第3章:不可変《イミュータブル》
彼の友人グループの一人から、聞いたことがあった。
ノセスは普段よく「誰かいい人いないかな」と漏らしているのだと。それは、彼も本当は人並みに恋というものをしてみたいのだという、小さなしるしのようなものだった。
けれど、私自身がこの目で見るノセスは、みんなから聞く話とは百八十度違っていた。
私の前にいる彼は、特別な誰かを探しているようには見えなかった。むしろ、自分の世界に誰一人として踏み込ませないよう、必死に距離を保っているように見えたのだ。
実験室の廊下ですれ違いざまに挨拶をするときも、課題について少し質問をするときも。彼に近づこうとするたび、目には見えないけれど分厚い壁を感じる。
それは拒絶や嫌悪の壁ではない。あまりにも完璧すぎる『礼儀正しさ』という名の壁だった。そして、その完璧な礼儀正しさゆえに、私は彼が『感情』と呼ばれるあらゆるものから自分を遠ざけているように感じてしまうのだった。
◇
一度だけ、ノセスたちと一緒に山登りへ行ったことがある。
初めて本格的な登山を経験した私にとって、それはトラウマになりかけるほど過酷なものだった。標高一千メートルを少し超えたあたりで膝は生まれたての小鹿のように笑い出し、これより高い場所なんて想像するだけで恐ろしかった。
けれど、そんな私のそばには、いつもノセスがいてくれた。
道中で私が足を滑らせ、疲れと恐怖でその場に泣き崩れそうになった時のことだ。彼はすぐに駆け寄り、ひどく落ち着いた声で尋ねてくれた。
「大丈夫ですか?」
正直に言えば、あの瞬間の私は完全に吊り橋効果にかかっていた。滑落の恐怖と、彼がそこにいてくれるという安心感の間で、心臓が痛いくらいに早警を打ち鳴らしていた。
だが不思議なことに、私が自分の足でしっかりと立ち上がったのを確認すると、彼はふっと体を引いた。まるで先ほどの出来事など最初からなかったかのように、すぐ元の位置へと戻ってしまうのだ。
それだけではない。彼は細かな部分でも徹底していた。
ノセスは女性と直接肌が触れ合うことを極端に避けていた。私に対してもそうだ。足場の悪い難所を通るとき、彼は直接手を差し伸べるのではなく、自分の上着の袖口を私に握らせた。またある時は、トレッキングポールの端を私に持たせ、自分はその反対側を強く握って支えてくれた。
彼はいつだって、身体に触れることなく救い出す方法を知っていた。
身体的な接触だけでなく、言葉遣いもそうだ。
男友達に対して吐き捨てるような乱暴な口調とはまるで違い、私に向けられる言葉はいつも整っていて、丁寧で……どこまでも『距離』があった。
だけど、そんな風に気高く扱われて、少しも胸をときめかせない女の子なんて存在するのだろうか?
私には彼が、現代に迷い込んだ古風な騎士のように見えていた。
けれど、最初の疑問に戻ってしまう。――どうして?
ノセスはどんな時も境界線を頑なに守り続けていた。
山頂で冷え込む夜や、朝日を待ちながら二人きりで言葉を交わす時間――本来ならほんの少しだけ距離が縮まってもおかしくない場面でさえ、彼は決してその道を選ばなかった。
まるで、誰の進入も許さない無菌室の中に、自らを閉じ込めているかのように。
彼はどんな『偶然』も許さなかった。その先にあるかもしれない感情の芽生えに、一筋の隙間すら与えなかったのだ。
◇
その夜、私は骨の奥まで染み通るような寒さで目が覚めた。
山頂の夜の冷気は冗談抜きで容赦がない。ほんの少しの温もりを求めてテントの外へ這い出ると、小型ストーブでお湯を沸かしている影が見えた。
近づいてみると、ノセスだった。
軽く会釈を交わし、私は彼の隣に腰を下ろすことにした。男子テントと女子テントの中間に敷かれたシート――二つの領域を分ける中立の境界線の上に、私たちは並んで座った。
凍える私を見かねたのか、彼は着ていたダウンジャケットを差し出してくれた。
申し訳なくて最初は断ったけれど、彼の断固とした強い視線に押し切られ、最後は受け取るしかなかった。羽織ってみると彼のジャケットは私の体には大きすぎて、まるで厚手の毛布に包まれているようだった。
とても温かかった。そして、なぜだか心が落ち着く匂いがした。
「ありがとうございます、ノセスくん……本当に優しいんですね」
深く考えずに、言葉が口をついて出た。
ノセスは薄く微笑んだ。それはどこまでも控えめで、そしてどこまでも……遠い笑顔だった。
「いえ。皆さんをここに誘ったのは僕ですから。最低限の責任です」
静かな声だった。
沸き立つお湯のシリアルな音だけが、私たちの間の沈黙を埋めていく。
「コーヒー、飲みますか?」
ノセスはそう言って、いつの間にか用意していた二つのマグカップにお湯を注いだ。持ち手のあるカップを私の方へ差し出し、火傷をしないよう細やかに配慮してくれる。
けれど、その瞬間に『それ』は起きた。
カップを受け取る際、お互いの指先がほんのわずかに触れ合ったのだ。ほんの一瞬のことだった。
彼の反射神経は異常なまでに早かった。
まるで電流に打たれたかのように素早く手を引き込むと、彼はすぐに小さなポーチを探り、私に一枚のものを差し出した。
――ウェットティッシュだった。
私は手渡されたシートと彼の顔を、困惑しながら見比べた。
「……ノセスくん?」
彼は触れ合った方の手をジャケットのポケットに隠し、表情ひとつ変えずに、ただ一言だけ呟いた。
「……汚いですから」
その後、私たちは無言でコーヒーを飲み干した。
時折吹き抜ける山風の音だけが響き、私が口に出せなかった問いかけは、それぞれのテントへ戻るまで闇の中に残り続けた。
◇
翌日、私たちはほとんど言葉を交わすことなく山を下りた。
険しい下り道は、私たちの間に横たわる沈黙のせいで余計に重く感じられた。ノセスは相変わらずで、私の足元が覚束なくなればポールの端を差し出し、滑りやすい土の上で踏み留まれるよう支えてくれた。
けれど、昨夜の出来事を経た今、それを単なる『規律正しい友人の気遣い』として受け取るのは難しかった。
どうしても、彼の背中に視線が吸い寄せられてしまう。背筋が伸びているのに、どこか酷く寂しげなその背中に。
そして困惑しながらも、指先が触れ合ったあの瞬間の光景が脳裏をよぎるたび、私の胸は小さな疼きを覚えていた。
◇
登山口のベースキャンプに着くと、あたりは一気に賑やかになった。
湿った土の匂いが石鹸の香りに変わり、みんな交代で身支度を整えていく。顔を洗う者、腹ごしらえをする者、体を伸ばす者――思い思いに過ごす中で、偶然にも荷物置き場の近くに私とノセスだけが残された。
このまま何事もなかったかのように今日が終わってしまうのは、あまりにも切なかった。
次にいつこんな機会があるか分からない。彼の心の壁に、いつまた小さな亀裂が入るかも分からないのだから。
私は残されたわずかな勇気を振り絞り、彼に近づいた。
「ノセスくん。このあと……ううん、明日にでも、何か予定ってある?」
少し照れくささを隠しながら、静かに尋ねた。もう一度だけ、彼の世界に入る隙間を探したかった。
彼の目を見つめ、そこに小さな光や興味の破片を探そうとした。
けれど、彼がこちらを振り返った瞬間――私の心臓は跳ね上がるのをやめた。ときめきからではない。冷たく静かな『理解』が、私を支配したからだ。
その瞬間、私はようやく悟った。
彼は信心深いわけでも、聖者になろうとしているわけでもない。
彼はただ、自分の存在によって『他人が汚染されること』を、死に物狂いで防いでいただけなのだと。
私を見つめる彼の瞳は、まっすぐに私の目をとらえていた。けれど、その奥はがらんどうだった。私の背後に広がる、どこまでも深く暗い虚無を見つめているかのように。
そこには望みも、情熱も、拒絶の嫌悪すら存在しなかった。ただ、凍りついた空虚だけがあった。
彼は不可変な存在だった。
誰の手によっても、私が差し出そうとした温もりによってさえも、その状態を書き換えることのできない、固くロックされた存在。
「ないです」
短い返答だった。遠い場所から響いてくるような、平板な声。
「休むだけです。一人で」
私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
彼が大きなリュックを担ぎ直し、一度も振り返ることなく去っていくのを、見送るしか we なかった。
無事に山頂を極めたことを喜び合う登山客たちの喧騒の中で、私は気づいてしまった。
ノセスは、あの山から一度も下りてきてなんかいないのだ。
彼は今もずっと、あの冷たく誰の手も届かない場所で、たった一人で立ち続けている。




