第2章:非推奨関数
正直に言えば、俺はノセスやアイツのグループの連中とそこまで距離が近かったわけじゃない。登山に行くときに時々声をかけられる、ただのサークルや大学の先輩という立ち位置だった。
だが、その『距離感』があったからこそ、普段一緒にいすぎる親友たちが気づかないような違和感に、俺だけは気づくことができた。
俺の目から見て、ノセスという男はまさに『善人』の体現者だった。
あの夜、限界を迎えてつぶれたアイツが俺の部屋に担ぎ込まれてきたとき、俺はアイツを「敗北した奴」ではなく、「擦り切れ果てた奴」として見ていた。
驚きはしなかった。山登りでのアイツの立ち振る舞いを前から見ていたからだ。アイツはいつも、他人が胸を張れるように自分が腰をかがめ、仲間がより高く登れるように自ら『踏み台』になろうとする男だった。
最初は心底感心していた。だがやがて、アイツの自己評価のあり方には決定的な『バグ』があるのだと気づかされた。
◇
何度か一緒に山へ登ったとき、ノセスは誰よりも頼りになる存在だった。
登山隊のリーダーと交代で、一番最後尾を歩く役目を自ら引き受けていた。体力がなくて遅れているわけじゃない――それどころか、息の乱れは俺たちの誰よりも安定していた。
アイツが一番後ろを歩くのは、俺たちの残りの体力を気遣い、脱落者を出さないため。そして、誰かが落としたゴミを拾い集めるためだった。
足が滑ったり滑落しそうになった奴がいれば、真っ先に飛び出すのもノセスだった。異常なまでの反射神経。
だけど、俺がずっと引っかかっていたのは、感謝を伝えたときのアイツの反応だった。
アイツはいつも薄く微笑みながら、こう言うのだ。
「あ、気にしないでください先輩。たまたま僕が近くにいただけですから」
『気にしないで』というその言葉は、恐ろしいほど純粋なトーンで吐き出される。
自分がしたことが特別なことだなんて、微塵も思っていない様子だった。アイツにとって他人を助けることは『手柄』ではなく、自分に課せられた当然の義務という名の『偶然』に過ぎないようだった。
一体どんな心臓をしていたら、チームにそれほどの貢献をしておいて、そこまで自分を低くできるのだろうか?
◇
その理由を知るのに、そう時間はかからなかった。
ある日の夕方、夕食の買い出しをしているとスマホが鳴った。画面には『ノセス』の文字。特に何も考えず、そのまま通話ボタンを押した。知人からの電話に出ない理由もない。
「おう、セス! どうした?」
野菜を選びながら声をかけると、電話の向こうで少し間が空いた。
「あの……先輩。今夜、部屋に泊めていただくことってできますか……? 明日の朝、すごく早く大学に行かなきゃいけなくて……」
声が遠慮がちで震えている。まるで10億円の借金でも申し込んでいるかのような怯え方だった。
「なんだ、そんなことか。いいぞ、おいで。ちょうど夕飯の買い出し中なんだけど、何か買ってきてほしいものあるか?」
「えっ、いえ! 本当に大丈夫です! すみません先輩、ご迷惑をおかけしてしまって……!」
「いいから気にするな。俺と同じやつ適当に買っとくわ」
不毛な「すみません」の押し問答を何度も繰り返した末、ようやくアイツは俺の申し出を受け入れた。
だが、その時点で俺は強い違和感を覚えていた。
許可を求める態度、申し訳なさに満ちた声――それは単なる礼儀正しさではない。まるで自分の存在そのものが、この世界にとって『邪魔なノイズ』であるかのように怯えていた。
◇
夜になり、料理が完成した頃に部屋のドアがノックされた。
開けると、そこにはあの『理想的な人間』が立っていた。決して威張らず、どこまでも謙虚な男。ノセスはメガネをかけ、いつものリュックを背負っていた。
気まずそうに挨拶をした後、アイツは部屋の『隅っこ』に腰を下ろした。
本当に、部屋の端の端だ。そこに座らなければ、自分の体が部屋のスペースを奪いすぎてしまうとでも恐れているかのように。
「おいおい、そんな端っこに座るなよ。山登りの頼れるヘルパー様なんだから、真ん中に来いよ!」
場を和ませようと冗談めかして言ったのだが――返ってきた反応は、俺の予想を遥かに超えるものだった。
ノセスは即座に深くうつむき、全身を強張らせた。まるでこれから尋問でも受けるかのように。
口元が奇妙に引きつり、笑顔と歪んだ表情が目まぐるしく入れ替わる。頭の中で「礼儀正しく振る舞うべきだ」という意識と「耐えがたい恐縮」が猛烈な嵐を起こしているようだった。
一分も経たないうちに、アイツの額から冷や汗が噴き出し始めた。
震える不自然な声で、アイツは絞り出すように言った。
「っ……そんな、滅相もないです、先輩……本当に。僕なんて、大した人間じゃないですから……本当です、先輩……」
山登りの時に一瞬だけ見えた異物感が、今やはっきりと目の前に突きつけられていた。
これは「謙虚」などという美しい言葉で片付けていいものじゃない。自分自身を穢らわしく、不適格で、どんな小さな称賛を受ける価値すらないと思い込んでいる異常な状態だ。
結局、「あ、ああ……そうか……」と俺が引く形で、気まずい夕食が始まった。
余計なことを言ってまた追い詰めるのが怖くて、俺もそれ以上深い話はできなかった。大学の授業や課題についての他愛もない会話だけで夜は更けていった。
俺は先に寝ることにした。
目を閉じる直前に見たノセスは、相変わらずあの部屋の隅っこで、一ミリも動かずにじっと座っていた。
◇
翌朝、カチャカチャという心地よい、けれど少し騒がしい音で目が覚めた。
真っ先に頭に浮かんだのはノセスのことだ。まさか昨夜からずっと、あの隅っこでフリーズしたままなんじゃないだろうな?
慌てて部屋を見渡したが、そこには誰もいなかった。
「もう大学に行ったのかな」と思いながら布団を出て洗面所へ向かおうとしたが、音の正体に気づいて足が止まった。
視線の先で、ノセスが黙々と皿を洗っていた。
それだけじゃない。キッチンは信じられないほどピカピカに磨き上げられ、床は掃除機がかけられ、トイレからは芳香剤の良い匂いが漂っていた。
「おいセス、お前……俺のキッチンの掃除までしてくれたのか? いや、本当にいいのに! 泊めただけなんだから気を使うなって!」
文字通り、今度は俺の方が恐縮してしまった。
「あ、いえ……先輩。昨晩泊めていただいた、ほんのささやかなお礼です。こうでもしないと、自分が申し訳なくて耐えられなくて……」
ノセスは振り向きもせず、すでにピカピカになっている皿を何度も何度もスポンジで擦り続けていた。
俺はその言葉を噛み締めながら、静かに尋ねた。
「……なあ。ゆうべはちゃんと眠れたか? 何か不都合でもあったか?」
「快適でした、先輩。ありがとうございます……あ、僕、座ったまま寝たので大丈夫です」
――ドクン、と心臓が跳ねた。
絶句した。
他人の部屋のスペースを『圧迫』しないために、部屋の隅で座ったまま朝を迎えたと言うのか?
その瞬間、俺は悟った。
ノセスという男は、システムの中に存在する|非推奨関数そのものなのだと。
自分自身を「すでに価値がなく、メモリを無駄に食うだけの不要な古い処理」だと思い込んでいる。けれどシステムの中にまだ残されているからこそ、自分自身を削り、傷つけながら必死に稼働し続けているのだ。
座ったまま眠り、他人の家を磨き上げ、自分の存在感を極限まで消し去る――すべては自分が、他人のシステムを壊す『バグ』にならないために。
俺は、その小さく見えるアイツの背中をただ見つめることしかできなかった。
ノセスは謙虚だ。ああ、確かに謙虚だ。
だがその謙虚さは、もはやアイツを内側から少しずつ生きたまま呑み込んでいく『病(病魔)』そのものだった。




