第17話「応」
言葉が、出てこなかった。
広場は、人で埋まっていた。整列した支隊。第一連隊の先頭には、クルーガー大佐——呼び終いの作法の、元の持ち主である。人垣には、帽子を胸に当てたヨルク翁がいた。フリードの祖父がいた。パン屋の女将もいた。店の戸に、開店以来初めてだという「本日休業」の板を掛けて。
弔辞は、総帥ではなくテオドールが読むことになっていた。ヴィルヘルムがそう決めたのである。曰く、「支隊の者は、支隊の長が送れ。それが軍というものだ」。
フリードの捧げる軍旗は、竿を斜めに倒されていた。弔意の旗礼である。銀の鷹と常緑の小枝が、いつもより低い位置で、風を受けていた。
テオドールの手の中には、昨夜のうちに用意した弔辞があった。支隊長として恥ずかしくないよう、レオンハルトに文面まで見てもらった、立派な弔辞である。名誉、犠牲、自由。立派な言葉が、立派な順番で並んでいる。
その紙が、どうしても開けなかった。
棺の上の胸甲には、弾痕が一つある。あの穴を抜けたものの前で、立派な言葉は、全部嘘になる気がした。
人垣の中に、救護院の白い前掛けの一団が見えた。その端に、アルモナがいた。
紫の瞳と、ほんの一瞬だけ、目が合った。
……不思議なもので、それで、声が出た。
テオドールは、弔辞を畳んで、胸に仕舞った。
そして、素の声で言った。
「……アデルは、呼ばれて断ったことのない男でした」
広場が、静かになった。
「点呼で名を呼べば、誰より大きな声で応えました。旗授与式の宣誓では、百五十人の唱和の中で、あいつの声だけ聞き分けられました。突撃の先頭に呼べば、笑って応えました。俺は昨夜——彼の名を呼んで、初めて、返事をもらえませんでした」
声が、一度だけ揺れた。揺れたまま、続けた。
「だから——もう、呼びません」
息を、吸った。
「呼べば、あいつのことです。土の下からでも、応えようとする。……そういう男を、これ以上働かせるわけにはいかない。ゆっくり、休ませてやりたい」
テオドールは、棺に向き直った。姿勢を正し、支隊長としてではなく、ただの朋輩として、最後の言葉を置いた。
「——アデル・ヴァイス。朋よ、安らかに眠れ」
百五十人が、一斉に脱帽した。
布と革の擦れる音がひとつ鳴って、あとは、風だけになった。
誰も、何も応えなかった。応えないことが、今日だけは、正しい返事だった。
その静けさは、壁の上まで届いたという。北面の当直に立っていた民兵たちが、広場の方角へ向き直り、誰に命じられるでもなく、帽子を取った。届いたのは、音ではない。静けさが、届いたのである。
棺が下ろされ、土がかけられた。
墓標の脇に、最後の仕上げが待っていた。
マルタが進み出て、根鉢に包んだ若木を、掘っておいた穴にそっと据えたのである。焼かれた村の礼式だった。灰の中からでも、芽を出す側のものを、死者の隣に植える。
彼女の村から、この街へ。礼式は、そうやって受け継がれた。教えたのは誰でもない。マルタが、自分で決めて、ハンネス爺に苗を分けてもらったのだという。
テオドールは、盛られた土と細い若木を、長いこと見ていた。
◇
葬送の後には、実務が来る。悲しみに浸る暇を与えないために、軍隊の実務はよくできている。
突撃班の指揮は、正式にヴィクトールが継いだ。潮灼けした顔の新班長は、遺品の整理でテオドールと並んだ。
アデルの荷物は、驚くほど軽かった。
替えの肌着。砥石。手入れ道具。家族への手紙は、ない。書く相手が、いなかったのである。私物と呼べるものは、志願書の写しが一枚きり。特技の欄の「一番槍」の四文字が、几帳面とは言い難い字で書かれていた。
「自分は」
と、遺品を包み終えたヴィクトールが、ふいに言った。
「昨夜、壁の上で怖くなかった側の、一人です。班長の『応』が聞こえている間は、みんなそうでした」
「……そうか」
「引き継ぐのは班で、真似るのは声だと思っています。あの声だけは、真似のしようがありませんが」
「なら」
テオドールは、新しい班長の肩に手を置いた。
「次は、お前が誰かの、その声になれ」
「班長は」
と、遺品を包みながら、班の若い兵が言った。誰に言うともなく、言った。
「『戦が終わったら』の話になると、いつも同じ答えだったんです。……『決めてない。生きてから決める』って。毎回、それだけ」
テオドールは、手を止めた。
決めてない。生きてから決める。
あの恒例の問いに、自分は「追って報告する」としか答えたことのない男だ。アデルの答えは、それよりずっと、まっすぐだった。生きてから決める——その「生きてから」が、来なかっただけで。
◇
その夜、悲しみは、それぞれの持ち場で処理されていた。
工房からは、夜通し、鑢の音が聞こえた。サーシャは悲しみを、手で削る人である。誰も止めに行かなかった。止めない、というのが正しい作法だと、隊の全員がなんとなく理解していた。
厩では、ライネルが一人、アデルの馬の手入れをしていた。長い、長いブラッシングだった。ハンネス爺は何も訊かず、隣の馬房で自分の仕事をし、帰り際に一言だけ、「いい毛並みじゃ」と言った。
◇
夜、テオドールは自室の机に、一冊の帳面を開いた。
商会の使い古しの、何の変哲もない小さな帳簿である。今日、倉庫から一冊だけ貰ってきた。
商人は、忘れないために書く。忘れてもいいように書くのではない——子供の頃、帳簿の付け方と一緒に、父に教わった言葉である。今夜まで、その意味を本当には分かっていなかった。
最初の頁に、日付を書いた。それから、線を引いて二つの欄を作った。左に、借方。右に、貸方。商人の家の息子が習う、世界で一番古い帳面の形式である。
借方の欄に、書いた。
——アデル・ヴァイス。一名。
貸方の欄は、書けなかった。
彼の命で、この街は何を買ったのか。壁は守られた。だがそれは彼の死の「対価」と呼んでいいのか。まだ、分からない。分からないものを、商人は帳簿に書かない。
テオドールは、貸方を空欄のまま、帳面を閉じた。
この貸方が埋まる日まで——この戦争が、彼らの死に見合う何かを本当に贖う日まで、この帳簿は閉じない。自分だけの、そういう帳簿にすると決めた。
決めたところで、気がついた。
右手が、震えていた。
◇
ペンを置いても、震えは止まらなかった。
昨夜の戦闘の間は、震えなかった手である。葬送の間も、震えなかった。実務が終わり、部屋に一人になり、帳面を閉じた——その順番を全部待ってから、震えは来た。律儀なものだった。
扉が、軽く叩かれた。
返事をする前に、開いた。この家でそういう開け方をするのは、一人しかいない。
アルモナは、湯気の立つ杯を二つ持って、敷居のところに立っていた。蜂蜜湯である。彼女は机の上の閉じた帳面と、テオドールの右手を、順番に見た。
この義姉は、そういうものを見つける名人である。
「……震えてる」
テオドールは、言った。
隠さなかった。膝の下に押し込みもしなかった。机の上に置いたまま、震えるに任せて、ただそう言った。祭りの夜の約束を、覚えていたからである。——また震える日が来る。その時は、隠さないで。
アルモナは頷いて、部屋に入り、杯を置いた。
それから、あの朝の救護院の前と同じように、両手でその右手を包んだ。
何も言わなかった。「大丈夫」とも、「よく頑張った」とも、「アデルは立派だった」とも、言わなかった。慰めの言葉というものが、時に立派な弔辞と同じ種類の嘘になることを、彼女は知っているのだった。
代わりに、ずいぶん経ってから、ぽつりと言った。
「私ね、今日、灯芯の数を数え損ねたの」
それは、彼女なりの告白だった。救護院と産屋に配る灯りの芯を、毎晩数えて油紙に包む人である。その手元が、今日は狂った。数える人が数を落とすというのは、そういうことなのだった。
「あの人ね。救護院に来ると、子供たちに槍を持たせてくれたの。箒だけど。……『一番槍の構え』って言って。子供たち、今日はみんな、箒を担いで葬列を見てた」
「……そうか」
「ええ」
「いい班長だった」
「ええ」
それだけの会話だった。それだけの会話に、四半刻かかった。
ランプの灯りの中で、うつむいた義姉の睫毛が、細い影を落としていた。
テオドールは、ふと、自分がその影の長さを数えていることに気づいた。
数えて、どうするというのか。
昨夜からこちら、数えてきたものなら幾らでもある。梯子の数。死者の数。帳簿の行。——そのどれとも違う数え方を、いま自分の目がしている。それが何なのか、胸の中で確かめようとして、やめた。
今夜は、駄目だ。
今夜確かめれば、それは今日という日の色に染まる。土の色と、弔鐘の色に。それに——確かめたところで、この手の中のものには、届く宛名がない。宛名だけ書いて、言葉がひとつも続かなかった、いつかの白い手紙と同じに。
「……なに?」
視線に気づいたアルモナが、顔を上げた。
「いや」
テオドールは、目を逸らさずに嘘をついた。
「手が、あったかいと思って」
「蜂蜜湯より役に立つでしょう」
彼女は、少しだけ笑った。
テオドールは、名前を付けなかったそれを、畳んだ。
今日、広場で弔辞を畳んだのと、同じ畳み方で。同じ胸の、同じ場所に。いつか開く日が来るのかどうかは、考えないことにした。考えないと決めたものの一覧に、そっと一行——宛名のない一行を、加えただけである。
窓の外、灯火管制の暗い街に、救護院の免除灯だけが一つ、遠く点っている。南の闇のどこかで、敵の夜間砲が一発、間の抜けた音を立てた。戦争は、弔いを待ってはくれない。
包まれた右手の震えは、少しずつ、少しずつ、収まっていった。
震えが収まった後も、彼女の両手は、しばらくそこにあった。
灯りの加減で、伏せた睫毛が長い影を落としていた。テオドールは、それを見るともなく見て——この手を、悲しみの外でも取れたなら、と、考えてしまった。
考えてから、慌てて打ち消した。相手は義姉だ。同じ食卓で育った人だ。こういう夜に、こういうことを考えるのは、間違っている。
……打ち消さねばならなかったという事実が、もう、答えのようなものだったが。
机の上では、二つの蜂蜜湯が、どちらも口を付けられないまま、湯気を立てなくなっていた。それでよかった。あれは飲むために持って来られたものでは、初めから、なかったのである。
やがてアルモナは立ち上がり、杯を盆に戻して、扉口で一度だけ振り返った。
「……ありがとう」
「何がだ」
「隠さないでくれて」
「————」
「おやすみ、テオ」
扉が、静かに閉まった。
右手には、しばらくの間、体温だけが残っていた。それを名残惜しいと思っている自分に、テオドールは気づき——今夜のところは、気づかなかったことにした。
震えは、恥ではなかった。アルモナの言った通り、心がまだ生きている音だった。
そして心は、生きているから——痛むのだった。




