第14話「最初の砲弾」
環が閉じた日のことを、テオドールはよく覚えている。
その朝、西の丘の沢筋——初陣の夜、百五十騎が忍び出たあの道に、杭が打たれた。
報告に来たイルザは、いつも通りの平坦な声だった。
「西の未完成区間、本日で閉塞。……私たちの出た道も、含めて」
地図の上で、杭の線が輪になった。陸のすべてが、線の向こう側になった。
誰も大袈裟なことは言わなかった。ただその日から、市の中で「外」という言葉の意味が変わった。外とは、海のことになったのである。
◇
壁の上からは、敵の砲列が育っていくのが見えた。
ブレモン大佐——名前はまだ知らぬまま、兵たちが「几帳面の旦那」と呼び始めた敵の砲兵指揮官は、実に几帳面な仕事をした。土を盛り、柵を組み、砲床を水平に均し、弾薬庫を砲列から几帳面に離して掘る。
サーシャとマリアは、毎日壁の上に通い詰めて、その工事を眺めていた。同業者の目である。その日は、巡回のついでにテオドールも足を止め、二人の後ろに並んだ。
「土盛りの角度からして、狙いは水平射。壁の根元を叩く気だ。——マリア、距離は」
「千二百……いえ、千百五十」
「砲八門。据え方は」
「南西角に四門。扇の要」
サーシャは指で壁を叩いた。三人が立っているのは、まさにその南西角である。
「うちなら、そこを狙う。壁の継ぎ目が一番古い」
「先輩。そこ、俺たちが立ってる場所ですが」
テオドールが口を挟むと、サーシャは振り向きもせずに頷いた。
「だから言ってるんだよ、テオ。ここの裏に、土嚢と控えの壁を積む。今日から」
敵の砲が狙いを教えてくれるうちに、こちらは備えを終える。攻囲戦とは、開戦前から始まっている宿題の出し合いなのだった。
二人の議論は、それから虎の子の話に移った。試作の融合砲、二門。精霊銀を触媒に据えた、まだ名もない新兵器である。
「南西角に置けば、初日から使える」とマリア。
「駄目だ」とサーシャ。「うちの虎の子は、初弾を見せる場所を選ぶ。一度見せたら、次の日から敵は対策を始める。……新兵器ってのは、二発目から普通の兵器になるんだよ。初弾は、一番高く売れる日まで取っておく」
少し離れた胸壁では、フリッツが自分の台帳を開いていた。猟兵班の観測記録である。
「几帳面の旦那の下に、もっと几帳面なのが一人いる。観測士官だ。三日連続、同じ岩の上で、同じ姿勢で計測してる」
「癖か」
「癖だ。……覚えた」
フリッツは台帳を閉じた。狙撃手が「覚えた」と言うとき、それは帳簿に名前が載ったのと同じ意味である。誰の帳簿に載ったのか、岩の上の男はまだ知らない。
◇
港からは、最後の疎開船が出た。
環が閉じても海は開いている。だが「いつでも出られる」と「今出るべきだ」の間には、川ほどの幅がある。市庁舎は最終便を告知し、埠頭には長い列ができた。
列の外に、マルタがいた。
乗る側ではない。見送る側として、子供を抱いた母親に握り飯の包みを持たせている。
「あんたは乗らないのか」
テオドールが訊くと、マルタは少しだけ考えて、首を振った。
「救護院、手が要ります。……それに」
それに、の続きを、彼女はゆっくり探した。
「焼かれた村は、帳簿にも載らない。……なら、覚えてる係が、ここにいないと」
あの夜、荷馬車から降りられなかった人が、今は自分の足で埠頭に立って、他人を船に乗せている。テオドールは何も言わず、ただ帽子の縁に手をやった。敬礼というものは、本来こういう時のためにある。
埠頭の反対の端では、ヨルク翁が、麻織物工房の職人の家族たちを船に乗せていた。老人自身の荷物は、ない。
「翁は、残られるのですか」
「当たり前じゃ」
宥和派の長老は、フンと鼻を鳴らした。
「反対した者が最初に逃げてみい。反対の値打ちまで下がるわ」
夜になると、街は自分の手で灯りを絞った。
灯火管制である。精霊灯は三本に一本だけ、光量を落として灯される。祭りの夜、灯りの海だったこの街が、砲兵の照準から自分を隠すために、自分の光を消していく。
例外は、二箇所だけ設けられた。救護院と、産屋である。灯りの要る場所に、灯りの要る順に——配分表を作ったのは、大学図書館の司書だった。
暗くなった通りで、しかし人々は存外に明るかった。パン屋の店先には例の「朝メシ前」の板がまだ掲げてあり、女将は薄闇の中で怒鳴っていた。
「暗くたってパンは焼ける! 匂いで並びな!」
◇
その夜、ファルケンホーフの食卓に、久しぶりに全員が揃った。
ヴィルヘルム、レオンハルト、テオドール、アルモナ。マルクが珈琲を淹れ、セリナが給仕に立つ。焼き討ちの朝から数えて、初めての、全員の食卓だった。
誰も、明日の話をしなかった。
レオンハルトは倉庫の在庫の話をし、マルクは豆の煎り方の話をした。
「籠城の一番の味方は、習慣ですよ」
と、元皇帝は誰にともなく言って、全員の杯に同じ濃さの珈琲を注いだ。
「毎朝、同じ味がする。……それが人間には、どれほど強いことか」
ヴィルヘルムは、新聞のクリーク欄に文句を言った。クリーク——大陸中の新聞に詰め筋欄が載っている、盤上の戦遊戯である。もっともこの街の市民版では、最強の駒は女王でも元帥でもなく、「隊商」と決まっている。
「この詰め筋は悪手じゃ。隊商を切らんでどうする」
「父上。それ、三日前の新聞です」
「知っとる。三日前の悪手に文句を言うくらいしか、平和が残っとらんのでな」
アルモナは救護院の子供が覚えた悪い言葉の話をして、テオドールは笑った。
いちばん普通の日を、いちばん深いところに置いておくの——祭りの夜の義姉の言葉を、テオドールは思い出していた。この食卓は、そういう夜のための蓄えである。
食後、バルコニーに出ると、アルモナが後から来た。
眼下の街は、暗かった。灯りの海は、三分の一の、細い灯りの川になっている。
「……あの夜は、海だったのにな」
「また灯すわ」
アルモナは、暗い街を見たまま言った。
「全部。一本残らず。……それまで、精霊灯の芯は取ってあるの。救護院の子たちと、数えて、油紙に包んで」
消すのではなく、仕舞う。この義姉の手にかかると、灯火管制すら約束の形になる。
「テオ」
「なんだ」
「明日から始まるのね」
問いではなかった。テオドールは、正直に答えた。
「ああ。……長くなる」
「なら、長い分だけ」
アルモナは、初めてこちらを向いた。暗がりの中で、紫の瞳だけが仄かに光った。
「生きて、積み上げて。一日ずつでいいから」
◇
翌朝は、嫌になるほどの快晴だった。
テオドールが南西角の壁上に立ったとき、敵の砲列に、初めて人の列が付いた。装薬手、弾込め手、照準手。几帳面の旦那の砲兵たちが、几帳面に持ち場に着いていく。
壁の上の民兵たちが、ざわりと揺れた。
持ち場に走ってきたフリードが、旗袋を抱えたまま、テオドールに訊いた。
「旗は、揚げますか」
「今日は仕舞え」
テオドールは、敵の砲列から目を離さずに答えた。
「旗には、盾になる日と、的になる日がある。……今日は後の方だ」
「慌てるな」
クルーガー大佐の声が、壁の上を渡った。連隊長章を付けても、声は曹長のときのままである。
「最初の一発は挨拶じゃ。当てる気で撃ちゃせん。……壁の陰で、耳だけ塞いどけ」
遠くで、砲列に小さな白煙が生まれた。
音は、二拍遅れて来た。
腹に響く、低い発射音。それから、風を裂く笛のような唸り。
着弾は、南西角の壁面だった。
石と石の継ぎ目で鈍い衝撃が弾け、白い粉塵がぱっと散った。壁は——揺るがなかった。二十年間、破られたことのない白亜の壁は、その白い面に、拳ほどの黒い傷をひとつ付けられただけだった。
だが、音は街中に届いた。
石が受けた低い衝撃音は、地面を伝い、家々の床を伝い、竈の鍋を微かに鳴らした。二十年ぶりに、壁が音を立てたのである。
壁の上で、誰も声を出さなかった。
ヴィルヘルムが、いつの間にか隣に立っていた。総帥は黒い傷を一瞥し、それから敵の砲列を眺めて、静かに言った。
「——始まったな」
「はい」
「よく見ておけ、テオドール。ああして、最初の一発はいつも小さい。……小さいまま終わらせるのが、わしらの仕事だ」
二発目の白煙が、砲列に生まれた。
後の史書が「第二次アードラズベルク攻防戦」と呼ぶ百五十三日は、この朝の、拳ひとつ分の黒い傷から始まった。




