第4章:リソース制限
研究の世界において、私たちは常に効率的な演算処理ユニットを追い求めている。そしてノセス君は、私にとってこの研究室にやってきた中で間違いなく最高の『ユニット』だった。
彼は、どれほど複雑な研究テーマであっても、あたかも単純な幾何学コードを解読するかのように鮮やかに分解してみせる異才を持っていた。機敏で、緻密。博士課程の学生すら見落とすような精密測定機器のミクロな誤差に、彼だけは即座に気づくことができた。
私は彼を、我が研究室で最も高い規律と労働倫理を備えた学生として、周囲に自慢していたものだ。まさに完璧なシステム。――少なくとも、ほんの数分前まではそう信じて疑わなかった。
◇
その日の夕方、学部棟の廊下を歩く私の足取りは重かった。両手には、前方の視界を遮るほど高く積み上げられたカリキュラムの承認書類。長年の勘だけを頼りに廊下を進んでいたのだが――ドシン、と大きな衝撃が走った。
誰かと衝突してしまったのだ。
コンクリートの床に散らばる書類と、それを一枚ずつ拾い集める面倒な作業を想像し、私は苦笑いしながら謝罪の言葉を口にしようとした。だが、その言葉は喉の奥で氷ついた。
書類の山は、床に落ちてなどいなかったのだ。
瞬きするほどの短い間に、書類は恐ろしいほどの精度で角と角が寸分狂わず重ね合わされ、再び私の胸元へと差し出されていた。その束の向こうから現れたのは、ノセス君の顔だった。
驚く素振りも、ぶつかられた不快感すら見せない。彼はただ一定の呼吸を保ちながらそこに立っていた。まるで今の衝突すらも、彼のアルゴリズムが事前に織り込み済みだった割り込み処理に過ぎないと言わんばかりに。
この何度目かの遭遇こそが、私が彼に対して抱いていた印象を根底から覆すきっかけとなった。
「ああ、ノセス君……すまない、少しぼんやりしていたよ」
私は胸元の書類のバランスを取り直しながら声をかけた。
ノセス君は静かに頷いただけだった。世間話も、不平不満もない。書類が私の腕の中にしっかり収まったのを確認すると、彼はごく最小限の会釈を残し、立ち去っていった。
私はその背中をしばらく見つめていた。頭の中では、彼という存在を「我がアルマ・マータ(母校)の屋台骨」「決して焼き付くことのない研究室の駆動エンジン」として誇らしく思っていた。
◇
情報理工棟の渡り廊下を進む。夕暮れのキャンパスは相変わらずの喧騒に包まれていた。グラウンドでボールを追う者たち、ベンチで輪になって課題を議論する者たち。その傍ら、長椅子にポツンと一人で座っている学生の姿が目に入った。
彼はじっと動かず、強い視線を一点に向けながら親指の爪を噛んでいた。頭の中で何が渦巻いているのかは分からないが、その仕草にはどこか異様な執着と焦燥が滲み出ていた。
歩を進めながら、私の思考は再びノセス君へと戻っていった。
彼が私の研究室にもたらしてくれた功績を数え上げる。彼は一度も遅刻をしたことがなく、家庭の事情で休んだこともなく、研究室のデスクから姿を消したことすらない。
……待てよ。
『一度も部屋を離れたことがない』?
私の足がふっと緩んだ。巨大な違和感に、今さらながら気づいたのだ。
思い出してみれば、私は彼が昼食のために外へ出る姿すら見たことがなかった。彼の服装も……いつ見ても同じような服のローテーションで、あたかも『機能性』以外の物事に気を配るリソースが残されていないようだった。
そして何より、これまで私が称賛の陰で見落としていた事実――ノセス君は、日を追うごとに言葉数が減っていた。まるで不要な出力を削ぎ落としているかのように。残されたのは、日に日に痩せ細っていく彼の身体だけだった。内部バッテリーが一切充電されることなく、限界まで絞り出されているかのように。
◇
夕闇が深まり、私の教授室は卓上ライトの明かりだけが認印を待つ書類を照らしていた。
ドアを叩く音が聞こえる。控えめで、規則正しい、完璧なリズムのノック。
「入りなさい、ノセス君」
私は顔も上げずに答えた。この時間に来るのは彼しかいない。いつもの定期報告――いつも私の期待を超える進捗を持ってくるはずだった。
しかし、開いたドアのギィという音に続いて聞こえてきた足音は、どこか躊躇いがちだった。ノセス君の、軽やかでありながら芯のある足音とは違う。
「……失礼します、教授」
顔を上げると、ドアの隙間に一人の学生が立っていた。見覚えのある顔だったが、名前を思い出すのに数秒かかった。大教室での私の講義を受けている学生の一人だ。
視線を落とすと、彼はリュックのストラップを異常な力で握りしめていた。関節が白くなるほど強く。そしてその親指の爪は、噛み千切られて痛々しく血が滲んでいた。
(……あの廊下に座っていた学生か)
「ああ……何か用かね?」
書類から意識を引き剥がし、なるべく穏やかな声で尋ねた。
「お忙しいところ申し訳ありません、教授。……ノセスについて、ご相談したいことがありまして」
彼の声は、躊躇いと無理やり絞り出した勇気の間で押し潰されそうになっていた。
私は眉をひそめた。「ノセス君が? 彼がどうかしたのかね?」
彼は深く息を吸い込み、私の目をまっすぐに見つめた。
「……ノセスを、卒業させてあげるべきだと思います。今すぐにです」
その言葉は、部屋の空気に冷や水を浴びせかけた。私は絶句した。一見すると友人としての気遣いのようにも聞こえる。だが私の耳には、研究プロジェクトの存続を脅かす不吉なノイズとして響いた。
「彼を卒業させる、だと?」私は場の緊張をほぐそうと短く鼻で笑った。「彼の研究は今が最も重要な局面だよ、君。彼は我がラボのメインモーターだ。今卒業させるなど早すぎる」
爪を噛んでいたその学生は、笑い返しもしなかった。それどころか、私のデスクに向かって一歩踏み出して来たのだ。
「メインモーターだからこそです、教授」彼の声が低くなり、切迫感を帯びていく。「見えませんか? あのモーターからは、もう煙が吹いているんです。今すぐ彼を解放して重荷を下ろしてあげなければ……彼のシステムは、教授の目の前で完全にクラッシュしますよ」
私は二の句が継げなくなった。
彼の言葉は、私がずっと見ない振りを決め込んでいた神経の核心を突いていた。ノセス君が限界を超えて稼働していることなど、私の中の『知性』はとっくに理解していたのだ。だが、研究者としてのエゴがそれを拒絶する。今ノセス君に抜けられたら、あのシミュレーション・アルゴリズムは誰が完成させるというのだ? 誰が彼のように文句も言わず、精密な作業をこなせるというのだ?
「教授には……バトンを受け取れる人間が必要ですよね?」
学生の言葉が、私の思考を遮った。彼は私のデスクに積まれた論文の山を、飢えたような目で見つめていた。そこには同情など欠片もない、露骨な欲望があった。
「僕は教授の論文をすべて読み込んでいます。実習クラスのTAも務めています。僕なら……ノセスの穴を埋められます。彼を卒業させて、休ませてあげてください。残りのタスク(ワークロード)は、僕がすべて引き受けますから」
その瞬間、私は悟った。
この学生は、人道的な解決策を提案しに来たのではない。彼がやろうとしているのは権限昇格だ。ノセス君を救いたいのではない。ノセス君のポジションを奪いたいのだ。倒れかけたノセス君の乗っ取りに乗じて、このラボの核心へアクセスする鍵を私から引き出そうとしている。
そして何より恐ろしいのは――私自身が、その提案に揺らぎ始めていたことだった。
彼の血の滲んだ爪を見る。それは恐怖による怯えではなく、抑えきれない野心の徴――獲物が倒れるのをじっと待ち続けてきた捕食者の顔だった。
「……コホン!」
私は彼との間に距離を作るため、わざと大きく咳払いをした。彼の野気が放つ圧迫感に、息苦しさを覚えたからだ。
「……そこまで自分に自信があるのなら」私は彼の目を鋭く見つめ返した。「明日もう一度来なさい。君自身のプロジェクト案を持ってね。深い分析、強み、弱み、そして既存の論文の焼き直しでないことを証明してみせろ。私の時間を無駄にさせないでくれよ」
学生は口元に薄い笑みを浮かべ、小さく頷いた。恭しくお辞儀をすると、彼は血の滲む親指を撫でながら部屋を出て行った。まるで、暗闇の交渉で第一ラウンドを制したかのように。
◇
それから間もなくして、ノセス君がやってきた。
いつものように入室し、会計士のような正確さで進捗報告を済ませると、彼は退出の挨拶をしようとした。ドアへと背を向けたその瞬間、私は思わず声をかけていた。
「……ノセス君」
彼が振り向く。その表情は相変わらず平坦だった。「なんでしょうか、教授」
私は言葉を詰まらせた。目の前に立つ青年は、今や人間というよりは薄い『影』のように見えた。
「君は……ちゃんと飯を食べているのかね?」
そのあまりにも不調和な質問に、ノセス君の目が大きく見開かれた。まるでデータベースに存在しない未知のコマンドを入力されたかのように。
「……まだ必要ありません、教授」彼は淡々と答えた。「階下のラボで、まだ同期していないタスクが残っていますので」
「衣服も……毎日洗濯しているのは分かっているが、いつも同じものを着ているようじゃないか」私の声は次第に小さくなり、己の無頓着さへの恥じらいが含まれ始めていた。
ノセス君の唇がかすかに震えた。何かを言いかけ、喉の奥で詰まった入力エラーのような言葉が口から出ずにいた。
「……これでも、まだ正常に稼働しています、教授。業務に支障をきたすエラーは発生していません」
「君のプロジェクトだが……実はもう、十分に結論が出ているんだ。私はね、君はもう卒業するべきだと思う。一度立ち止まるんだ、ノセス君」
「ま、待ってください教授!――」
彼の声が悲痛に裏返った。
彼が私の助手になって以来、一度も聞いたことのない、生々しく人間的なパニックの悲鳴だった。声を上げた直後、ノセス君は自らの口を両手で覆った。自分の発した声に自分自身で恐怖したかのように。
彼はしばらく肩を揺らして息を荒げていたが、やがていつもの『状態』へと戻っていった。深くうつむき、ぎこちなくお辞儀をすると、逃げるような足取りで部屋を去っていった。
◇
私は冷え切ったオフィスチェアにただ深く沈み込んでいた。
恐ろしい事実に思い至っていた。私が「完璧なシステム」と誇っていた学生は、熱暴走抑制を起こして死に絶えようとしているシステムそのものだったのだ。
彼は命令の処理能力(CPUコア)を維持するためだけに、食事、社交、自己のケアといった二次的な機能をすべてシャットダウンしていた。そして私が『卒業』を提案したとき、彼は救われるどころか恐怖したのだ。
私からの命令(指示)がなければ、彼の中のシステムは、生き続ける理由そのものを失ってしまうかのように。
◇
期末、彼は何千人もの学生とともに大学を卒業していった。盛大な、けれどあまりにも空虚な式典だった。
今でも時折、あの日の彼の叫びの意味を考えることがある。あれは助けを求める悲鳴だったのか、それとも生きる目的を失うことへの恐怖だったのか。
後に風の噂で、彼がどこかの怪しげなコミュニティに身を寄せたらしいと聞いた。だが、私が知っているのはそこまでだ。
我が母校の誇るべき『屋台骨』は、今やシステムから永久に削除されたデータとなり、私のもとには完成されたプロジェクトと、二度と修復することのできない不良セクタのような良心の呵責だけが残された。




