第1章:システム・オーバーロード
アイツと俺の付き合いは、中学1年の頃にさかのぼる。全寮制の学校だったから、毎日24時間ずっと一緒だった。
思い返せば、最高の時間だったと思う。
一緒に起きて、一緒に学校へ行って、一緒にサボって、一緒に停学処分を喰らった。
幼かったけれど、あの頃の俺たちは間違いなく幸せだった。何ひとつ大きな問題もなく、すべてが順調で――どこまでも『直線的』に思えた。
だけど、それは過去の話だ。
世界が複雑になり、責任という名の行が、終わりなく積み重なっていく前の話。
◇
その夜、俺はノートPCの前で大学の課題と向き合っていた。
着信音が鳴る。いつものグループ(4人組)の友人からだった。遊びの誘い――といっても、いつものようにどこかでたむろしようという提案だ。リフレッシュ目的に出かけたり、集まって課題をやったり、近場の低山へ日帰りハイキングに行ったりする仲間だった。
今回はただ集まるだけだというので、断る理由もない。俺は準備を整え、集合場所へと向かった。
到着してみると、俺が一番最後だった。
誘ってくれた友人、もう一人の友人、そして――アイツがいた。
中学時代からずっと一緒にバカをやってきた、影のようにベッタリ連なる悪友。
名前は、ノセス(Noseth)。
アイツは店内で一番明るいテーブルの隅に座っていた。
楽しそうに笑い合う周りの空気の中で、ノセスだけが『他のプロセスがスリープモードに入る中で唯一バックグラウンド実行を続けているタスク』のように見えた。
視線は道路へ向けられているのに、手元ではテーブルの上のグラスを寸分狂わぬ精度で整えている。見ているこっちが疲れてくるほどの几帳面さだ。
最近のアイツは、ずっとこんな調子だった。
大学に入りたての頃はまだ一緒に遊んでいたのに、最近は山登りや飲み会に誘っても断られることが増えた。たまに来てもノートPCを持ち込んで、俺には理解できない何かに没頭している。会話自体は普通にするが、大学に入ってからのアイツには『なんだか随分とストイックになったな』という違和感が常に付きまとっていた。
今日もそうだ。もし他のやつらが「PC持ち込み禁止」と言わなければ、絶対にまたPCを開いて自分のプロジェクトを進めていただろう。情報理工専攻だし、毎日コード漬けなのは分かるのだが。
だが、問題はまさにそこだった。
あれほど作業中毒なやつが、PCを持たずに店に来ている。そして今、一ミリずれただけのグラスを無言で直しているのだ。
嫌な予感がした。言葉を一言も発しないほど、何かが起きている。
普段なら振られた話には乗ってくるやつだ。なのに今のアイツは、命令待ち(スタンバイ)状態のロボットそのものだった。
もう一度、アイツの手に目をやる。
指先はテーブルの上で、まるで架空のキーボードを叩くかのようにリズムを刻み続けていた。
『起きている状態』を維持しようとする必死さが、痛々しいほど伝わってくる。俺はノセスをよく知っている。アイツは仲間の前で『ダウン』した姿なんて絶対に見せたくないやつだ。
だが、あそこまで真っ黒になったクマを見れば嫌でも分かってしまう。
アイツのシステムは、すでに限界を超えていた。いつクラッシュしてもおかしくない状態だった。
「おい、セス! 聞いてんのかよ!?」
友人グループの一人が声を張り上げた。どうやら他のやつらも、この異常さに気づき始めたらしい。
ノセスはすぐには反応しなかった。
二秒ほどの遅延を経て、ようやくこちらへ顔を向けた。
「……え? ああ、ごめん。なんだっけ?」
ようやく意識を連れ戻したような、掠れた低い声。
「グラスのラインはもう完璧だろ! 建築コンテストにでも出るつもりかよ。それより喋ろうぜ!」
友人が笑いながら茶化すと、ノセスは「あはは、ごめん……」と力なく笑い、テーブルから手を引っ込めた。
だが、俺はその瞬間に見てしまった。
膝の上に降ろされたアイツの指先が、小さく震え続けているのを。
確信した。これは単なる真面目さや野心の問題じゃない。
身体はすでにシャットダウンを求めているのに、脳が無理やり『実行』を命じている状態だ。熱暴走寸前のハードウェアの上で、重い処理を回し続けているようなものだ。
俺は場の空気を重くしないよう、努めて静かに声をかけた。
「昨日、ラボから何時に帰ったんだ?」
他のやつらをパニックにさせないよう、状態を確認(チェック&リバランス)するための問いかけだった。
ノセスが俺を見た。メガネが鼻筋から少しズレ落ちている。
アイツはすぐには答えなかった。ただ深く息を吸い込み――この夜初めて、その防壁がほんの少しだけ崩れるのを俺は見逃さなかった。
「……帰ってない」
ポツリと、短い返答。
数秒間、その場の空気が凍りついた。
――ダメだ、今日の集まりはここまでだ。
驚いたことに、他のやつらもまったく同じことを考えていた。全員が同時に立ち上がり、戸惑うノセスを強引に連れ出して駐車場へと向かった。
「え、どこ行くの? まだ大丈夫だよ……?」
顔色を失った青白い顔で、ノセスが力なく尋ねてくる。
「いいから帰るぞ。近くにある俺のダチの家(下宿先)に行く」
俺が言うと、残りの二人も強く頷いた。
各自のバイクに跨がる。ノセスのバイクは友人の一人が代わりに運転することになった。こんな状態のアイツに運転させられるわけがない。
探りを入れる間もなく、下宿先へ向かう途中でノセスは俺の背中で完全に落ちた(潰れた)。
何度も体が傾き、振り落とされそうになる。俺は途中でバイクを止め、自分のジャケットを使ってアイツの体を俺の胴体に固く縛り付けた。
◇
ようやく友人の下宿先に到着した。
部屋の主である友人は最初は驚いていたが、状況を察してノセスを部屋へ運び込むのを手伝ってくれた。
ベッドの上でアイツが完全に深く眠りについたのを確認し、俺たち4人はバルコニーへと出た。
夜の冷気が肌を刺す。だが、誰も動こうとしなかった。
夜鳥の鳴き声と、温かいコーヒーから立ち上る湯気だけが、沈黙の中に存在していた。
「……お前ら、あいつと最近何やってたんだよ? なんで寝てるときまで手が震えてんだよ……」
部屋の主が静かに口を開いた。その視線は、ノセスが横たわる部屋のドアに向けられている。
「俺たちも知らなかったんだ……あいつがそこまで限界だったなんて」
ノセスのバイクに乗ってきた友人が、ぽつりと呟いた。
そうだ。俺たちはノセスのことなんて、何ひとつ分かっていなかったのだ。
これまで俺たちが見ていたのは、アイツが『見せていた姿』であって、『抱えていた感情』じゃなかった。
大学生活がアイツをどれほど変えてしまったのか。
かつてあんなに人生を楽しんでいたやつが、どうやって表情のない『空っぽの器』へと変わっていき、今夜ついに完全な機能不全を起こしたのか。
遊びに誘えばいつでも「いいよ」と答えてくれていたから、俺たちはバカみたいに「あいつは大丈夫だ」と思い込んでいたのだ。
冷めかけたコーヒーを一口すする。
あの部屋には、ノセスがいる。俺が知る中で誰よりもストイックで、その実、自分を置き去りにして他人の期待を詰め込みすぎただけの『器』。
再起動の時間すら与えられず、壊れるまで稼働を強要され続けたシステム。
そして一番胸が痛むのは――アイツがそれらすべてを、仲間(俺たち)に迷惑をかけない『いい奴』であり続けるために耐え抜こうとしていたことだ。
あの夜、バルコニーの冷気の中で俺はひとつのことを学んだ。
節度のない努力は、もはや長所などではない。
それは、自分自身を最も静かに破壊するための手口なのだと。




