第12話「舟橋夜襲 前編」
市の永久記録に、「出撃承認、第一号」と題された簿冊がある。
審議、一刻。賛成多数。ただし、その一刻は長い一刻だった。
「――確認するが」
秘密会の議場で、ヨルク翁が最後に手を挙げた。宥和案の老人は、否決されてなお議席にいる。それがこの街の流儀である。
「帝国はまだ、一発も撃っておらん。杭を打ち、砲を据えただけじゃ。この出撃を認めれば――この戦争の最初の一発は、わしらが撃ったことになる。永久に、そう記録される。……その覚悟の上での挙手か、諸君」
議場は静かだった。
答えたのは、壇上のテオドールだった。
「その通りです。最初の一発は、我々が撃ちます」
隠さなかった。隠すべきでもなかった。
「ですが、撃つ相手は人ではなく、橋です。敵の兵糧と砲弾は、あの三本の舟橋を渡って攻囲線に届く。橋が落ちれば、包囲は痩せます。橋が残れば、包囲は肥ります。……人を撃つ日を少しでも遠ざけるために、橋を撃ちます」
続いて、レオンハルトが費用の説明に立った。商人の議会は、戦争ですら見積書で審議するのである。
「敵の舟橋三本、建造費はおよそ四万ヴァルドール相当。対して我々の焼玉三十六個と作戦費用、しめて二百グルデン。……戦争において唯一楽しいのは、この種の算数だけです」
乾いた笑いが起きた。笑える数字は、勇気の代わりになる。
最後に、ヴィルヘルムが承認の条件を一つだけ付けた。
「捕虜は取るな。――生かして、逃がせ」
議場が、わずかにざわめく。総帥は続けた。
「殺すための作戦ではないと、口で言うのは簡単だ。行動で示せ。歩哨は追い散らすだけでいい。橋さえ燃えれば、あの五十人が生きて戻ることは、こちらの損にならん。……むしろ、燃える橋の話を陣中で語ってもらった方が、こちらの得だ」
ヨルク翁は、長いことテオドールを見ていた。
それから、挙手の際に、皺だらけの手を――挙げた。
賛成四十一。「出撃承認、第一号」は、宥和派の長老の一票を乗せて可決された。
◇
準備に、三日。
工房区の一角は、その三日間、サーシャの王国だった。
「焼玉、三十六。導火は三種。……で、これが今回の主役」
サーシャが掲げてみせたのは、拳大の陶壺だった。中身は瀝青と油。そこに、銀色の粉がひとつまみ、混ぜ込んである。
「精霊銀の粉だ。火色が変わる。――青くなる」
「青いと、何が違う」
「水で消えない」
サーシャは、こともなげに言った。
「油火は水を被れば弱る。だがこいつは、川の上で燃えるために生まれてきた火だ。舟橋ってのはな、テオ、水の上にある癖に、水で守れない橋になるわけだ」
橋は架ける技術と壊す技術が表裏一体――先輩の持論は、今夜も健在である。
その傍らでは、マリアが導火を切り分けていた。
「導火、九十秒。……いえ、九十二秒」
「二秒、何の差だ」
「橋の中央まで、馬で八秒。退避に六十秒。誤差と、臆病の分で二十四秒」
臆病の分、をきちんと予算に組む計算屋である。サーシャが片腕と呼ぶ理由が、その二秒に詰まっていた。
フリッツは猟兵班の配置図を睨み、哨舎の風下に伏射の点を打っていく。ティノは珍しく、電文機を置いていくことになった。
「夜ハ、光ガ漏レマス。今夜ノ通信ハ、鳥ト、脚デアリマス」
「脚とは言うな。伝令と言え」
馬の蹄には布が巻かれ、胸甲には煤が塗られた。磨き上げた鋼は、夜には裏切り者になる。
出撃名簿に、フリードの名はなかった。
「なぜですか!」
「留守番だ」
「自分は旗手です!」
「だから留守番だ」
テオドールは、食い下がる旗手見習いの肩に手を置いた。
「夜襲に旗は持っていかん。旗のいらない仕事というものがある。……そういう仕事を、旗を持つ者に無理に見せる必要もない」
フリードは不満顔のまま、それでも直立して敬礼した。敬礼だけは、この三週間で見違えるほど様になっている。
そして出撃の前夜、屋敷の玄関でアルモナと行き合った。
彼女は今回、何も持たせなかった。蜂蜜湯もなし、菓子もなし。ただ、外套の襟を一度だけ直して、言った。
「帰ったら、報告して。全部」
「軍の機密だぞ」
「機密じゃないところを、全部」
それだけだった。送り出す側の作法として、満点である。
◇
夜行軍は、大回りの迂回路を取った。
攻囲線は、まだ閉じていない。西の丘陵地帯に、杭も塹壕も届いていない未完成の区間がある。閉じる前の環は、環ではない。ただの長い塀である。
支隊から選抜した百五十騎。竜騎兵一個中隊に、工兵班と猟兵班、それに通信士のティノ。先導は――イルザ・ヴァルトルートだった。
カイの抜けた偵察小隊を引き継いだ、山育ちの娘である。口数は少ないが、カイと違って、必要なことは山の言葉で説明してくれる。
「西の沢筋を使います。風は川へ向かって吹き下ろす。……音も匂いも、川へ流れます」
「匂い?」
「百五十頭の馬は、匂います」
言われてみれば、そうである。戦とは、つくづく五感の商売だった。
月のない夜だった。星明かりだけを頼りに、隊列は無言で丘を降りていく。どこかで夜鳥が鳴いた。本物の夜鳥である。偽物は、まだ誰も鳴かせていない。
短い休止のとき、若い兵が手綱を握り締めすぎているのに、ライネルが目を留めた。
「おい新兵。手綱は握り潰すもんじゃない。……初陣か」
「は、はい」
「奇遇だな。全員そうだ」
列のあちこちで、押し殺した笑いが漏れた。支隊の初陣とは、つまり、全員の初陣なのだった。緊張は消えない。だが、分けることはできる。
隣に馬を寄せてきたサーシャが、小声で言った。
「なあテオ。焼いた橋の本数って、戦後の履歴書に書けると思うか」
「書くな」
「じゃあ、架けた橋の方を書くよ。いつかの分を」
いつかの分。先輩の言葉の中で、それが一番、祈りに近かった。
夜半すぎ、川霧が出た。
アルモナたち巫女組織の気象観測が告げた通りの、夜明け前の濃い霧である。観測は三日前からこの霧を予報していた。出撃の日取りそのものが、霧に合わせて選ばれたのだ。
精霊術は雷を呼ばず、山を裂かず――ただ、霧の出る朝を三日前に知る。それだけで、百五十の命の分だけ働いている。
◇
ヴェルダ川の三舟橋は、二里の間隔で並んでいる。
各橋の北詰には守備の歩兵小隊、五十。哨舎がひとつ。篝火がふたつ。対岸のモルゲンロート側には、より大きな橋頭堡。
イルザが霧の中を先行し、戻ってきて、指を立てた。
「歩哨、四人一組。四半刻ごとの交代。……西端の歩哨は、交代の直前に必ず咳をします。癖です」
「咳を聞いたら」
「次の四半刻は、いちばん眠い」
テオドールは頷き、隊を三つに割った。
東橋、ライネルと五十騎。中央橋、テオドールと五十騎。西橋、サーシャの工兵班と護衛の五十騎——焼玉の主力は西から順に川を下って流し、流れそのものに火を運ばせる手筈である。
「合図は」
「イルザの夜鳥。二声で配置完了、三声で――始める」
霧の中で、隊が分かれていく。蹄の布が湿った土を踏む音だけが、微かに続き、やがてそれも消えた。
テオドールは、葦の際で馬を止め、川面を見た。
霧の下で、黒い水が音もなく流れている。その先に、篝火がふたつ、滲んだ橙色で浮かんでいた。あの灯りの側で、敵の歩哨が四半刻の眠気と戦っている。数日前まで、道路の検分をしていた男たちかもしれなかった。
霧は、音をよく運ぶ。橋詰の話し声が、切れ切れに聞こえた。
「……嫁の手紙がよ、また麦の値段の愚痴でな……」
「徴発票、家に送れるのか、あれ……」
なんということはない、兵隊の夜の声だった。
総帥の条件を、テオドールは胸の中で反芻した。捕虜は取るな。生かして、逃がせ。段取りは二重に組んである。歩哨の退路は空けてある。それでも――夜の火の中では、何が起きるか分からない。
起きれば、それは全部、俺の帳簿に載る。
載せる覚悟ごと、承認第一号なのだった。
首筋の産毛は――静かだった。
当然である。殺気は今夜、川の向こうにはない。
こちら側に、しか。
テオドールは、静かにリュミナス=シェルヴァを抜いた。
今夜は、月がない。刃は光らない。神々の祝福も、月光の反射も、なしだ。
それでいい、と思った。これは、祝福される類の仕事ではない。ただ、必要な仕事であるだけだ。そして必要な仕事は、暗がりでやるに限る。
霧の奥で、夜鳥が二声、鳴いた。
東、配置完了。続いて西からも、二声。
テオドールは息を吸い、剣を掲げ――
夜鳥が、三声、鳴いた。




