態で話すんだ……?」
「反対してないでしょ! まったくもう」
拘束されているエナンドが首を傾げても、カイは微動にしない。その代わり、眉間に深いシワを寄せ、一瞥した。今度は私へ視線を移し、濁った魚のような目で睨みつけてくる。
「いざという時はレナード殿下の身代わりになって死ね! 生きている間は心の支えになれ。余計なことは考えるな」
「……」
「シェリーちゃん、殺気立つのやめて!? 巻き込まれたくないよ~、嫌だよ~!」
「恋人になったんだから、黙って尽くせ。無駄飯食らい」
「無駄に食べてないもん!」
「護衛のくせに、ドラゴン一匹追い出せないのかよ」
やっぱり、どこかで見ていたんだ。エナンドが文句を言う前に、ぱっと手を放し、素早く出て行った。分かってるよ、そんなこと。黙って従うつもりでいたのに……。強く掴まれた部分を擦って、エナンドが溜め息を吐く。
「ごめんね、シェリーちゃん。あいつ、王城で悪い影響を受けたんだよ。まあ、嬉しかったんだろうけど……。レナード様が王子として扱われていたから」
「どうして私に八つ当たりするの? 意味分かんない!」
「レナード様が今まで手を出してきた女性、全員が貴族のお姫様だったから? シェリーちゃんは庶民だし」
「……」
「ふさわしくないと思ってるんだよ。俺としてはその、ふさわしいと思ってるけど。温室育ちのご令嬢じゃ無理だって。無理、無理。レナード殿下はお気に召さない」
ものすごくイライラしてきた。ストローをグラスの中へ突っ込み、力いっぱいかき混ぜていたら、エナンドが無言で離れていった。私のせいじゃないのに、カイはああやって、いつも突っかかってくる。レナード殿下の許可が降りたら、あんなドラゴン、一瞬で塵に変えてやるのに。
思いっきり吸い上げて飲む。レモンの香りがふわっと広がった。美味しい。美味しいけど、もやもやが晴れない。レモンの輪切りをむしゃむしゃ食べていたら、エナンドがおもむろに皿を置く。木を削り出したような丸いお皿の上に、一切れのパンとチーズ、白い小皿に盛られた木苺ジャムが載せられている。
「まさか、これだけ……!?」
「採血が終わったら、シェリーちゃんと一緒にご飯食べたいんだって。もうそろそろ帰ってくるから、これで我慢してね」
「分かった。一緒に食べます」
「うん、よしよし」
また頭を撫でられた。カイいわく、エナンドは女に触ってなきゃ気が済まない下半身ゆるゆる野郎だから、仕方ないのかも。レナード殿下に告げ口しちゃおうかな。
エナンドに触られた髪を撫でつけて、整えてから、薄くスライスされたパンを口へ運ぶ。がりっと、いい音がした。ほんのり温かくて美味しい。バターをつけなくても十分美味しい。最初の一口を噛みしめてから、緑の細かい葉っぱが混じったチーズを載せ、パンと一緒に食べてみる。
(美味しいな……)
なめらかで塩気があるチーズとハーブの苦味、ガーリックの匂い。粒胡椒も入ってる。美味しくパンを食べるために存在するチーズって感じ。
時々、天井から吊り下げられたシャンデリアの光が水のように揺らめき、テーブルに繊細な葉模様を映し出す。木陰でピクニックしてるみたい。ここはレナード殿下のために作られたお城。王子様はあまり外から出ることなく、偽物の光を浴びて暮らしている。
(でも、レナード殿下が幸せならいいや。どこまで付き合えるか分からないけど、偽物の平穏な暮らしに付き合おう)
今、どんな気持ちでいるのかな。屈辱的じゃない? お金儲けのために利用されるって。赤く透き通った木苺ジャムをパンの上に載せ、食べてみる。甘酸っぱい! パンの硬い表面に染み込んでるから、噛むたび、木苺の酸味が口いっぱいに広がる。あっという間に消えちゃった。美味しすぎて困る……。残されたチーズをもりもり食べ、グラスを空にしても、まだ帰ってこない。
「バーデン、退屈だからもふもふさせて。おーい」
「喧嘩でもしてる? 珍しいね、いないの」
返事は無い。まだ拗ねてるんだ、乗り物扱いされたから。代わりにエナンドが返事してくる。この際、もう、エナンドでいいかな。お皿を脇へ追いやって、キッチンで作業してるエナンドを呼び寄せ、上半身をべったりテーブルへくっつける。ひんやりしてた。
きめの細かい無垢材が頬に当たって、心地良い。森のような香りが立ち昇る。向かいの切り株椅子に腰かけたエナンドが、ぐでんぐでんの私を見て、苦笑を浮かべた。
「やっぱり怒ってる? 採血に行ったこと」
「……はい。何も言わずに行っちゃったから」
「キレるかもしれないから、何も言わずに行ったんだよ。このままだと穏やかに暮らせないし、まあ、いいんじゃない?」
「陛下が催促しなかったのって、レナード殿下があらかじめ、休憩しますよって言ってたから?」
「王妃様が止めていたからだよ」
「王妃様が?」
「なにせ、王妃様は陛下にとって初恋の人だからね! 未亡人なのに、周囲の反対を押しきって迎えちゃってさ……」
「何それ!? 知らない!」
「恋愛の話なんて興味ないだろ?」
王室の人間関係を把握するために必要な情報でしょって言えば、微妙な顔をする。ふんだ、今はあるもんね! 恋愛してるもん、私だって。頬をテーブルへ擦りつけながら、爪でグラスをこつこつ叩いてみる。レナード殿下がいないと退屈。ご飯食べたばっかりだから、運動もできないし……。
「そうだ、服を選んでくれない?」
「服?」
「明日、ローザ様のところに行くの。レナード殿下が選ぶ服はどれも強そうで、勝ち負けを意識してる雰囲気だから……」
「自慢したいんじゃない? 俺にはこんなに可愛い婚約者がいるぞって」
「……私がレナード殿下の代わりに戦ってる?」
「違う! 一旦、勝ち負けを無くそうか。自慢した方が勝ちってわけじゃないんだよ」
「もーっ、分かんない! 服を選んで! お屋敷に馴染む服で、戦闘力が低くて、動きやすいやつ!」
「そんな服持ってる? あ、買いに行けってこと……?」
エナンドとべちゃくちゃ他愛もない話をしていたら、レナード殿下が帰ってきた。リビングに入ってくるなり、私のことを抱きしめて、寝る前のようにおでこへキスする。陽射しを浴びたからか、くちびると手のひらが熱い。消毒薬の匂いがした。見上げると、黒い帽子を脱いで、晴れやかに笑う。
「お待たせ、シェリー。寂しかった? それとも怒ってる?」
「キスで誤魔化そうとしてるでしょ……」
「とんでもない! キスしたいからしているんだ」
何回も頬にキスされた。白い厚地のぶかぶかTシャツから出ている鎖骨を見て、心臓がぎゅっと縮む。言いたいことが沢山あったのに、言えない。どんな言葉もレナード殿下に届きそうにないから。代わりに、両手でレナード殿下の頬を挟み、くちびるへキスする。びっくりして、蜂蜜色の瞳を見開いた。
「……私はレナード殿下の味方ですから。誰が何と言おうと、あなたは自由になるべきです。しなくてもいい我慢をしてる」
「ありがとう。その言葉が欲しかった。シェリー」
蜂蜜色の瞳がわずかに光った。あ、泣いてるのかな。でも、嬉しいみたい。怒涛のごとく、明るくて爽やかな感情が流れ込んでくる。首に手を回して、深くキスしていたら、カーティスの言う通り、どんな嵐が来ても、そよ風に変わるような気がした。




