第9話
戦争が始まる前の街道は、川に似ている。
北から南へ、荷車と、家畜と、背負い籠と、子供の手を引く母親たちが、途切れなく流れていく。流れの源は条約線の向こうの平原で、河口はアードラズベルクの北門だった。
その流れを遡る一団があった。五十騎。アードラスヴェーアの胸甲竜騎兵である。
流れに逆らって北へ向かう騎兵を、避難民たちは無言で見送った。時折、荷車の上から子供が小さく手を振り、兵の誰かがそれに敬礼を返した。
出立前、工房に残るサーシャが門まで見送りに来た。
「悪いなテオ、今回は留守番だ。壁の上で会おう。……とっておきを仕込んでる最中でね」
「とっておき?」
「精霊銀と火薬の、うんと行儀の悪い組み合わせ。議会が軍を認めてくれたら、堂々と壁に据えられるんだが」
先輩はそう言って笑い、それから珍しく、真顔になった。
「テオ。向こうの前衛と会っても、撃つなよ。あんたが撃てば、それが開戦の号砲だ」
「任務を確認する」
馬上で、テオドールは声を張った。
「条約線とこの街の間には、まだ十一の集落と、数え切れない農場が残っている。日暮れまでに、住民を一人残らず流れに乗せる。それだけだ」
「戦闘は」
誰かが訊いた。当然の問いだった。
「しない」
テオドールは短く答えた。正確に言えば――できない、のである。
アードラスヴェーアは、法の上ではいまだに自警団の親玉に過ぎない。市域の外で帝国軍と撃ち合う権限など、どの紙にも書かれていない。それでも出る、と決めたのは総帥だった。曰く、「権限がないなら、責任で出る。責任なら、私が全部持てる」。
紙のない仕事ほど、重いものはないのである。
◇
三つ目の集落までは、順調だった。
と言っても、戦場の「順調」である。泣き叫ぶ赤子、鍵を掛けたがる商店主、逃げ回る家畜。二つ目の集落では鶏が娘の手を逃れて騒ぎ、追い回すのを見かねた竜騎兵の一人が、馬上から身を乗り出して鶏を掬い上げた。拍手が起き、兵は鶏を高々と掲げ、テオドールは「遊ぶな」と怒鳴り、内心では少しだけ安堵した。まだ拍手の出る余裕が、この流れにはある。
問題は四つ目の、街道から外れた農場で起きた。
「行かん」
老農夫は、納屋の前に床几を据えて座り込んでいた。膝の上に、火の入っていない煙管。
「儂はここで生まれた。親父もここで死んだ。帝国が来るなら来るがええ。麦の育て方も知らん連中に、儂の畑の何が分かる」
テオドールが説得の言葉を探していると、隊列の後ろから、のそりと馬を降りた男がいた。
オイゲン・クルーガー。アードラスヴェーア最古参の曹長である。五十四歳。第一次アードラズベルク攻防戦の生き残りで、若い隊の中では歩く古文書のような扱いを受けている。磨き上げられた胸甲の左胸に、叩き出しても消えなかった古い凹みが一つあり、新兵はまずそれを盗み見ることから軍隊生活を始めるのが常だった。
クルーガー曹長は老農夫の前まで歩き、煙管に自分の火口で火を点けてやった。
「……ハンネス。二十年前もわしは、あんたに避難しろと言いに来た」
「来たな。あの時も断った」
「あの時は、断って正解だった。帝国はこの農場まで来なんだ」
クルーガーは、南の地平を顎で指した。
「今度は来る。二万で来る。……あんたの畑を焼くためじゃない。あんたの井戸と、麦と、納屋が要るから来るんだ。連中は略奪せんよ。徴発票をくれる。丁寧にな。そして春になったら、あんたは自分の畑で、帝国の麦を育てとるわけだ」
老農夫は長いこと煙を吐いていた。
それから、床几を蹴って立ち上がった。
「――婆さん! 鍬と、種袋!」
そして納屋の裏に回ると、鋤を持ち出して、庭の隅を掘り始めた。
何をするのかと思えば、腰までの高さの若木を、根鉢ごと掘り上げているのだった。
「爺様、荷車はもう一杯だ。木は……」
「馬鹿を言え」
老農夫は、掘り上げた若木を布で包みながら言った。
「これは息子の木だ。生まれた年に植えた。……家は焼けても構わん。畑も、まあ、構わん。だがこいつは、灰の中からでも芽を出す側だ」
テオドールは、それ以上何も言わなかった。
精霊は灰の中からでも芽を出す。あの礼式の若木を、逆さに辿るような光景だった。焼かれてから立てるのではなく、焼かれる前に、根ごと連れて逃げる。
それでいい。芽は、立てるより連れて逃げる方が、ずっといい。
◇
日が傾き始めた頃、最後の集落の最後の荷車が街道に乗った。
そして、来た。
「南南東、騎兵!」
物見の声に、テオドールは丘の稜線を見た。
濃紫の外套。軽騎槍の穂先が、傾いた陽を弾いて等間隔に光る。帝国軽騎兵、前衛の、そのまた前衛。軍の目である。
先行していたカイが、砂埃を上げて戻ってきた。
「百騎。中隊規模。後続、稜線の裏に同数」
距離、八百。街道の上には、まだ荷車の列が延々と続いている。
テオドールは、自分の首筋に神経を澄ませた。
産毛は――静かだった。
殺気が、ない。武装した数百の男が近づいてくるのに、殺気だけがない。それが、かえって不気味だった。憎んで来る軍より、仕事で来る軍の方が、ずっと強いのである。
「隊列!」
テオドールは叫んだ。五十騎が、街道と帝国騎兵の間に、一列の横隊を組む。胸甲が夕陽に赤く光った。
撃ち合えば、負ける。数が倍だ。そして撃ち合えば――それが、この戦争の最初の一発になる。
帝国騎兵は、速歩のまま距離を詰め、四百で並足に落とし、三百で止まった。
向こうも、撃たない。
沈黙が、平原の上に横たわった。聞こえるのは荷車の軋みと、双方の馬の鼻息だけである。
やがて帝国側から、士官が一騎だけ進み出た。若い大尉だった。テオドールも、単騎で進んだ。中間の、声の届く距離で、双方が止まる。
「……道路の検分である」
大尉は、抑揚のない声で言った。
「我が軍は演習中だ。貴隊の任務を問う」
「隊商の護衛だ」
テオドールは、荷車の列を親指で示した。
「見ての通り、少々大きな隊商でな」
大尉の目が、一瞬だけ、笑ったように見えた。あるいは歪んだのか。夕陽の中では、どちらとも取れた。
「……日没までに、この道の検分を終えねばならん」
「日没までに、この隊商は通り終える」
それだけだった。
双方、馬首を返した。テオドールは横隊に戻り、大尉は稜線に戻り、荷車は軋み続け、日は沈み続けた。
最初の一発は、誰も撃ちたがらない。
戦争というものは、始めるよりも、「始まったことにする」方が難しいのである。誰もが、その一発を他人の指に押し付けようとする。だから軍隊は検分と呼び、護衛と呼び、演習と呼び――そして呼び名が尽きた日に、砲声で呼ぶのだ。
最後の荷車が視界の北に消えたとき、稜線の帝国騎兵も、潮が引くように消えていた。
◇
北門をくぐったのは、とっぷり日が暮れてからだった。
門の内側は、人の海だった。荷車、家畜、篝火、湯気の立つ炊き出しの大鍋。救護院はとうに溢れ、市民集会所も、穀物倉の一角までもが避難民に開放されている。
その混沌の中を、水桶を担いだフリードが駆け抜けていき、毛布の山を抱えたマルタが人波を捌いていた。指図する声には、もう震えなど欠片もない。
「南地区、あと毛布四十! 子供のいる家族から!」
焼け出された者が、焼け出されてくる者たちを迎え入れている。この街の強さの正体は、城壁の厚さではないのかもしれなかった。
港の方角では、夜だというのに帆柱の灯りが列を作っていた。婦女子と老人を乗せた商会の船が、今夜も北の湾岸へ発っていく。約束通り、海は塞がれていない。敵の元帥の口約束が、いま何百人の命を運んでいるのだった。
屋敷に寄ると、兄は不在だった。
「レオンハルトなら、今夜は議員の屋敷を三軒ハシゴだとさ」
ライネルが厩で鞍を外しながら言った。
「票読みか」
「票作り、だな。明後日までに、あと六票要るらしい」
戦の前の商人は、剣より先に算盤を抜くのである。
◇
その夜、市庁舎の掲示板に、一枚の布告が貼り出された。
松明を掲げた人だかりが、字の読める者の朗読を、押し黙って聞いた。
「――明後日、臨時議会を召集する。議題、『アードラズベルク自由都市軍隊創設法案』の審議、および……」
軍隊、という言葉のところで、群衆がざわめいた。
二十年間、この街になかった言葉である。自警団でも、守備隊でも、傭兵でもなく――軍隊。
「ついに、か」
「ついに、じゃと? 正気か。軍を持てば、帝国に口実をくれてやるようなもんじゃ」
「口実? 連中はもう線を越えとるんだぞ!」
「軍隊がなんぼのもんじゃい」と、これはパン屋の女将である。「あたしゃどっちにしろ、明日もパンを焼くだけだよ」
「……ファルケンハインの倅を差し出しときゃあ、済んだ話かもしれんて」
最後の声は、人だかりの暗がりから聞こえた。
小さな声だった。だが、テオドールの耳は、それを正確に拾った。
隣でライネルが動きかけるのを、テオドールは腕一本で制した。
「言わせておけ」
「……いいのか」
「ああいう声を黙らせるために軍を作るんじゃない」
テオドールは、掲示板の白い紙を見た。明後日、あの紙に街の運命が乗る。
「ああいう声ごと守るために、作るんだ」




