第5章:遅延期間
俺たちはヒープ領域――『ゴミ捨て場』と呼ばれていた。
上の世界から追放された落ちこぼれどもの集まりだ。追放される前に得たわずかな知識や技術だけを頼りに、この街の底辺に残された雑用をこなして何とか息を繋いでいた。
「倉庫」だとか「ボロ小屋」だとかいう呼び名は、俺たちの拠点には立派すぎる。実態は単なる『物流の掃き溜め』だ。
主な仕事は、未来のない代物を引き取ること。欠陥のある返品物、賞味期限切れの製品、本来なら焼却処分されるべき機密書類。人間も、仕事も、場所すらも、すべてが『中古品』。誰も望まない廃棄物の集まりだった。
それでも、ガラクタの山に囲まれながら、俺たちは日銭を稼いで命を繋いでいた。
◇
最近になって、俺たちの仕事の回転率が劇的に上がっていた。
すべては、新しく入ってきた『あの男』のおかげだった。
俺たちはアイツを『行列の王』と呼んでいた。
どんなことでも『待つ』ことができるという、狂気じみた忍耐力を持っていたからだ。配達トラックが10時間遅れようが、誤字だらけの伝票を待つために錆びついた門の前でじっと立ち尽くしていようが、アイツは一度たりとも不平不満を漏らさなかった。
強い風が吹けば折れてしまいそうな痩せこけた体つきだったが、手際だけは異常に良かった。だが一番恐ろしかったのは、その『目』だ。あれは異常なまでの忍耐だった。まるで世界の終わり(終末)が来るのを、最前列の特等席を確保して待っているかのように。
最初にここへやってきた時、怪我の痕が残る顔と雑巾のような服を纏ったアイツは、ただ一言だけそう言った。
「ノセス、と申します」
◇
俺たちの作業は通常、午前3時に始まり、夜の11時にようやく終わる。
非人間的だって? そうさ。だが、俺たちみたいな廃棄物に、世界へ文句を言う贅沢なんて許されちゃいない。ただのゴミに見えないよう、必死にしがみつくだけだ。
だが『行列の王』が加わってから、朝の作業に少しだけ余裕が生まれた。始業を1時間遅らせることができるようになったのだ。
アイツが自ら進んで、早朝の事前準備を引き受けてくれたからだ。長く真面目に働いて信頼も十分だったから、俺たちはアイツに倉庫の鍵を預けることにした。門の解錠と施錠という仕事が増えたって、あの『行列の王』なら気にも留めないだろう。アイツには、世界中のあらゆるものを待ち続けられるだけの時間と忍耐があったのだから。
◇
その夜、作業が終わり解散したばかりのことだった。
身体の節々が痛む中、俺の携帯に一通のメッセージが届いた。差出人は匿名。短く、けれど不気味な内容だった。
『一個の腐ったミカンは、すぐに捨てなければ他の果実にも菌を広げる。手遅れになる前に掃除せよ』
その時は大して気に留めなかった。迷惑メールかタチの悪い悪戯だろうと思ったのだ。哲学的思考に耽るには、俺は疲れすぎていた。
だが数日後、俺たちの目の前で正気とは思えない事態が起きた。
◇
静かであるはずの夜が、サイレンの音と皮膚を焼く熱気によって引き裂かれた。
『ヒープ』の建物は、灼熱の炎に包まれ、すべてを呑み込みながら『崩落』しようとしていた。
黒煙が立ち上り、返品された欠陥品も、機密書類も、俺たちの唯一の身寄りだった場所も焼き尽くしていく。
そして、大きく開かれた門の前には――俺たちが預けた鍵を握りしめたまま、瞳に炎を揺らして立ち尽くす『行列の王』の姿があった。
◇
夜明けてまもなく、俺たちは倉庫があったはずの更地に集まっていた。
鎮火した後には、何も残っていなかった。崩れ落ちた建物の残骸と、灰となって砕け散った俺たちの生気が散乱しているだけだった。
痛々しい沈黙の中、コミュニティの一人が感情を抑えきれずに震える声で吐き捨てた。
「……数日前、ショートメッセージが届いたんだ。『腐ったリンゴ』がどうとかいう……。今になって、ようやく意味が分かったよ」
男は震える人差し指で、一点を指さした。
「ノセス! お前がすべての元凶だ!!」
沈黙していた空気が一気に沸騰した。
一人、また一人と、同じ言葉を叫び始める。ノセスは呪いだ、裏切り者だと。俺の心も揺らぎ始めた。携帯に残されたあの匿名メッセージが、すべての証拠であるかのように思えてしまったのだ。
「この疫病神が!!」
誰かが制止する間もなく、一人の男が踏み出し、ノセスの顔面に強烈な拳を叩き込んだ。
血が吹き飛ぶのを見た瞬間、行く場を失っていた群衆が一気に爆発した。貧困と、失ったばかりの居場所への怒りをぶつけるように、ノセスへ襲いかかった。
拳が、蹴りが、唾が飛ぶ。まるでノセスが、殴られるために運命が用意したサンドバッグであるかのように。
だが――。
ノセスは、ただ黙っていた。
防ごうともしない。逃げようともしない。
『行列の王』は恐ろしいまでの忍耐で佇み、群衆によって自分の身体が破壊されていくのをただ受け入れていた。自分がやっていない罪の対価を払うかのように、ただの木偶となって衝撃に耐えていた。
だが……群衆の隙間からアイツの顔を間近で見た瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
顔はボロボロに腫れ上がっていた。だが、その目は――。
痛みに怯えてなどいなかった。命乞いなどしていなかった。
腫れあがったまぶたの奥で、昨夜俺たちの倉庫を焼き尽くした炎よりも、遥かに熾烈で純粋なものが揺らめいていた。
アイツの目は――今までに見たこともないほどの、純粋な怒りで燃え盛っていたのだ。
「全員やめろ!!!」
コミュニティのリーダーとして、この狂気を止めるのが俺の役目だった。
だが今回は、アイツを護るために叫んだわけじゃない。どのみち『ヒープ』はもう存在しないのだ。俺たちはコミュニティなどではなく、灰の上で噛み合い足掻く敗北者の群れに過ぎなかった。
みんなと同じように怒りを爆発させ、俺はノセスを睨みつけて怒鳴り散らした。
「ノセス……お前はここから出て行け! 今すぐだ!!」
ノセスはまだ黙っていた。
顔は潰れ、殴打の跡と固まりかけた血が炎の灰と混ざり合っていた。アイツはゆっくりと立ち上がり、残された体力を振り絞って、今はただの黒い空が見えるだけの建物から一歩を踏み出した。
足取りは重く、静かだった。
だが、その鋭い目つきは、どんな罵詈雑言よりも雄弁に何かを物語っていた。
俺の脇を通り抜ける時、アイツはうつむいていた。
命乞いでもするのか、言い訳でもするのかと思った。だが、わずか数センチまで近づいた時、アイツの呟きが耳に届いた。
荒い息遣いと血の匂いの中で、掠れた小さな声が聞こえたのだ。
「……馬鹿なノセスめ」
自らに言い聞かせるような囁きだった。
「いつも……いつも信頼されては、迷惑ばかりかける。犯人が誰であろうと……悪いのは全部、お前なんだよ、セス。お前が悪いんだ……」
俺は金縛りにあったように動けなくなった。
アイツは俺に話しかけていたんじゃない。自分自身に向けて、この世で最も残酷な判決を下していたのだ。
ノセスは一度も振り返ることなく歩き続けた。
その痩せた背中は、暗い路地の闇へと静かに呑み込まれていった。
その時になって初めて、俺はあの目の意味を理解した。
あの怒りは、アイツを殴りつけた俺たちに向けられたものじゃない。これまで育んできた己の忍耐が、裏切りという結果しか生み出さなかったことに対する――自分自身への憎悪だったのだ。
俺たちが追い出したのは、ただの男じゃない。
内側から完全に粉砕された『壊れもの』を、ただ路上に投げ捨てただけだったのだ。
◇
――その頃、煙を上げる『ヒープ』の残骸から遠く離れた場所では、穏やかな時間が流れていた。
高級なコンピュータの画面の前で、ある人物が満足そうに微笑んでいた。
モニターから放たれる青い光が、綺麗に整えられた顔立ちを照らし出す。男は手を持ち上げ、己の指先を眺めた。かつてボロボロに噛み千切られていた爪は、今や綺麗に治りかけ、整えられていた。
デスクの上には、画面を点灯させたままのスマートフォンが転がっている。
そこには、直近のアクティビティを示すログ画面が表示されていた。
『38件の匿名メッセージ送信完了』
男はクスクスと笑った。夜の冷気とは対照的な、軽やかな笑い声。
腐ったミカンは一つ、取り除かれた。
そして今、この世界すべてを自分の手で支配するための舞台が整ったのだ。




