第16話「二通の手紙」
夜襲の翌朝、ジャン=リシュアンは馬で強襲の跡地を検分した。
止める者はいなかった。総司令官が最前線の斜面を単騎同然で歩くのは推奨されることではないが、この元帥にそれを言っても無駄であることを、幕僚は全員学習済みである。
斜面には、折れた梯子が十九本、転がっていた。
その間に、回収を待つ者たちが横たわっている。衛生兵が担架を往復させ、従軍司祭が順番に膝をついていく。損害、およそ八百。得たもの、なし。
壁を見上げる。白亜の面には、砲六日分の黒い痘痕が散っているだけで、亀裂の一本も走っていない。狭間の陰に、黒塗りの胸甲がちらりと光った。夜のうちに壁上へ増強された、例の逆襲部隊である。
敵の防御は、教範より上等だ。ジャン=リシュアンは、それを認める側の軍人だった。認めない側の軍人が、昨夜、八百人をこの斜面に置き去りにしたのである。
「……閣下」
衛生兵が、遠慮がちに呼んだ。担架の上の若い兵が、元帥の軍服を目で追っていたからである。
ジャン=リシュアンは馬を降り、膝をついた。
若い兵だった。十八か、十九か。胸の包帯は、もう役目を果たしていない。宰相派の中隊長に「手柄の先駆け」と煽られて、最初の梯子に取り付いた組だろう。
「か、かっか……壁は……登れましたか……」
ジャン=リシュアンは、一拍だけ黙った。
それから、静かに嘘をついた。
「ああ。お前の隊は、壁に取り付いた。……見事な登りだった」
若い兵は、笑ったように見えた。それきりだった。
元帥は立ち上がり、馬に戻った。ダルナン少佐だけが、その横顔を見ていた。この人は今、自分の軍歴で一番重いものを背負ったな、と副官は思ったが、口には出さなかった。
斜面の下で、書記たちが戦死者の名を帳面に書き取っていた。帝国もまた、名を書くのである。ただし、数字の後に。
砲列の脇を通ると、ブレモン大佐が待ち構えていた。几帳面の旦那は、几帳面に激怒していた。
「閣下。六週間の準備射撃計画が、一晩でゴミであります」
「聞こう」
「昨夜の茶番で、敵は夜間警戒を倍にします。壁上の増強も済んだ。狙っていた南西角の継ぎ目には、今朝から土嚢が積まれ始めた。……こちらの狙いを、進呈したのですぞ。八百の命を添えて」
砲術家は、敵を憎んでいるのではなかった。仕事を壊されたことを憎んでいるのである。この軍で一番まともな怒り方かもしれなかった。
◇
昼、総司令部の幕舎に、ジュール・ド・レオニエ中将が出頭した。
悪びれる、という機能は、この男には搭載されていない。
「夜間の威力偵察であります。命令書の通り、敵の防備を偵察いたしました。敵の逆襲部隊の存在を確認できたのは、大きな収穫かと」
「八百名で、な」
「戦争でありますれば」
ジャン=リシュアンは、卓上の命令書の写しを見た。確かに「威力偵察」と書いてある。梯子三百と突撃隊千五百の偵察である。言葉というものは、ここまで働かされると、いっそ気の毒になる。
「本職は昨夜、攻囲線より前への進出を禁じる命令を発した」
「拝受は本日未明であります。作戦発起の後でありました」
これも、事実ではあった。事実だけを並べて嘘の形を作る技術において、この中将は帝国でも指折りである。剣の腕がこの半分でもあれば、昨夜の八百人は死なずに済んだであろう。
「ときに閣下」ジュールは、あろうことか身を乗り出した。「今一度、兵をお貸しいただければ、今夜こそ——」
「断る」
間、というものが一切なかった。
ジャン=リシュアンは、長い沈黙のあと、静かに言った。
「中将殿の勇猛、しかと拝見した。……その勇猛は、今後、我が軍の生命線の守護にこそ捧げていただきたい」
「……は?」
「城塞旅団および昨夜の参加諸隊は、本日付で輜重護衛の任に就く。ヴェルダ川からの補給線全域である。名誉ある任務だ。——壁が怖くない者には、荷車を守ってもらおう」
ジュールの顔が、白から赤へ、順序よく変色した。だが、反論の言葉は出てこなかった。総司令官の作戦指揮権の範囲内であり、しかも文面上は、どこまでも丁重だからである。
建前で斬りかかってきた男を、建前で斬り返す。それがこの若き元帥の、唯一許された処罰だった。
去り際、ジュールは一度だけ振り返った。
「……父上に、書かせていただきます」
「どうぞ。駅逓は速い」
ジュールが幕舎を出て行ったあと、ジャン=リシュアンは、しばらく天幕の天井を見ていた。
「……幼年学校で、中将殿は何を学ばれたのだろうな、ダルナン」
「恐れながら、閣下と同じ教範かと」
「なら、教範が泣いておるよ」
ダルナンは、卓に新しい茶を置いた。
「これで、収まりますか」
「収まらん」
元帥は即答した。
「あの男は今夜、父に手紙を書く。父はそれを政治に使う。……そして私には、駅逓の馬を止める権限すらない」
◇
その夜、二通の手紙が書かれた。
一通は、総司令部の公式報告である。ジャン=リシュアンは、事実だけを書いた。無許可の攻撃。損害八百。得られた戦果、なし。当該指揮官の軍規違反について処罰を上申する——握りつぶされると知りながら、上申した。書かねば、軍規の側が死ぬからである。
処罰上申の一文を、彼は一度だけ、線で消した。
消してから、蝋燭の火を見て、しばらく動かなかった。それから線の下に、同じ文を、もう一度書いた。
ダルナンは給仕を装って幕舎の隅にいたが、その消して書き直すまでの数十秒が、この戦役で自分が目撃した中で一番長い戦闘だったと、後年まで思うことになる。
もう一通は、輜重護衛の宿営で書かれた私信である。ジュールは、感情だけを書いた。曰く、我が突撃隊は壁上に足場を確保寸前であった。曰く、あと一歩であった。曰く、増援と艦隊さえあれば、壁は落ちていた。曰く、元帥は嫉妬により我が功を認めず——
二通の手紙は、翌朝、同じ街道を、同じ駅逓で北へ上った。
届いた先で、どちらが信じられたか。
それは後日、帝都から届く勅命が証明することになる。
◇
帝都。
二通の手紙は、別々の建物に届いた。指揮系統を上った公式報告は総帥府へ。指揮系統の外を這った私信は、宰相府へ。
総帥府の執務室で、ゴーティエ・ド・セルヴィルは報告書を読み終えた。
帝国軍総帥。皇帝より、軍事に関する予算の編成から行動計画の裁可まで、その一切の全権を委ねられた、軍の最高責任者である。石に軍服を着せたような男で、笑った顔を見た者は帝都に三人といない。
「……ドゥラクロワの処置は、正しい」
総帥は、処罰上申の頁に「裁可」と書いた。続けて、同じ卓に届いていたもう一通——海軍大将ラ=マリニエールの抗弁書を開く。
——急造の艦隊による長距離回航は、自殺と同義である。錬度なき三十隻は、三十の的にすぎない。出すのであれば、私の名を外していただきたい。
総帥は、その余白に「同意」と書いた。
軍のことは、軍の頭で決まる。制度の上では、そのはずだった。
一方、宰相府では、オーギュスト・ド・レオニエが息子の私信を読んでいた。
読み終えて、満足げに頷いた。信じたのではない。都合が良かったのである。壁は弱っている。あと一歩である。ならば、艦隊の艤装が遅れている件の言い訳が立つ。海が間に合わずとも、陸で「あと一歩」なのだから、宰相の戦略は誤っていない——議会にはそう説明できる。
宰相は書記を呼び、二つの文書を口述した。一つ、レオニエ中将の積極果敢を嘉する「御内意」を旅団へ。一つ、南方方面軍総司令官の損害続発に「深憂」を伝える訓令を。
いずれも、軍事文書である。いずれも、総帥府の専管である。
だが文面の頭には、こう冠されていた——「畏くも皇帝陛下の御心を体し」。
◇
その日の夕刻、総帥は宰相府に乗り込んだ。随行は、陸軍元帥ジャン=バスティアン・ド・ドゥラクロワ一人である。
「宰相。軍規違反者への嘉賞。処罰上申者への叱責。……軍令への容喙である。撤回されよ」
「容喙とは、異なことを」
オーギュストは、筆も置かなかった。
「あれは政治文書ですよ、総帥。前線の士気に関わる政治的配慮——陛下の御心を体したまでのこと」
「艦隊の件もだ。編成も、人事も、派遣も、軍事である限り総帥府の専管。なぜ宰相府が商船を徴用し、提督を人選しておるのか」
「勅命です」
短い答えだった。この男の答えは、いつも短い。短い言葉ほど、隠せるものが大きいからである。
「陛下は艦隊による南方平定を望んでおられる。私はその御意志を、事務として整えているにすぎません」
「——陛下の御名は、貴殿の印章ではないぞ、宰相」
部屋の空気が、一段冷えた。
オーギュストは初めて筆を置き、ゆっくりと顔を上げた。
「異存がおありなら、陛下に直接ご確認なさるがよろしい。……御体調の、許す日に」
それが、この機構の急所だった。軍の頭と政の頭が争うとき、裁くべき玉座は病んで沈黙している。そして病室へ通じる扉の順番を差配しているのは、実質、宰相府なのである。
総帥は、それ以上何も言わずに踵を返した。
退出の廊下で、ジャン=バスティアンだけが一度足を止め、世間話の声で言った。
「宰相閣下。息子の手紙と、元帥の公式報告書であれば——私なら、署名と官印のある方を信じますな」
「元帥殿は、ご子息が可愛いと見える」
「ええ、可愛い。……可愛いからこそ、あれの報告の癖を知っております。あれは、自分に不利なことから先に書く男です」
老元帥は一礼して、総帥の背中を追った。宰相は、返事をしなかった。返せる言葉の持ち合わせが、なかったのである。
帝国という機構には、頭が二つある。軍の頭と、政の頭である。
裁くべき玉座がその間で沈黙している限り——歯車は今日も、間違った方向へ、滑らかに回り続けるのだった。
◇
同じ日の夕刻。
アードラズベルクの空に、鐘が鳴った。
攻撃を報せる乱打ではない。ゆっくりと、間を置いて撞かれる、低い弔鐘である。
北門の内側の広場に、支隊が整列していた。中央には棺がひとつ。蓋の上には、持ち主を失った槍と、弾痕のある胸甲が載せられている。白い前掛けの救護院の列が、市民の人垣が、旗を捧げるフリードが、それを囲んでいた。
テオドールは、棺の前に立った。
支隊長として、何かを言わねばならなかった。
口を、開いた。
——言葉が、出てこなかった。




