第13話「舟橋夜襲 後編」
三声目が霧に溶けるより早く、百五十騎は動いていた。
合図と同時に、各騎は鞍上で身を屈め、蹄の布を裂いた。
忍んで来た百五十の蹄が、一斉に、石を打つ音を取り戻す。押し殺してきた音という音が、そこで解き放たれた。
中央橋の北詰へ、テオドールの五十騎が扇形に展開する。狙いは殲滅ではない。音と、火と、馬蹄——夜の五十騎を五百騎に聞かせる術は、クルーガー曹長がかつて教えてくれた。曰く、「敵の耳は、恐怖が二倍にする」。
「――アードラスヴェーア!」
誰かが叫び、五十の喉がそれに続いた。霧の中から湧いた鬨の声に、橋詰の哨舎が跳ね起きる。
半分寝ていた歩哨たちが見たものは、こういうことになる。乳白の霧を裂いて、煤で黒く塗った胸甲の騎兵が、音の壁と一緒に突っ込んでくる。数は分からない。分からないものは、多い。
彼らは撃たなかった。逃げた。正しい判断である。
「北へ追い散らせ! 背中は撃つな!」
一騎だけ、逃げる歩哨の背に銃口を向けた若い兵がいた。テオドールは馬体を寄せ、その銃身を剣の腹で叩き上げた。
「逃げる背中は撃つな。総帥の条件だ」
「し、しかし……!」
「あの背中は、今夜の話を陣中で百回する。……それが、こちらの弾より効く」
◇
工兵班が橋板を駆けた。
焼玉が舟腹に据えられ、導火が繋がれていく。マリアの声が、霧の中で秒を刻む。
「据え付け六橋脚、完了——導火接続——」
そのときだった。
対岸の橋頭堡で、太鼓が鳴った。
目覚めの遅い巨人が身を起こすように、対岸の闇に松明が増えていく。橋の南半分から、靴音が来た。守備隊の応援——一個小隊、いや、それ以上。
「導火、あと九十!」
九十秒。橋の中央で敵とすれ違うには十分で、退避には足りない数字である。
「第一小隊、下馬! 俺に続け——橋の上で、九十秒買う!」
テオドールは橋板に降り立った。背後に十二名。狭い橋の上、銃列は組めない。組めない場所では、剣の出番である。教範にもそう書いてある。書いたのは帝国だが。
霧の向こうから、着剣した銃が突き出された。
テオドールは、それを受けなかった。
受けず、逸らした。刃に伝う力を斜めに流し、相手の重心が泳いだところへ、柄頭で胸甲を突く。一人目が橋板に転がる。二人目の突きは、半歩の見切りで空を突かせ、足を払った。
受けて、流して、崩す。ヴィルヘルム直伝の迎撃剣——ザン=ゲの型である。殺すための型ではない。今夜は、それが都合よかった。
橋板が揺れる。舟の上に組んだ橋とは、つまり揺れる床である。踏み込みの強い帝国式の剣は、揺れる床の上で、突きの伸びを三寸損なう。その三寸が、今夜の生死の全部だった。
霧の奥で、敵の古参らしい声が響いた。
「戻れ戻れッ! 橋の上で騎兵屋と斬り合うな、馬鹿どもが!」
正しい判断である。敵にも、正しい軍曹がいるのだった。着剣銃の列が、じりじりと北へ下がっていく。
「六十!」
マリアの声。背後で工兵が最後の結線を終える。
「四十!」
「小隊、後退! 殿は俺だ!」
橋板を蹴って馬に飛び乗り、最後に橋を振り返る。敵の先頭が、焼玉の据えられた橋脚を跨いで――止まった。足元の陶壺と、そこから延びる導火に、気づいたのである。
彼らは賢明にも、反対へ走り出した。
「十! ……五!」
テオドールは葦の陰で手綱を絞った。
そして、川が燃えた。
◇
青だった。
油火の橙ではない。夜より深い青が、橋脚から橋脚へ、水面を舐めるように走っていく。舟が燃え、鎖が焼け、橋板が一枚ずつ、青い輪郭で夜に浮かび上がっては崩れ落ちる。
東の空でも、西の空でも、同じ青が霧を染めていた。三本、同時である。
兵たちは誰も、鬨の声を上げなかった。ただ、呆けたように青い火を見ていた。美しかったからである。美しいものが自分たちの仕事であることに、まだ慣れていなかったからである。
西橋から合流したサーシャだけが、目を細めて、我が子を見る顔で燃える川を眺めていた。
「……綺麗に燃えるじゃないか、悪い子どもめ」
褒めているのか叱っているのか、分からない声だった。作った本人にも、たぶん分かっていなかった。
後に聞けば、この青は城壁からも見えたという。壁の上に集まった市民は、それが何を意味するのかも分からぬまま、北の空を染める青に、夜通し見入っていたそうである。
「哨兵、五十七」
いつの間にか隣にいたイルザが、南の闇を指で数えながら言った。
「全員、走れています。……欠け、なし。あの咳の人も、多分、先頭にいました」
テオドールは、息を一つだけ吐いた。
帳簿は、今夜は白いままだ。
「撤収!」
◇
追撃は、あった。
対岸の橋頭堡から浅瀬を渡った軽騎兵が、火明かりを背に追い縋ってくる。だがイルザの選んだ沢筋は馬二頭がやっとの隘路で、追う側は列が伸びる。
断後はフリッツの猟兵班だった。闇の中、乾いた銃声が三度。
先頭の騎兵の、馬の鼻先の地面で土が弾けた。二発目は掲げた松明を叩き折り、三発目は誰の耳のそばを掠めたのか、悲鳴だけが聞こえた。
当てずに、止める。夜の霧の中、顔も見えない距離でそれをやる射手が、世の中には実在するのである。追撃の指揮官は職業軍人らしく、即座に正しい結論を出した——夜霧の隘路で、正体不明の狙撃手の待つ方角へは、進まない。
蹄の音が、遠ざかっていった。
◇
北門をくぐったのは、空が白み始めた頃だった。
門の上にも、壁の上にも、人が鈴なりになっていた。南の地平の、まだ微かに青い三つの火柱を、街中が夜通し見ていたのである。
歓声は、帰還の隊列が全員の顔を数えられる距離まで来た時に、爆発した。
門の内側では、フリードが旗を捧げ持って直立していた。夜襲に旗は持っていかん、と言われた旗手見習いは、ならばせめて、と帰る隊列を旗で迎えることに決めたらしい。
ハンネス爺が、湯気を立てる馬たちを次々と引き取っていった。
「馬はわしが預かる。人間は寝ろ」
軍馬の世話係の職名を得て以来、爺様の声はひと回り若返っている。
ミラが軽傷者を数えた。擦過傷が四名、落馬の打ち身が二名、火傷が一名——焼玉係が自分の傑作に見惚れた分である。戦死、なし。
総帥府の階段の上で、ヴィルヘルムが待っていた。
「……全員か」
「全員です」
「よし」
それだけだった。それだけで、足りた。
ティノが総帥府へ第一報を打った。電文はこうである。
――作戦完了。橋三本、燃エ落チ。当方全員、朝メシ前デアリマス。
後刻、この電文は「軍規上いかがなものか」と問題になり、そして市民の間で大流行した。パン屋の女将に至っては、店先に「朝メシ前」と書いた板を掲げた。
屋敷に戻ると、アルモナが起きて待っていた。
「報告して。全部」
「……全員、帰った」
それが第一報だった。彼女は頷き、それから初めて、椅子を勧めた。
「じゃあ、続き。機密じゃないところを、全部」
テオドールは話した。青い火のこと。走れた五十七人のこと。橋の上の九十秒のこと。話しながら、これは戦果報告ではないな、と思った。これは、たぶん、生存報告というものだった。
◇
十日後、ヴェルダ川に橋が架かった。
三本とも、である。
「敵の工兵は優秀だ」
レオンハルトは観測報告を卓に置いて、モノクルを外した。
「正直、うちの商会に欲しいくらいだね。……焼いた橋は十日で戻る。さて、次は何を焼く」
それから兄は、もう一枚の帳票を、苦い顔で弟に見せた。再架橋の資材の仕入れ元を、商会の情報網が辿った結果である。
「材木の半分は、うちの系列が売った」
「……は?」
「帝国領内の、名前の違ううちの会社が、だ。断れば怪しまれる。怪しまれれば、看板が死ぬ。看板が死ねば——あちら側に出入りできる馬車が、一台もなくなる」
レオンハルトはモノクルを掛け直した。
「潜り込むための看板は、商いを続けてこそ守れる。歯を食いしばって、儲けるさ。……この帳簿の貸しは、いつか別の形で取り立てる」
そして、架け直された中央橋を最初に渡ってきたのは——牛十頭に曳かれた、攻城砲だった。
◇
同じ頃。帝国軍本陣。
ダルナン少佐は、橋梁焼失の最終報告書を総司令官の卓に置いた。損害、舟橋三橋。人員の死者、ゼロ。敵の死者も、ゼロ。
「見事なものです。腹が立つほど」
「そうだな」
ジャン=リシュアンは、報告書を読み返しもしなかった。数字は初報から変わっていない。変わらない数字は、それ自体が敵の練度の証明である。
「殺さずに焼いた。……分かるか、ダルナン。あれは『我々はまだ、殺し合いを始めていない』という書状だ。橋の形をしたな」
「返書は、いかがなさいます」
「出さんよ。……出せる立場なら、とうに出している」
なお、同じ報告を受けたジュール中将は「臆病者どもの放火ごとき」と鼻で笑い、帝都への私信に「敵は白兵を恐れて夜盗の真似事に走った」と書き添えたという。事実と正反対の報告ほど、読みたい者の手元へは速く届くものである。
元帥は、南の窓を見た。モルゲンロートの方角。そのさらに向こうの、海のある北ではなく、艦隊の来ない帝都の方角を。
「これで帝都も、艦隊を急ぐ気になってくれれば良いが」
その声に、期待の色は一滴もなかった。




