↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルネステン戦記本伝  ~圧政は、最悪の支配であり——最高の教師だった。~  作者: 碧海 朔
第一章「アードラスヴェーアの誓い」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/71

第11話「旗授与式と最初の杭」

 軍隊というものは、剣より先に、机から生まれる。




 創設法成立の翌朝、市庁舎の脇に募兵所が開いた。机が四つ、名簿が四冊、インク壺が四つ。それだけの装備で、机の向こうの書記たちは、押し寄せる志願者の洪水と戦うことになった。




 列の先頭は、言うまでもなかった。三日並んだ男である。




「名前は」




「フリードです!」




「歳」




「十九!」




「特技」




「……水汲みと、荷運びと、子供の遊び相手です」




 机の書記が顔を上げた。志願書に書く特技としては、前代未聞だったからである。だがその後ろで選別を仕切っていたクルーガー曹長は、髭の下でわずかに笑った。




「書いとけ。戦場で一番要る特技ですわい」




 選別は、容赦なく行われた。年齢、持病、家族構成。一家の稼ぎ手が一人しかいない家の志願は、原則として突き返される。戦のあとにも、街は続くからである。




 列の中ほどで、一悶着あった。




「あんたは駄目じゃ、ハンネス!」




 クルーガーの怒鳴り声に見れば、あの老農夫が、鍬を担いで列に並んでいるのだった。




「なんでじゃ。儂は畑を返してもらいに行くだけじゃぞ」




「七十六の新兵がおるか!」




「六十八じゃ!」




「どっちでも駄目じゃ!」




 結局、ハンネス爺は「軍馬の世話係」という新設の職名を与えられて、鼻息荒く納得した。若木は救護院の中庭に、仮植えしてあるという。




   ◇




 午後、練兵場で支隊の編成が発表された。




 アードラスヴェーア・ファルケンハイン支隊。胸甲竜騎兵二個中隊を中核に、猟兵班、工兵班、通信班、軍医班を配属した、総帥直轄の機動部隊である。支隊長、テオドール・フォン・ファルケンハイン。




 辞令は、一枚の紙だった。




 受け取ってみると、驚くほど軽い。この軽さに二百四十騎の命が乗るのかと思うと、指先が少しだけ冷えた。




「浮かない顔だな、支隊長殿」




 ライネルが横から辞令を覗き込む。




「……お前も読んだだろう、創設法。俺たちは議会に飼われる軍だ。予算も、進退も、首輪も全部、市民のものだ」




「結構なことじゃないか」




「ああ。結構なことだ」




 本心だった。首輪の重さは、辞令の軽さより、ずっと信用できる。




 夕刻、隊の点呼が行われた。




 クルーガー曹長が名簿を開き、名を読み上げる。




「ライネル・ベリク」「はい」




「サーシャ・グレンツ」「はいよ」




「フリッツ・オルド」「はい」




「ティノ・マス」「ハイ、デアリマス」




「ミラ・ロウ」「はい!」




「アデル・ヴァイス」「応!」




 アデル・ヴァイスは、槍を担いだ肩幅の広い男で、返事の声だけで最前列と分かる類の兵だった。聞けば、志願動機の欄に「一番槍」とだけ書いたという。




「マリア・ツィーグラー」「……はい」




 こちらは対照的に、測遠具の手入れをしながらの小声である。サーシャの片腕を務める砲術と爆破の計算屋で、口数はカイと良い勝負だった。ただしカイが数字しか言わないのに対し、マリアは数字すら出し惜しみする。




「ティル・ローンハルト」「はいはい」




「返事は一回」




「はい」




 双剣を背負った軽口の剣士である。ライネルと組ませると練兵場が漫才小屋になるため、教練では引き離すことが早くも決まった。




「イルザ・ヴァルトルート」「はい」




「オスカー・リーデン」「はい」




「エリアス・クラウゼ」「はい」




 ……名は、続いていく。




 名簿に、カイの名はなかった。




 弟のほうのベリクは、同日付で独立の騎兵中隊——黒甲騎兵中隊、市民の呼び名では早くも「黒騎兵」——の編成官を命じられている。黒塗りの胸甲を並べる予算をどこから引っ張ったのかは、兄すら知らないという。兄弟は同じ軍の、別の旗の下に立つことになった。




「……寂しくなるな」




 ライネルがぼそりと言った。




「隣の連隊だ」




「そういうことじゃないんだよなあ」




 名簿の最後に、クルーガーは少しだけ間を置いた。




「――旗手見習い、フリード」




「は、はいっ!」




「姓は」




「……ありません。ただのフリードです」




「なら名簿には、『旗手見習いフリード』と載る」




 クルーガーは、事務的な声のまま言った。




「それがお前の家名の始まりかもしれんの。せいぜい良い名にせえ」




 テオドールは、列の前でそれを聞きながら、ふと思った。




 帝国は、数を数える。竈の煙を数え、井戸の樽を数え、麦を帳簿に載せる。二万、四個軍団、砲何門。




 この街は、名を呼ぶ。




 それが、この戦争の両側なのだった。




 点呼の最後に、クルーガーは名簿を閉じて言った。




「以上、支隊、総員異常なし。……諸君の名は今日から市の永久記録じゃ。死んだ後も消せんぞ。せいぜい、恥ずかしゅうない生き方をせえ」




   ◇




 旗授与式は、翌日の正午、市庁舎前の広場で行われた。




 式次第は簡素だった。商人の街は、儀式の長さと中身が反比例することを知っている。




 議長が創設法の要旨を読み、ヴィルヘルムが総帥として短く応えた。それから、軍旗が運び出された。




 市章を織り出した深紺の旗。竿頭には銀の飾り――よく見れば、小さな鷹である。正規軍の旗の天辺に、私兵時代の記憶がひとつだけ、留め金のように残されていた。




 そして、旗手の名が呼ばれた。




「――旗手見習い、フリード!」




 広場が、ざわめいた。当人が一番ざわめいていた。三日並んだ男は、練兵場の隅で旗竿の持ち方すら習い始めたばかりなのである。




 フリードは硬直したまま進み出て、ヴィルヘルムの前に立った。総帥は、旗を渡す前に、広場に届く声で言った。




「武勲の者に旗を持たせる軍は、多い。だが、この軍は違う」




 ヴィルヘルムは、旗をフリードの手に押し付けた。




「旗は、守られる側だった者が捧げろ。……この旗が何のために立っとるか、一番よう知っとるのはお前らだからだ」




 フリードの祖父が、群衆の中で身じろぎもせずに立っていた。ヨルク翁の姿もあった。反対票を投じた老人は、それでも式に来て、旗が揚がる時、静かに帽子を取った。




 宣誓は、隊員全員で唱和した。誓う相手は、皇帝でも、神でも、家名でもない。




「――我ら、アードラズベルクの市民と、その客人と、その灯を守る」




 客人、の一言が入ったのは、ヴィルヘルムの指示だという。救護院の白い前掛けの一団が、群衆の中でそれを聞いていた。マルタの胸元で、精霊ペンダントが揺れた。




 宣誓が終わり、フリードの掲げた旗が、初めて風を捉えて開いた。




 その瞬間、群衆のどこかから、声が飛んだ。




「――エルンヴァハト!」




 誰が言い出したのかは分からない。だが声は伝染した。エルンヴァハト、エルンヴァハト。市民たちが、正式名称を綺麗に無視して、その名を連呼し始める。




「……おい。あれ、俺たちの学生時代の夜回りごっこの名前だぞ」




 ライネルが半分呆れて言った。大学の頃、悪童どもで勝手に名乗っていた自警団ごっこの呼び名である。酒場の喧嘩の仲裁ばかりしていた、あの。




「市民が覚えてたんだよ」とサーシャ。「正式名称より先に通称が決まる部隊なんて、大陸中探してもうちくらいのもんだね」




 テオドールは、旗と、連呼される名を聞きながら思った。




 公文書に載らない名前の方が、たぶん、長生きするのだ。




 最後に、アルモナが進み出た。




 巫女役として、彼女は旗竿の天辺、銀の鷹の足元に、常緑樹の小枝を緑の紐で結びつけた。精霊の加護を乞う、古い作法である。




「灰の中からでも、芽を出しますように」




 それだけ言って、彼女は下がった。短い祝詞だった。この街の人間には、それで足りた。




 群衆の後方には、レオンハルトとマルクの姿もあった。式典嫌いの兄が来ていること自体が珍事である。マルクは深紺の旗を眺め、珈琲でも品評するような口調で、隣に呟いた。




「良い旗だ。……私の旗より、ずっと良い」




「商会旗のことですか」




「そういうことにしておきましょう」




   ◇




 式の翌朝、北の平原に、杭が立った。




 最初は、ただの一本だった。夜明けの光の中、城壁の物見が測量旗と見間違えたほどの、細い杭である。




 昼までに、それは百本になった。




 テオドールとサーシャは、北壁の上からそれを眺めた。杭の列は緩やかな弧を描き、街道を跨ぎ、丘の裾を回り込んで、平原の東西へと延びていく。杭と杭の間では帝国工兵が土を掘り返し、荷馬車が資材を降ろし、遠くから槌の音が、時報のように規則正しく届いた。




 隣で、カイが遠眼鏡を覗きながら数えていた。




「杭、四百六十。間隔五歩。……全周に延ばせば、二里半」




 二里半の柵と塹壕が、この街をぐるりと抱くことになる。海の側だけを空けて。




「攻囲堡の線だ」




 サーシャが言った。声から、いつもの軽さが抜けていた。




「壁からの砲の射程外に本陣、射程ぎりぎりに塹壕と堡塁。教科書通り……いや、教科書より丁寧だ。あの元帥様、うちの壁を力押しする気は端からないね。掘って、囲んで、待つ気だ」




「線が閉じるまで、どのくらいだ」




「この調子なら、十日」




 サーシャは指を折り、それから、その手で南の彼方――ヴェルダ川の方角を指した。




「なあ、テオ。囲まれる前に、やることがあると思わないか」




「……舟橋か」




「架かってからじゃ遅い、って言ったろ」




 先輩は、にやりと笑った。




「夜、川霧に乗じて北へ抜ける。竜騎兵の脚と、うちの班の焼玉があれば、三本とも朝までに炭にできる。囲みが閉じたら、二度と手が届かない橋だ。……やるなら、今しかない」




 テオドールは、南の杭の列を長いこと見た。




 それから言った。




「総帥と――議会の承認を取る」




「議会? 軍事作戦にか?」




「宣戦は議会の専権だ。俺たちが川で火を放てば、それがこの戦争の、こちら側からの最初の一発になる」




 テオドールは、辞令の紙の軽さと、首輪の重さを思い出していた。




「最初の一発は、市民に撃たせてもらう」




 サーシャは目を丸くし、それから、今日一番の顔で笑った。




「……いい部隊に入ったもんだよ、まったく」




 壁の上の風が、二人の外套を鳴らした。




 眼下では槌の音が、今日も一本、また一本、街を縫い込むように杭を打ち続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。