第10話
自分の値段が議論されるのを聞くというのは、奇妙な体験である。
テオドールは傍聴席の隅、柱の陰に立っていた。制服では目立つので、今日は商会の事務員のような黒い上着を着ている。それでも気づく者は気づき、気づいた者は目を逸らした。
議場は、立錐の余地もなかった。傍聴席は夜明け前から並んだ市民で埋まり、入りきらなかった群衆が市庁舎前の広場を埋めている。広場の隅には志願希望の若者たちの一団もいて、その先頭にフリードの長身が見えた。まだ受け付けてもいない志願の列に、もう三日も並んでいる連中である。
傍聴席の反対側の柱の際には、救護院の白い前掛けのままのマルタがいた。仕事を抜けて来たらしい。この街が、彼女の村のような場所のために戦うのかどうか——それを聞き届ける権利なら、議場の誰よりも彼女にある。
開会直前、廊下でレオンハルトと行き合った。
「六票、揃ったのか」
「四票半」
「……半票とは何だ」
「賛成すると言いながら、夫人には反対すると言っている議員のことだよ」
兄はモノクルを直し、事務員姿の弟を上から下まで眺めた。
「残りの一票半は、議場の空気が決める。……お前は柱の陰で、何もするな。何もしないのが、今日のお前の仕事だ」
「――開会に先立ち、議長より申し上げる。本日の議題は二件。第一、宥和決議案。第二、アードラズベルク自由都市軍隊創設法案」
宥和決議案。
中身は要するに、こうだ。帝国に再交渉を申し入れ、駐留規模の縮小と引き換えに要求を受け入れる。ドルネック殺害の「下手人」については、市の司法で裁判を行い、その身柄の扱いを協議事項とする——。
協議事項。美しい言葉である。売り物にする、と書かないだけの。
◇
審議は、荒れた。
「そもそも軍を作ること自体が条約違反であろう!」
と、独立派の法律家議員が机を叩いた。
「帝国はまだ市域に一歩も入っておらん、一発も撃っておらん! ここで我々が野戦軍を創設すれば、条約を先に破ったのは我々になる。帝国に、待ち望んだ口実をくれてやるのだ!」
「加えて、だ」
別の議員が続いた。
「この法案、軍の総帥は誰になる? 市長だ。市長は誰だ? ファルケンハインだ。商会の頭取は? その息子だ。開戦の原因は? その次男だ! ……諸君、これは都市の軍か、それともファルケンハイン家の軍か?」
議場がざわめいた。
痛いところである。実際、痛い。金と、票と、剣と、開戦事由。この街の戦争に関わる全てが、いま一つの家名の下に集まりつつあるのは、事実なのだ。
テオドールは柱の陰で、拳を握って耐えた。反論したい箇所は十もあったが、傍聴人に発言権はない。そして、たぶん、ない方がよかった。
やがて、宥和案の提案者が壇に立った。
ヨルク翁。南区の麻織物商である。誰もが静かになった。この老人が、二十年前の防衛戦で息子を二人とも失ったことを、議場の全員が知っていたからだ。
「わしは、臆病者と呼ばれるために此処に立っとる」
老人は、原稿も持たずに言った。
「構わん。呼べばええ。……わしはな、諸君。『誇り』の値段を知っとるんだ。あれは高い。べらぼうに高い。二十年前、わしは誇りの代金に息子を二人払った。釣り銭は、来なんだ」
しわがれた声が、静まり返った議場に落ちた。
「若君を売れとは言わん。裁判にかけて、時間を稼げと言うとる。一年、時間を稼げば、帝都の政局が変わるかもしれん。皇帝が代わるかもしれん。戦は、起きてしまえば止められん。起きる前なら、まだ――」
老人は、そこで少しだけテオドールの方を見た。柱の陰まで、正確に。
「……若いのが死ぬのは、もう見とうないだけじゃ」
誰も、野次を飛ばさなかった。
テオドールは、深く頭を下げた。この老人の「反対」は、広場の暗がりの囁きとは違う。まっとうな、血の通った反対だった。そういう声ごと守るのだと、三日前の自分は言った。ならば、頭を下げる以外にない。
◇
潮目が変わったのは、昼過ぎだった。
伝令が議場に駆け込み、議長に紙片を渡した。議長は一読して、顔色を変えずに――顔色を変えない努力をしながら――読み上げた。
「……南方監視所より入電。帝国軍は本日午前、収容の間に合わなかった街道南の二集落において、徴発を開始した。住民に危害なし。家屋の接収、井戸の使用、穀物の徴発。すべてに――徴発票が発行されている」
一瞬、議場は意味を測りかねて静まった。
危害なし。焼き討ちなし。略奪なし。ならば、良い報せではないのか?
最初に立ち上がったのは、羊毛ギルドの代表だった。
「――諸君、分からんのか」
老獪な商人の声が、初めて上ずっていた。
「略奪なら、兵の暴走で済む。謝罪も賠償も取れる。だが徴発票は違う。あれは帳簿に載る。帝国の国庫が、後日の支払いを約束する正式な紙だ。……つまり帝国は、あの土地の収穫を来年も再来年も自分の帳簿で管理するつもりだということだ。連中は襲いに来たんじゃない。住みに来たんだ」
議場が、今度こそ凍った。
商人の街である。火と剣には強がれても、帳簿の意味を読み違える者は一人もいない。
「宥和案の諸君に問う。交渉で時間を稼ぐ? 結構。その一年の間に、帝国はこの平原の全ての井戸と麦を帳簿に載せ終える。徴発票で満腹になった軍隊と、来年、何を材料に交渉するのかね」
凍った議場の、その静寂の中で。
傍聴席から、小さな声がした。
「……焼かれた村は」
マルタだった。立ち上がるつもりなど、なかったのだろう。立ってしまってから、自分で驚いた顔をしていた。それでも、声は続いた。
「焼かれた村は、帳簿にも、載らないんです」
議長が木槌に手を掛けた。傍聴人の発言は、規則違反である。
だが木槌が振られる前に、羊毛ギルドの代表が言った。
「議長。規則通り、いまの声は記録に残らん。……残らんが、諸君の耳には残ったであろう」
マルタは真っ赤になって座った。テオドールは柱の陰で、この街のために剣を抜くことを、もう一度だけ、心の中で誓い直した。
◇
ヴィルヘルムが立ったのは、日が傾いてからだった。
総帥として、ではない。市長として、でもない。彼は演壇に上がると、まず法案の写しを掲げた。
「諸君は今日、軍を作るかどうかを議論してきた。だが、この法案を最後まで読んだ者なら知っているはずだ。第一条は、軍の創設ではない」
彼は、紙をめくった。
「第一条は、軍の縛り方だ。宣戦と講和の権限は議会にある。予算は年次で議会が承認する。総帥は、議会の三分の二をもっていつでも罷免できる。わしは総帥候補として、この条文を一字も削らんことを約束する」
ファルケンハインの軍か、と問うた議員の方を、ヴィルヘルムはまっすぐに見た。
「その懸念は正しい。権力は集まりすぎている。だからこそ、鎖ごと差し出す。……軍というものはな、諸君。鎖に繋がれてはじめて、市民のものなのだ」
「条約違反の点は、どうなさる」
法律家議員が、最後の矢を放った。ヴィルヘルムは頷いた。良い質問だ、という顔だった。
「わしらが破るのは、もう死んでいる紙だ。……死亡診断書なら、ヴェルダ川に架かった三本の舟橋が、とっくに書いてくれておるよ」
そして彼は、最後の頁を開いた。
「そして最終条項。読み上げる。――『本法は、戦争の終結をもって、その効力を失う』」
議場が、ざわ、と揺れた。
「この軍は、勝っても負けても、戦が終わった日に解散する。わしらは軍隊を持つ国になるのではない。軍隊を返す約束で借りるのだ。商人の街の軍隊は、それでいい。それがいい」
ヴィルヘルムは一礼して、壇を降りた。
拍手は、なかった。代わりに、議場全体が長く息を吐く音がした。拍手より重い音だった。
◇
採決は二度、行われた。
宥和決議案——賛成九、反対四十二、棄権四。否決。
ヨルク翁は否決の宣告を聞くと、静かに頷いて、それ以上何も言わなかった。
そして、軍隊創設法案。こちらは市の永久記録に残る記名投票である。書記が議員の名を一人ずつ読み、呼ばれた者は起立して、賛否を口で述べる。
「賛成」「賛成」「反対」「賛成」……
ヨルク翁の番が来た。老人は立ち上がり、誰の顔も見ずに、はっきりと言った。
「反対」
言い終えると、背筋を伸ばしたまま座った。テオドールは、その白髪の後頭部に、もう一度だけ頭を下げた。ああいう反対と同じ議場にいられることが、たぶん、この街の値打ちなのだ。
あの老議員——フリードの祖父の番では、少しだけ笑いが起きた。
「賛成。……孫が今朝、志願票を出しよった。祖父が反対しては、格好がつかん」
テオドールは、数えるのをやめられなかった。可決には特別多数——五十五議席の三分の二、三十七票が要る。
三十票。三十四票。三十六票——そこで、票が止まった。
残る未投票は三人。うち二人は、レオンハルトの「あと六票」に最後まで首を縦に振らなかった穀物商と、その盟友である。
書記が名を読んだ。穀物商が、ゆっくりと立ち上がった。
長い、長い沈黙のあと。
「……徴発票などという紙で、わしの麦を買える思うたら大間違いじゃ」
老商人は、吐き捨てるように言った。
「賛成」
三十七。
可決だった。
◇
閉会の前に、書記が成立した法の全文を読み上げた。市の慣習である。長い条文の、その最後。
「――本法は、戦争の終結をもって、その効力を失う」
終わりの日付のない戦争と、終わりの約束を書き込んだ軍隊が、同じ日に生まれた。
散会の人波の中で、ヴィルヘルムとヨルク翁が、一瞬だけすれ違った。
「……鎖、外すなよ、ヴィル」
「ああ。約束だ」
それだけだった。勝った側と負けた側の会話としては、上出来の部類である。
広場に法成立が伝わったとき、歓声は上がらなかった。代わりに、志願の列が静かに一歩、前に詰めた。




