第11話「旗授与式と最初の杭」
軍隊というものは、剣より先に、机から生まれる。
創設法成立の翌朝、市庁舎の脇に募兵所が開いた。机が四つ、名簿が四冊、インク壺が四つ。それだけの装備で、机の向こうの書記たちは、押し寄せる志願者の洪水と戦うことになった。
列の先頭は、言うまでもなかった。三日並んだ男である。
「名前は」
「フリードです!」
「歳」
「十九!」
「特技」
「……水汲みと、荷運びと、子供の遊び相手です」
机の書記が顔を上げた。志願書に書く特技としては、前代未聞だったからである。だがその後ろで選別を仕切っていたクルーガー曹長は、髭の下でわずかに笑った。
「書いとけ。戦場で一番要る特技ですわい」
選別は、容赦なく行われた。年齢、持病、家族構成。一家の稼ぎ手が一人しかいない家の志願は、原則として突き返される。戦のあとにも、街は続くからである。
列の中ほどで、一悶着あった。
「あんたは駄目じゃ、ハンネス!」
クルーガーの怒鳴り声に見れば、あの老農夫が、鍬を担いで列に並んでいるのだった。
「なんでじゃ。儂は畑を返してもらいに行くだけじゃぞ」
「七十六の新兵がおるか!」
「六十八じゃ!」
「どっちでも駄目じゃ!」
結局、ハンネス爺は「軍馬の世話係」という新設の職名を与えられて、鼻息荒く納得した。若木は救護院の中庭に、仮植えしてあるという。
◇
午後、練兵場で支隊の編成が発表された。
アードラスヴェーア・ファルケンハイン支隊。胸甲竜騎兵二個中隊を中核に、猟兵班、工兵班、通信班、軍医班を配属した、総帥直轄の機動部隊である。支隊長、テオドール・フォン・ファルケンハイン。
辞令は、一枚の紙だった。
受け取ってみると、驚くほど軽い。この軽さに二百四十騎の命が乗るのかと思うと、指先が少しだけ冷えた。
「浮かない顔だな、支隊長殿」
ライネルが横から辞令を覗き込む。
「……お前も読んだだろう、創設法。俺たちは議会に飼われる軍だ。予算も、進退も、首輪も全部、市民のものだ」
「結構なことじゃないか」
「ああ。結構なことだ」
本心だった。首輪の重さは、辞令の軽さより、ずっと信用できる。
夕刻、隊の点呼が行われた。
クルーガー曹長が名簿を開き、名を読み上げる。
「ライネル・ベリク」「はい」
「サーシャ・グレンツ」「はいよ」
「フリッツ・オルド」「はい」
「ティノ・マス」「ハイ、デアリマス」
「ミラ・ロウ」「はい!」
「アデル・ヴァイス」「応!」
アデル・ヴァイスは、槍を担いだ肩幅の広い男で、返事の声だけで最前列と分かる類の兵だった。聞けば、志願動機の欄に「一番槍」とだけ書いたという。
「マリア・ツィーグラー」「……はい」
こちらは対照的に、測遠具の手入れをしながらの小声である。サーシャの片腕を務める砲術と爆破の計算屋で、口数はカイと良い勝負だった。ただしカイが数字しか言わないのに対し、マリアは数字すら出し惜しみする。
「ティル・ローンハルト」「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
双剣を背負った軽口の剣士である。ライネルと組ませると練兵場が漫才小屋になるため、教練では引き離すことが早くも決まった。
「イルザ・ヴァルトルート」「はい」
「オスカー・リーデン」「はい」
「エリアス・クラウゼ」「はい」
……名は、続いていく。
名簿に、カイの名はなかった。
弟のほうのベリクは、同日付で独立の騎兵中隊——黒甲騎兵中隊、市民の呼び名では早くも「黒騎兵」——の編成官を命じられている。黒塗りの胸甲を並べる予算をどこから引っ張ったのかは、兄すら知らないという。兄弟は同じ軍の、別の旗の下に立つことになった。
「……寂しくなるな」
ライネルがぼそりと言った。
「隣の連隊だ」
「そういうことじゃないんだよなあ」
名簿の最後に、クルーガーは少しだけ間を置いた。
「――旗手見習い、フリード」
「は、はいっ!」
「姓は」
「……ありません。ただのフリードです」
「なら名簿には、『旗手見習いフリード』と載る」
クルーガーは、事務的な声のまま言った。
「それがお前の家名の始まりかもしれんの。せいぜい良い名にせえ」
テオドールは、列の前でそれを聞きながら、ふと思った。
帝国は、数を数える。竈の煙を数え、井戸の樽を数え、麦を帳簿に載せる。二万、四個軍団、砲何門。
この街は、名を呼ぶ。
それが、この戦争の両側なのだった。
点呼の最後に、クルーガーは名簿を閉じて言った。
「以上、支隊、総員異常なし。……諸君の名は今日から市の永久記録じゃ。死んだ後も消せんぞ。せいぜい、恥ずかしゅうない生き方をせえ」
◇
旗授与式は、翌日の正午、市庁舎前の広場で行われた。
式次第は簡素だった。商人の街は、儀式の長さと中身が反比例することを知っている。
議長が創設法の要旨を読み、ヴィルヘルムが総帥として短く応えた。それから、軍旗が運び出された。
市章を織り出した深紺の旗。竿頭には銀の飾り――よく見れば、小さな鷹である。正規軍の旗の天辺に、私兵時代の記憶がひとつだけ、留め金のように残されていた。
そして、旗手の名が呼ばれた。
「――旗手見習い、フリード!」
広場が、ざわめいた。当人が一番ざわめいていた。三日並んだ男は、練兵場の隅で旗竿の持ち方すら習い始めたばかりなのである。
フリードは硬直したまま進み出て、ヴィルヘルムの前に立った。総帥は、旗を渡す前に、広場に届く声で言った。
「武勲の者に旗を持たせる軍は、多い。だが、この軍は違う」
ヴィルヘルムは、旗をフリードの手に押し付けた。
「旗は、守られる側だった者が捧げろ。……この旗が何のために立っとるか、一番よう知っとるのはお前らだからだ」
フリードの祖父が、群衆の中で身じろぎもせずに立っていた。ヨルク翁の姿もあった。反対票を投じた老人は、それでも式に来て、旗が揚がる時、静かに帽子を取った。
宣誓は、隊員全員で唱和した。誓う相手は、皇帝でも、神でも、家名でもない。
「――我ら、アードラズベルクの市民と、その客人と、その灯を守る」
客人、の一言が入ったのは、ヴィルヘルムの指示だという。救護院の白い前掛けの一団が、群衆の中でそれを聞いていた。マルタの胸元で、精霊ペンダントが揺れた。
宣誓が終わり、フリードの掲げた旗が、初めて風を捉えて開いた。
その瞬間、群衆のどこかから、声が飛んだ。
「――エルンヴァハト!」
誰が言い出したのかは分からない。だが声は伝染した。エルンヴァハト、エルンヴァハト。市民たちが、正式名称を綺麗に無視して、その名を連呼し始める。
「……おい。あれ、俺たちの学生時代の夜回りごっこの名前だぞ」
ライネルが半分呆れて言った。大学の頃、悪童どもで勝手に名乗っていた自警団ごっこの呼び名である。酒場の喧嘩の仲裁ばかりしていた、あの。
「市民が覚えてたんだよ」とサーシャ。「正式名称より先に通称が決まる部隊なんて、大陸中探してもうちくらいのもんだね」
テオドールは、旗と、連呼される名を聞きながら思った。
公文書に載らない名前の方が、たぶん、長生きするのだ。
最後に、アルモナが進み出た。
巫女役として、彼女は旗竿の天辺、銀の鷹の足元に、常緑樹の小枝を緑の紐で結びつけた。精霊の加護を乞う、古い作法である。
「灰の中からでも、芽を出しますように」
それだけ言って、彼女は下がった。短い祝詞だった。この街の人間には、それで足りた。
群衆の後方には、レオンハルトとマルクの姿もあった。式典嫌いの兄が来ていること自体が珍事である。マルクは深紺の旗を眺め、珈琲でも品評するような口調で、隣に呟いた。
「良い旗だ。……私の旗より、ずっと良い」
「商会旗のことですか」
「そういうことにしておきましょう」
◇
式の翌朝、北の平原に、杭が立った。
最初は、ただの一本だった。夜明けの光の中、城壁の物見が測量旗と見間違えたほどの、細い杭である。
昼までに、それは百本になった。
テオドールとサーシャは、北壁の上からそれを眺めた。杭の列は緩やかな弧を描き、街道を跨ぎ、丘の裾を回り込んで、平原の東西へと延びていく。杭と杭の間では帝国工兵が土を掘り返し、荷馬車が資材を降ろし、遠くから槌の音が、時報のように規則正しく届いた。
隣で、カイが遠眼鏡を覗きながら数えていた。
「杭、四百六十。間隔五歩。……全周に延ばせば、二里半」
二里半の柵と塹壕が、この街をぐるりと抱くことになる。海の側だけを空けて。
「攻囲堡の線だ」
サーシャが言った。声から、いつもの軽さが抜けていた。
「壁からの砲の射程外に本陣、射程ぎりぎりに塹壕と堡塁。教科書通り……いや、教科書より丁寧だ。あの元帥様、うちの壁を力押しする気は端からないね。掘って、囲んで、待つ気だ」
「線が閉じるまで、どのくらいだ」
「この調子なら、十日」
サーシャは指を折り、それから、その手で南の彼方――ヴェルダ川の方角を指した。
「なあ、テオ。囲まれる前に、やることがあると思わないか」
「……舟橋か」
「架かってからじゃ遅い、って言ったろ」
先輩は、にやりと笑った。
「夜、川霧に乗じて北へ抜ける。竜騎兵の脚と、うちの班の焼玉があれば、三本とも朝までに炭にできる。囲みが閉じたら、二度と手が届かない橋だ。……やるなら、今しかない」
テオドールは、南の杭の列を長いこと見た。
それから言った。
「総帥と――議会の承認を取る」
「議会? 軍事作戦にか?」
「宣戦は議会の専権だ。俺たちが川で火を放てば、それがこの戦争の、こちら側からの最初の一発になる」
テオドールは、辞令の紙の軽さと、首輪の重さを思い出していた。
「最初の一発は、市民に撃たせてもらう」
サーシャは目を丸くし、それから、今日一番の顔で笑った。
「……いい部隊に入ったもんだよ、まったく」
壁の上の風が、二人の外套を鳴らした。
眼下では槌の音が、今日も一本、また一本、街を縫い込むように杭を打ち続けていた。




