第15話「砲撃」
砲撃開始から、六日が経った。
帝国軍南東翼、モルゲンロート城塞旅団の幕営には、その夜、妙に篝火が多かった。
幕舎の中には、将校が二十人ばかり詰め込まれていた。城塞旅団の士官たち。それに、第七軍団や第九軍団からわざわざ足を運んできた、中隊長級の男たち。共通点はただ一つ——出世の系図のどこかが、レオニエ家に繋がっていることである。
上座で、ジュール・ド・レオニエ中将が杯を掲げていた。
「諸君。我らはこの六日間、何をしてきた」
誰も答えない。答えは求められていないからである。
「土を掘った。杭を数えた。砲兵どもが壁に泥団子をぶつけるのを、口を開けて眺めていた。……諸君、これが戦争か? これが、栄光ある帝国軍の戦争か?」
杯が、卓に叩きつけられた。
「元帥閣下は仰る。『待て』と。封鎖して、痩せさせて、艦隊を待てと。——待つなど、帝国軍人のすることではないわ!」
若い将校たちの目に、火が入った。酒の火か、野心の火か、恐怖の火か。おそらく、全部である。
「商人の壁だぞ、諸君。金勘定しか知らぬ小僧どもが、寄せ集めの民兵と守る壁だ。梯子を三百架ければ、夜明けには市庁舎で朝食が食える。……手柄は、待った者ではなく、登った者のものだ」
一人だけ、遠慮がちに手を挙げた者がいた。
「恐れながら閣下。総司令部の許可は……」
「許可?」
ジュールは、心外そうに眉を上げた。
「これは攻撃ではない。夜間の威力偵察だ。敵の防備を偵察し、あわよくば足場を確保する。命令書にもそう書く。……偵察を禁じる総司令官が、どこの世界にいる?」
幕舎に、下卑た笑いが満ちた。
言葉の上では、何も起きていない。かつて誰かがそう言った建前の兵法を、帝国の中将は、身内向けに使うのだった。この男の唯一の学習能力は、悪知恵の方角にしか働かない。
なお、先ほど許可の件を尋ねた将校の杯にだけ、以後、酒が注がれることはなかった。
散会間際、ジュールは一人、天幕の隙間から南の海の方角を見た。
艦隊が来れば、この街は海から落ちる。手柄は海軍のものになり、差配した父のものになる。父上は、海を選んだ。私ではなく。
「……ならば、着く前に獲るまでよ」
誰にも聞かせない独り言だけが、この男の本音である。壁への強襲は、敵への攻撃であると同時に、父への当てつけなのだった。もっとも本人は、そういう自己分析とは無縁の人生を送ってきたが。
◇
同じ夜半。帝国軍本陣では、ダルナン少佐が地図から顔を上げた。
「閣下。南東翼の篝火が、平時の倍あります。城塞旅団の陣で、酒保の樽が二十空いたと」
ジャン=リシュアンは、書きかけの書類からしばらく目を離さなかった。それから、静かにペンを置いた。
「……嫌な予感ほど、よく当たるのだったな」
「伝令を出しますか」
「出せ。『いかなる部隊も、本職の命令なくして攻囲線より前へ出ることを禁ず』——大至急だ」
ダルナンは復唱し、それから、遠慮がちに付け加えた。
「……閣下が直接、南東翼へ乗り込まれては」
「乗り込んで、どうする。宰相の息子を、部下たちの見ている前で縛り上げるか」
ジャン=リシュアンは、初めて疲れた声を出した。
「そうすれば軍は明日から二つに割れる。攻囲の最中に、だ。……分かるか、少佐。あの男の最大の武器は、剣でも兵でもない。罰せられないという事実だ」
伝令は、駆けた。
だが夜の攻囲陣地は二里半ある。伝令が南東翼に着いたとき、そこにはもう、空の幕舎と空の樽しか残っていなかった。
◇
テオドールは、南東角の壁上で夜直に立っていた。
夜半の壁の上は、静かなものである。民兵の夜番が二人、狭間の陰で交代の刻限を数え、遠くの敵陣の篝火が、いつもと同じ数だけ瞬いている——はずだった。
女将の差し入れの夜食を齧りかけた、その時。
産毛が、立った。
うなじから背筋へ、ざわりと逆立つ。あの朝の対峙でも、舟橋の夜でも眠っていた感覚が、初めて、明確に警鐘を打った。
殺気。それも、大量の。こちらへ、真っ直ぐに。
「——総員、起こせ」
テオドールは夜食を置いた。
「敵襲。東北面。……多分、梯子だ」
「て、偵察には何も——」
「いいから鐘を鳴らせ!」
鐘が鳴った。三打、続けて三打。夜襲の符牒である。
壁の下の闇が、動いた。
目を凝らせば、見える。星明かりの下、黒々とした人の帯が、壕を越え、斜面を這い上がってくる。担がれた梯子の列が、まるで巨大な百足の脚のように上下していた。その数、優に千五百。
偵察の規模ではない。強襲である。
◇
東北面の壁は、カイの第二連隊の受け持ちだった。
鐘の三打で、壁の内側の兵舎から兵が湧き出す。狭間に銃身が並び、火吹き壺と落とし石が持ち場に付く。練度で言えば、まだ生煮えの連隊である。だが配置の速さだけは、カイが連日、嫌というほど叩き込んでいた。
最初の梯子が、壁に掛かった。
「——放て」
夜の壁が、火を噴いた。
隣接する北面では、クルーガー大佐の第一連隊が側面の斜め撃ちに付いた。連隊長の声は、砲声の合間を縫って、若い兵の耳に届く高さを正確に知っている。
「慌てるな。装填。構え。……それでいい。焦った弾は、敵より先に味方の勇気に当たるでな」
壁の内側の通路を、フリードが走っていた。旗手見習いは今夜、旗ではなく伝令袋を抱えて、鐘楼と各連隊の間を何往復もしている。走るたび、伝言は正確になっていった。戦場が人を育てる速度は、平時の教練の十倍である。授業料が高いのが、難点だが。
G783の一斉射が梯子の根元を薙ぎ、火吹き壺が斜面に炎の筋を引く。それでも梯子は増える。二本、六本、十本。戦争とは物量である、と帝国の教範は教えている。教範のその頁だけは、ジュールも読んでいたらしい。
やがて、東北角の一点で、壁の上に敵の頭が出た。
一人。三人。狭間の間から、着剣銃がなだれ込む。夜襲の常で、一点の綻びは面の崩壊に繋がる——
その綻びに、黒が来た。
黒塗りの胸甲。下馬した百二十。松明の逆光の中、それは兵というより、壁が生やした影の列に見えた。
黒甲騎兵中隊——市民の呼び名で、黒騎兵。
先頭のカイが、双斧を一度だけ打ち鳴らした。号令は、それだけだった。
影の列が、狭間の敵に叩きつけられた。狭い壁上、銃列の組めない場所、双斧と短銃と胸甲の押し込み。敵が壁に乗った時、最初に当たる——その一点のためだけに編まれた部隊の、それが初仕事だった。
テオドールが支隊の増援を率いて駆けつけた時には、壁上の敵は、もう影の列の向こうで崩れていた。
◇
綻びは、もう一箇所あった。
南寄りの狭間で、梯子二本分の敵が足場を作りかけていた。そこへ真っ先に飛び込んだのは、支隊の突撃班——先頭は、言うまでもない。
アデル・ヴァイスである。
「応ッ!」
誰の何の呼びかけに応えたのか、本人にも分かっていなかったろう。ただこの男は、生まれてこの方、先頭を呼ばれて断ったことがない。槍が唸り、狭間の敵が二人、壁の外へ消えた。三人目を突き伏せ、四人目の銃剣を叩き折り——そこでアデルは、笑ったという。
後で班の若いのが、口々にそう証言した。壁の上で、一番槍が笑っていた。だから自分たちは怖くなかったのだと。
五人目は、見えなかった。
崩れた敵兵の陰、壁の縁にしがみついたままの一人が、至近から撃った一発だった。
アデルは、二歩だけ下がった。それから、自分の胸を不思議そうに見下ろし、槍を杖にして——立ったまま、動かなくなった。
突撃班が咆哮し、残る敵を壁から掃き落としたのは、その直後である。
◇
夜が明けた。
斜面には、折れた梯子が十九本と、動かない者たちが残されていた。帝国側の損害、およそ八百。壁は、破られていない。
狭間の陰で、アデル・ヴァイスは、まだ槍に寄りかかって立っていた。眠っているようにしか見えなかった。支隊の誰も、しばらくの間、彼を横たえることができなかった。
最後に横たえたのは、テオドールだった。
槍を指から外し、胸甲の留め具を緩め、壁の内側の陰に運ぶ。支隊長の仕事の中にこれが含まれていることを、誰も事前に教えてはくれなかった。教わっていても、たぶん、役には立たなかった。
朝の定例報告は、行われた。
支隊の朝は、副官が各小隊と各班の報告を受けることで始まる。ライネルの職務である。彼は今朝、その職務を一秒も遅らせなかった。
「第一小隊、総員異常なし」
「偵察小隊、総員異常なし」
「工兵班、火傷一名。任務に支障なし」
報告は、続いていく。そして、突撃班の番が来た。
進み出たのは、班長ではなかった。まだ若い、潮灼けした顔の副長である。ヴィクトール・ラルディエン——商会海洋部門から借り出されてきた男だった。士官が足りないこの軍で、海兵の訓練を受けた者を陸で遊ばせておく余裕はなく、彼はこの数ヶ月、海の男のまま壁の上で戦っている。
ヴィクトールは、直立して報告した。
「突撃班。——班長アデル・ヴァイス、狭間の防衛において戦死。ほか、総員異常なし」
声は、最後まで揺れなかった。揺らさないことが、死んだ班長への礼儀だと決めているような声だった。
ライネルは全ての報告を受け終えると、名簿に短く書き込み、それから隊列に向き直って、一つだけ名を読み上げた。
「本日未明の戦闘における戦死者。——アデル・ヴァイス、突撃班長」
誰も答えない名を、あえて一度だけ、全員の前で呼ぶ。
「名は、呼ばれるうちが花——クルーガーの爺さんの受け売りだがな。……呼び終いを、うやむやにはしない。それだけだ」
風だけが、壁の上を渡った。
これがこの支隊の、呼び終いの作法になった。以後、百五十三日の間に、この作法は五度、繰り返されることになる。




