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★高校一年生 八月

夏休み。

 高校生にとっては部活動に汗を流すもの、勉学に身を費やすもの、青春に溺れるもの、怠惰を貪るものなど一月程度しかない休息の中で各々が日々を過ごすであろう。

 そしてそれは、同じく高校生である僕――桜井 凛史郎と目の前の容姿端麗の少女――五十嵐 春奈にとっても同様であろう。

 唯一違う点があるとすれば、僕らにとって長い休息日というのは常に牢獄に囚われている懲役刑のようなもので、もしこの『文学部』という逃げ場がなければ、町中を徘徊するゾンビのようになっていたであろう。

 そしてこの暑さだときっとゾンビも腐ってしまうのだろうな、と五十嵐から借りたパニックホラーものの恋愛漫画を片手に僕はそんなことを思う。

 どうでもいいが、この主人公とヒロイン、きっと世界がまともだったら噛み合うはずもなかったであろうに。こうして見ると僕のように恋愛に全く縁のない非モテ男どもは意外とゾンビが現れてほしいなーとか思っているかもしれない。

 多分真っ先に逃げ出すだろうけど。

 夏だからホラー縛り、とかアホなことをラインで言ってきた五十嵐は、僕の持ってきたホラー小説を夢中になって読んでいる。

 あれには全く恋愛要素がない真のホラーだ。まあ、その分救いも全くないがな。


 僕らは夏休みという長い牢獄の世界において、唯一の休息場でもおける場所に身を寄り添い合って日々を消化している。そういう意味では、この日常も僕らにとってはホラー世界なのかもしれない。


***

 完全下校のチャイムが鳴る。数回雑談を交わした程度でそれ以外は読書に夢中になっていた僕らはようやく本を机に置いた。

 そして読書の疲れを首を回して取っていると、五十嵐が興奮した面持ちで言った。

「この本、めっちゃ面白いね! 私ね、お化けとかでるようなやつ全く見たことなかったんだけど! なんかはまっちゃったかも!」

 あと少しでキスができるくらいの距離にまで五十嵐は僕に近づく。

 ……こいつ、この数か月で徐々に距離が近くなってくるな。慣れてきたのかなめられてきたのかは不明だが、面倒なことにならなければいいが。

 僕は五十嵐の肩を押して距離を離す。

 五十嵐はそんな僕の反応にも慣れた様子で、反省することなく続ける。

「ねえねえ! 明日はさ、ホラー映画見よ! 今無料体験でサブスク使えるんだ!」

「……明日からは学校閉鎖期間だろ? また翌翌週だな」

「……そうかあ」

 あからさまに落ち込んだ様子の五十嵐に対し、僕は何も言うことができなかった。

 ただ黙って帰り支度をする僕の背中を五十嵐が見つめているのがわかる。

 しかし、ゾンビ漫画の主人公のような気の利いたセリフは僕に言うことはできない。

「……悪いな。今日は僕の方が早く帰らないといけない日でな。……じゃあ、また再来週」

「……うん、またね」

 帰り際、僕が彼女の方を振り返ることはなかった。


***

『寝たか?』

『まだ起きてるよー』

『こんな時間にすまん、少しいいか?』

『ぜーんぜん! めずらしいね、桜井がラインくれるの。どしたの?』

『明日から学校閉鎖期間だろ?』

『うむうむ』

『明日会わないか』

『えっ⁉』

『厳しい?』

『ううん! あおあお! あそぼあそぼ!』

『おk。最寄り駅のショッピングモールでいいか?』

『うんうん! あそこなら涼しいし、ただで座れるもんね!』

『そうそう。金が使えない僕らには最適だろう?』

『りょ!』

『じゃあ明日9時に店前でいいか?』

『うーん』

『?』

『8時に一回学校前で待ち合わせして、少し散歩してから10時くらいに行こうよ。朝ならまだ涼しいでしょ?』

『いいが、何故?』

『開店早々からいるのはちょっちはずいじゃん?』

『なーる』

『そそ。それに学校が空いていない期間にさ、毎日そこにいるのも厳しいじゃん?』

『え? 毎日?』

『え? 違うの?』

『悪い、何でもない。それで?』

『うむ。で、毎日同じところにいるわけにもいかないからさ、新しいところも開拓しようぜー』

『了解。じゃあまた明日』

『ねちゃう?』

『いや、まだ大丈夫』

『もうすこしだめ?』

『いいや』

『よかった。それにしても桜井がこんなこと言ってくれるなんておもわなかった』

『ホラー映画、一緒に見るんだろ?』

『うんうん! イヤホン貸し合ってみよ!』

『貸してくれるのか?』

『もっちー。そういえば、今日は大丈夫だった?』

『まあ、いつも通り』

『そう。おつかれさま』

『ありがと』

『ねね、今から何個か作品のリンク送るから何見たいか教えて!』

『わかった』


***

「ふう……」

 僕は密着するくらい近い距離にいる五十嵐に配慮して息を吐き出す。

 異性間ということもあり、最大限の配慮をしている僕に対して隣にいる五十嵐 春奈はまったく気にした様子はなく、鼻息荒く僕の方へ振り向いて言う。

「今までの中でこれが一番面白かったね!」

 夏休みもド本番のお盆の時期。周囲の家族連れから見て僕らは一体どう見えるのであろう。そう思うほどの距離感に最近僕もマヒしてきている。

 少なくとも休み明けの学校ではこんなこと起きないように注意せねばな。

「ね? 桜井はどう?」

「ん? あ、ああ。確かにな」

「うっそだー。桜井ビビッてちょくちょく目を離してたじゃーん。面白さなんてわからなかったでしょー」

「バカを言うなよ。僕は怖かったのではなく、驚かされただけだ。昨今のホラーは恐怖よりもドッキリ色が強い気がするよな」

「そのわりには拳をぎゅっとにぎりしめてたよねー? 手を握ってあげてもよかったのに」

 誰にでもそんなことを言うから勘違いされるんだ、このビッチめ。

 ケラケラと揶揄うように僕の肩をゆする五十嵐を僕は恨めしそうに見る。


 こうして五十嵐と映画を見るようになって、三日が経過した。

 学校閉鎖期間は土日含めて八日。その初めの三日を僕らは一緒に過ごしている。

 毎朝早くに待ち合わせして二時間弱散歩をする。

 そして日が出始めたタイミングで近所のショッピングモールに避難する。

 お小遣いもなく、バイト代も親に渡している僕らにとって、金をかけずに居座れる場所は非常に有難い。昨日は市立図書館にいたが、居心地悪くて初日と同様にこのショッピングモールにいる。周囲が騒がしいから僕ら二人の喋り声など気にされるはずもない。

 そしてお昼は持参したものを食べ、門限の時間になったら帰る。

 お盆で人が多いから許されている蛮行だな。一切の売り上げに貢献しない僕らを置いておく必要などどこにもない。もしかしたら家族連れで退屈している兄妹か何かと勘違いされているのかもしれないが。


「もう16時かー。あと一本は見られるかなー……」

 ルンルン気分でサブスクの中から作品を探していた五十嵐の表情が固まった。

 スマホの充電がなくなった、というわけではなさそうだ。

 と、なると。

「……ごめん。かえらないと」

「……そうか」

 スマホをベンチに裏向きにして置き、ショッピングモールの灰色の天井を見つめる五十嵐。先ほどまでは雑音としてしか処理していなかった家族連れの幸せそうな声が嫌にはっきりと聞こえる。

 五十嵐はこつんと僕の肩に頭を預ける。先ほどまでのようにからかっているものではなく、完全に力が抜けてしまったようだ。

 もしこれがモテる男であれば、頭でも撫でてやったのであろうが、僕にそんなことを期待するのはお門違いのようなものだ。

 慰めて何になる。気休めがどうなる。そんな意地を張ってどうにかなるものでもないが、それでも僕はそのような自己本位の優しさもどきを押し付けるわけにはいかなかった。

「……お姉ちゃんの、婚約者が今日の夜からくるんだって」

「……そうか」

「ごはんは食べてくるみたいだから、家の掃除とか、諸々用意しておけって」

「……そうか」

「今日の夜から五日間、うちに泊まるんだって」

「…………そう、か」

「……うん。だから……家にいろって」

「……お前が! ……五十嵐が、家にいて……どうなる。夜飯も別なくせに」

「……ま、私は家政婦みたいなものだから。仕方ないよ、それだけお姉ちゃんの結婚は、うちにとって大事なものだから。……だから、私もそれを支えないと」

「……『うち』に、お前は入ってるのかよ……」

「入ってるんじゃない? だから最大限協力しろってことでしょ?」

 あははーと力なく笑う五十嵐に、僕は――偽善をした。

「うふふ」

 僕の偽善――頭を撫でるという行為に、五十嵐は嫌そうな顔を見せず笑顔を見せてくれる。しかし、永遠とも一瞬ともとれるような時間が過ぎると、五十嵐は名残惜しそうな表情を見せながらもベンチから立ち上がる。

「ありがと! でも、この三日間本当に楽しかった! というかー、別にたった数日会わないだけだし! 永遠の別れみたいで何を大袈裟なって話だよね」

「……ああ、そうだな。僕も楽しかった。週明け、また会おう」

 僕のその言葉に対し、五十嵐は大きくピースサインをすると、

「しょーち!」


***

『おきてる?』

『起きてる』

『もう二時回ってますけど? 不良少年だね』

『ならそっちは不良少女か』

『不幸少女かな笑』

『まあ違いない』

『起きててくれたの?』

『たまたまな』

『うそ。今日で三日連続じゃん』

『夏休みくらい好きな時間に寝させてくれ』

『また、まっててくれたの?』

『たまたまだ』

『そう』

『そうだ』

『今日はどこいったの?』

『河川敷の橋の下。日陰で意外と悪くなかった』

『ちょっと私には怖いよー』

『何がとは言わないが、女子供はやめたほうがいいかもね』

『ちみも16歳のこどもじゃろ』

『そうだな。早く大人になりたいな』

『そしたら一緒に抜け出せるのにね』

『良い暮らしはできないぞ』

『いい。六畳一部屋でもいい。ユニットバスでもいい。毎日もやしでもいい』

『そうか』

『そうだ。ドキドキした?笑』

『ああ』

『おっと意外と素直ではるなちゃんびっくら』

『想像している意味ではない』

『だとしたらよくわからへん』

『明日も朝早いんだろ?』

『まあねえ』

『もう寝るか?』

『もうちょっと、つきあってほしい』

『わかった。ならクラスの嫌いな女子の話でもしようか』

『イニシャルがIとかいったら泣くからな?』


***

 夏休みも後半戦にさしかかった。

 五十嵐と会わなくなって今日で四日目だ。

 ラインだけは毎日しているし、昨日も結局日が昇るまで会話していた。

 基本金さえ入れておけば親から放任の僕と違い、五十嵐にはやることがある。

 とても高校生の、家族で最年少の娘がやるようなことを彼女はやらされている。

 家から出ることも禁止され、贅沢をすることも、友達と羽目を外すことも、何かに注力することも許されない彼女は、まるで鳥かごに囚われているかのようだ。

 優しさとは何なのだろうか。思いやりとは避けられない暴力ではないのか、愛情とは牢獄ではないのか。

 考えれば考えるほど、自分がこれからしようとしていることが実に滑稽で不快で不条理で浅慮な行為ではないのかと思い知らされる。

 しかし。理屈も理由も根拠も全て飛び越えて、僕は彼女をその鳥かごから解き放ってやりたかったのだ。


 僕はいつものバイト通りにウーバーイーツの格好になると、ヘルメットを目深にかぶり、高級そうな高層マンションへ入る。

 よかった。事前に管理人からの許可がいるタイプのマンションではないらしい。

 安堵した僕は、彼女を家に送った時に、一度だけ見た記憶を頼りに三桁の番号を押す。

『はい、五十嵐です』

 聞きなれた声。こいつ、僕以外が相手だと、こんなに平坦な声を出すんだな。

 しかし、五十嵐 春奈が出てくれたのであればよかった。

 僕はふうと息を吐き出すと。

「ウーバーイーツです。ご注文の品をお届けに参りました」

 僕のその声を聴いて、返ってきたのは聞きなれた彼女の声ではなく、より大人びた、底冷えする声であった。

『そんなもの頼んでいません。春奈、あなたまた勝手なことをしたの?』

 その声に僕は強く反対したかった。けれど、ここで余計なことをするわけにはいかなかった。

 代わりに僕は、インターフォンの向こうで縮こまっている彼女に聞こえるように言った。

「確かにご注文の住所はこちらになっております。ですが、悪戯が多いのも事実です。お手数ですが一度目視にてご確認いただきたく」

 その後、少し焦れるような時間が経ち、ほどなく返事がある。

『申し訳ありませんが、うちの注文したものではないのでお引き取りを』

 こいつめ。声で僕だとわからないのか?

 僕は第一声でわかったというのに。薄情な女だ。仕方ない。

「ですが、こちらも規則として一度確認していただけないわけには」

『……申し訳ございません』

「そうですか。折角ご希望のもやしを配達したんですがね」

『え! ……あ、まって! 今行きます!』

 ようやく気が付いたような様子を見せた五十嵐の言葉が聞こえると、そのまま通信が切れる。

 そして、待つこと二分、エレベーターが止まる音が聞こえ、そのままエントランスの扉が開かれる。

「桜井!」

 扉が開かれると、そこには普段僕と会っている時とは想像もつかないほどの余所行きの格好をした五十嵐が現れる。

 五十嵐は感極まったとばかりに僕に抱き着く。

「おい! エントランスだぞ!」

「大丈夫……。どうせ誰も見てないよ?」

「いいから、一瞬外いくぞ」

「はいはい」

 ご機嫌な五十嵐の手を取って、マンションの外に出る。

 というか、こいつは何て言って出てきたんだ?


 この時期だとまだ外でも汗ばむ陽気だ。加えて先の会話で体温を急上昇させたこともあって、早くクーラーの利いた部屋に行きたいものだ。

 人目の付きにくい物陰にまで行くと、手を離す。すると、五十嵐はもじもじとしながら聞く。

「えへへ……。なんかうれしくってつい抱き着いちゃった。ごめんごめん」

 やれやれ。こいつの距離感は必ず夏休み後には直してもらう必要があるな。

「それで! それで! 今日はどうしたの? その格好は?」

「この格好は僕のバイト着だ。時間の融通も利いて一人作業。嫌いじゃないバイトだな。」

「……ああ、前言ってた、毎月入れなきゃいけない分のお金、だっけ?」

「そうだ。まあ、その話は別にいい」

「……うん。でもでも! なんでその格好してまで来てくれたの?」

 僕は照れくささを隠すように頬を描き、そっぽを向いて言う。

「……それは、だな」

「……それは?」

 ワクワクしたような、ドキドキしたような純粋な瞳でこちらを見る五十嵐に、僕は情けないことに話題を変えることでごまかしたのだった。

「そ、それにしても、大丈夫なのか? 今のこの時間は?」

 だが、苦し紛れに言ったこの話題も余計なことであった。

「……うん、そうだね。あんま大丈夫くないかも。来てくれたのが桜井だってわかって、思わずでてきちゃったから」

 五十嵐はそういうと、無理矢理笑顔を作って言う。


「だから、もう戻らないと、ね」


 僕はそれでもまだ何も言えない。こんな状況なのに、これだけお膳立てされたシナリオなのに、どうして僕というモノガタリはこんなにも情けないのだろうか。こんなにも詰まらないのだろうか。

 五十嵐が何かを期待しているような、それでいて不安そうな瞳でこちらを見る。

 僕は何のためにここに来たんだ。

 五十嵐を悪戯に傷つけることか。自分にさらに絶望するためか。

 違うだろう。僕は、僕は――。

 待ちきれないと思ったのか、それとも優しさからか、五十嵐は力無く笑うと、またね、とだけ短く伝えて僕に背を向ける。

 女は嫌いだ。母親は他所に男を作って離婚した。父親は僕を捨てた。母親は僕に関心をなくした。他所の男は僕を邪魔物にしか思わない。僕は道具だ。僕は置物だ。僕は不要な存在だ。僕は――誰からも必要とされていない人間だ。


 そんなこの世に不要な僕が最低限の衣食住を担保されるのは、親子の情なんかではなく、ただの金だ。

 女は嫌いだ。平気で男を裏切る。不倫をしたのは母親なのに、一度も謝らなかった。非を父親の、そして僕のせいにしてきた。

 僕のせいなのか。僕が悪いのか。

 女は嫌いだ。人間は嫌いだ。全員嫌いだ。どいつもこいつも大嫌いだ。

 僕は一人だ。僕は一人だ。僕は――。僕は――。


 僕は――




「五十嵐!」

「えっ⁉」

 僕は五十嵐の腕をとると、そのまま抱き寄せる。

「えっ⁉ えっ⁉ えっ⁉ さ、桜井⁉」

「五十嵐……、お前は――独りじゃない」

 混乱した様子の五十嵐をさらに力強く抱きしめる。

「そして、僕も……。そうだ、僕らはもう一人じゃない。だから――」

「だ、だから……?」

「だから――ここから、一緒に逃げ出さないか?」

 言えた。僕の言いたいことを。言わなくてはいけないことを。


 思わず口走った言葉は決壊したダムのようにとめどなく溢れてくる。

「きっと最初は苦労させるだろう。高校を中退した二人なんだから。だけど! 場所さえ選ばなければきっと二人で生きていく道はあるはずだ! 贅沢はさせてあげられないし、今の家と比べたらずっとひもじいかもしれない。だけど、数年。数年だけ時間をくれ。僕は今まで自分のために生きてきたことなんてなかった! 今初めて、五十嵐を逃がしたいと! 自由にしてやりたいと心から思っている! 幸せにしてやりたいと! だから!」


 無茶なのはわかっている。それでも、僕は彼女の願いを叶えてやりたい。

 たとえすべてを投げ出しても彼女を救い出してやりたい。

 自分を――嫌いになりたく、ない。

 こんな自分もいたんだ、と初めて僕は、僕を少し見直した。


 唾を飲み込む。夏のせいか緊張のせいか、全身が熱を帯びたように暑い、熱い。

 永遠とも思えるような焦れる時間の後、五十嵐がふうと短く息を吐いて、そしてゆっくりと口を開く。


「……あ、やばい。……発情したかも」


 ……は?

「……は?」


 な、なにを言っているんだこのバカ女は?

 言った張本人は両頬を手で隠してクネクネと恥ずかしそうにしている。

 そして瞳をウルウルとさせて、熱っぽい視線をこちらに向けてくる。


「あ、あのね……。今まで男の人に思いを伝えられたことは何度かあるんだけど、だけど! 今回のはなんか、すごいドキドキして、なんかすごいハアハアするし、その下着が……ねえ? なんかこう、なんだろう……えへへ。これが性欲、なのかなあ、なんて! なんて!」

「何を言ってるんだお前は?」


 心からの僕の言葉に対し、五十嵐は頬を軽く膨らませて言う。

「だってさ! だってさ! うれしかったんだもん……。本当に」

 五十嵐はススと僕の方へ近寄ってくる、少し勇気を出せばすぐにでも抱きしめられるだろう。

「このまま何もかも投げ出して、二人でどこかへ逃げてしまおうって、一瞬本当にそんな妄想をした」

「……そうか」

「……うん、一瞬、ね。だから、ごめんなさい。一緒に行くことはできないです……」

 一瞬だけ、目の前が真っ白になった。しかし、そんな風に混乱できたのも一瞬で、すぐに僕の頭は冷静になり、今の状況を俯瞰して分析する。

 そうだ。僕は振られたのだ。勇気を出して差し出した救いの手、否、自己満足の王子様ごっこは呆気なく振り払われ、僕という存在の滑稽さ、矮小さを改めて実感させられた。

 しかし、それでも五十嵐に逆恨みすることなく、自分自身への気持ち悪さを認識できているのは、僕が大人だからかそれとも五十嵐に対して僕が尊敬に近いものを感じているからだ。

 僕の心の弱さが彼女の持つ強さと親しみやすさに甘え、勘違いしてしまったのであろう。同じ境遇? 違うね、僕と彼女は似た境遇であっても同じ境遇ではない。

 そこを勘違いし、一人で舞い上がった愚かな羽虫だ。

 僕は最後の抵抗に表情を変えることなく、こっそりと拳を力強く握りしめることで、この感情をごまかそうとする。


 けれども、僕の愚かな唯一の強がりも五十嵐にはとっくに見抜かれており、彼女は僕の力強く握りしめられた手をそっと包み込み、そっと僕の手から力を抜かせる。

 そして脱力した僕の右手を自らの左頬に持ってくると、そっと瞳を閉じて左頬に僕の手を添える。

「……今、私があなたに甘えてあなたの手を取ってしまったら、私はそれこそ一生自分一人で生きられないお人形のままだと思う。本当はあなたに全てをゆだねたい。この牢獄から解き放ってほしい」

 それでもねと五十嵐はもう片方の手を僕の手に添える。

「私はあなたも救いたい。私を救うことで、桜井も救われる、そんな理想は望ましいけれど、現実ではうまくいかない。結局、私は怖いの。あなたに連れてってもらって、その後見放されるのが」


 私は私が、一番信用できないから、と五十嵐は寂しそうな表情で言う。

 ――そんなのは、僕のセリフなのに。


「だから、私はもう少し戦う。もう少し頑張る。そして――」

 五十嵐は僕の手を頬から話すと、僕の手の甲に軽くキスをする。

「いつか、一緒に行くときは――あなたの横で手をつないで、ね?」

 ああ、そうか僕は、彼女のこんな強さに光を感じたんだ――


***

 後日談になるが、あの日僕らはそのまま別れた。

 きっと僕のあの偽善によって彼女はいらぬストレスを受けてしまったことであろう。

 それにしても、僕はどうしてあんな短絡的な行動をしてしまったのであろう。

 高校一年生の男女二人が逃げ出したところで、どうせ連れ戻されるか生活できなくなっておしまいなのに。

 暑さで頭がわいたのか。それとも、僕の中にもまだ熱い何かが存在していたのか。


 とはいえ僕らは、あんな思い返すと恥ずかしい言葉を伝えあったのに、その後も何食わぬ顔でラインを続けていた。それも、ただの雑談を。

 彼女はあの日のことを恥ずかしいものとして忘れたがっているのか。僕に勘違いされたくないと思っているのか。はたまた。

 しかし、そんなことは考えていても仕方がない。僕にとって彼女と一緒にいることが救いになるならば、その逆も同じようになるよう努力するしかあるまい。

 それにしても、今日から学校開放日で部活も始まるというのに、五十嵐は遅いな。

 事前にラインで遅くなるとは言っていたが。

 そう思っていると、ガラガラと部室の扉が開く。

 僕が頬杖をつきながら流し目でそちらを見ると――そこには、綺麗なロングの黒髪を肩程度まで大きくカットした五十嵐がいた。

 驚きのあまり口をあんぐりとしていると、五十嵐が言う。

「失恋じゃないからね。一応言っておくけど」

「……お、おう。いやまあそうだろうが……」

「これは、私の、私なりのけじめであり誓い」

「何そのカッコいいフレーズ。少年漫画にありそうな」

「うん、ちょっと意識したけど恥ずかしいからこれ以上突っ込まないでね」

「おう。でも似合ってるぞ」

「ありがとう。なんてった顔がいいからね」

「……」

「こほん。で、けじめっていうのは、なんというか、その……」

「? なんじゃい」

「さ、桜井が……」

「僕?」

「うん……。桜井が、差し伸ばしてくれた手を振り払った以上、私はきちんと前に進もうと思って、ね?」

「……僕のせいというわけか」

「まあそうなるね、謝れよ」

「え」

「否定されると思ったろ? 甘いんだよ」

「す、すまん……」

「いえいえ。だからきちんと」

 五十嵐は人差し指を唇にあて、ウインクをしながら首をひねるというカワイイポーズをすると、そのまま甘えるような声で言う。



「――責任、とってよね?」


五十嵐家:元々上流家庭だったが、お互いがお見合い婚であり愛情は希薄。上級家庭の中では下流におり、プライドが高い両親はそれがコンプレックスだった。

娘をお見合い婚で位の高い男と結婚させるためだけに教育を施していたが、優秀な姉が一早く超上流家庭の男をひっかけた。

両親は妹である春奈に関心を無くしたことに加え、過去のある事件のせいでより軽蔑されることになるのだが、それはまた別の機会に。

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