第18話「静かな戦線」
レオンハルト・フォン・ファルケンハインの戦争は、毎朝、為替相場から始まる。
机の上の相場表。グルデン銀貨とヴァルドール金貨の交換比率が、包囲開始以来、じりじりとグルデン高に振れている。素人は首を傾げる数字である。包囲されている街の通貨が、包囲している帝国の通貨より、強くなっていくのだ。
種を明かせば単純だった。海が開いている限り、この街の商いは生きている。一方で帝国は、南方で軍票を刷り散らかしている。紙を刷れば紙は薄くなる。金貨とて、信用が刷り減れば薄くなるのである。
相場の隣には、保険の料率表。商会系列の海上保険——アードラズベルク発、北の湾岸行きの船便に掛かる戦時割増が、この十日、動いていない。
「保険料率は、砲声より正直だ」
誰にともなく、レオンハルトは呟いた。砲は毎日鳴っている。だが保険屋は、この海に危険が増えていないことを知っている。帝国の軍艦は、いまだ一隻も現れないのだから。
三枚目は、市中のパンの価格表である。公定価格、開戦前の一割五分増しで凍結。守られている理由は市庁舎の告示ではない。女将たちの相互監視が、どこの警察より優秀だからである。値を吊り上げたパン屋がどうなるかは、開戦の週に一軒が身をもって実演済みだった。今も店はやっている。ただし女将たちの査察付きで。
壁の外の戦争は、弟の領分である。
この部屋の戦争が、兄の領分だった。
◇
午前の報告は、クラリッサが持ってくる。
情報部門の報告書に、人名は載らない。網の資産はすべて、商品名で呼ばれる。属州の雑貨商は「蝋燭」。駅逓の書記は「封蝋」。モルゲンロート城下の酒保商人は「胡椒」。
「『蝋燭』から。第九軍団の調達官が、また癇癪を起こしたそうよ。軍票で麦を買おうとして、三軒続けて断られた」
「断り方は」
「教えた通り。『受け取りますとも。ただ釣り銭が金貨でご用意できません、兌換は帝都の中央銀行で』——満面の笑顔で、ね」
レオンハルトは、頷いた。
軍票を拒否してはならない。拒否は反逆であり、縛り首の理由になる。だから拒否はしない。ただ、釣り銭が「ない」。兌換窓口が「遠い」。荷が「あいにく品薄」。すべて合法で、すべて笑顔で、すべて帝国の調達を一日ずつ遅らせる。
塵も積もれば、である。二万の軍隊は毎日、山のように食う。その飯が毎日半日ずつ遅れるとき、軍隊の機嫌がどうなっていくか——それを知りたくて、レオンハルトはこの図を描いたのではない。知っているから、描いたのである。
「やりすぎるなよ。三軒連続は、少し目立つ」
「『蝋燭』にもそう伝えてある。次の三軒は、気持ちよく売るそうよ。……古い麦をね」
「それと、動きが一つ。第七軍団の調達が、軍票を諦めて金貨払いに切り替え始めた」
「ほう」
レオンハルトのモノクルが、わずかに光った。
「紙で買えなければ、金貨で買う。だが金貨は、刷れない。帝国の戦費の実弾が、予定の倍の速さで減っていく。……どちらに転んでも、こちらの勝ちという賭けは、世の中にそう多くない」
◇
昼、財務の定例にマルクが同席した。
商会副代表は近頃、市の戦時財政の相談役を半ば公然と務めている。議会の予算委員たちは「あの物腰の柔らかい珈琲好きの老紳士」の正体を知らないまま、その助言の的確さにすっかり頼り切っていた。
「戦時公債の第二次発行、議会は渋るでしょうな」
マルクは、珈琲を丁寧に注ぎながら言った。
「第一次で懲りている。利率を上げれば市民が怯え、下げれば売れ残る。……レオンハルト君。戦争というものはね、三つの財布でするものですよ」
「三つ」
「今日の財布。明日の財布。そして——負けた時の財布」
老紳士は、自分の言葉に少しだけ笑った。笑っていない目で。
「三つ目の財布を持たない国は、負けた日に、二度負けます。金を借りた相手に、国の形を決められるのでね。……私は、それを見たことがあります」
どこで、とは聞かなかった。聞かないのが、この人との商いの作法である。
レオンハルトはただ、帳面の隅に書き付けた。三つ目の財布。海の向こうの、系列の金庫の奥に、誰の帳簿にも載らない箱をひとつ、育てておくこと。
第二次公債の設計は、その場でマルクと詰めた。利率は上げない。代わりに、償還時の特典を付ける——戦後十年間の港湾使用料の割引権である。
「金利で売るのではなく、商いの権利で売る」
マルクは、満足げに頷いた。
「良い公債です。これを買う者は、この街に『戦後がある』ことに賭けることになる。……国債とはね、レオンハルト君。突き詰めれば、未来があるという噂を、紙に刷ったものなのですよ」
◇
主計室の一番奥に、金庫がある。
その金庫の中に、市庁舎にも、議会にも、この世のどの登記簿にも存在しない帳簿が、一冊だけある。
中身は、市の歳入の本当の内訳である。
関税。港湾料。営業税。財産税。納税者の名義は千差万別、数百に及ぶ。だが名義の糸を根気よく辿っていくと、そのうちの七割が、名前を変えた同じ場所に行き着く。——ファルケンハインの、どこかの財布に。
つまり、帳簿の上では、こういうことになる。
議会が軍を縛る鎖は、うちの金で編まれている。議会が明日「戦争をやめる」と議決すれば、商会は納税を三月遅らせるだけで、その議決を窒息させられる。逆に議会が金を出し渋るなら、商会は自前で——三つ目の財布どころか、四つ目でも五つ目でも開けて——この戦争を最後まで戦い切れる。
無敵、という子供じみた言葉が、この帳簿の上でだけは、成立してしまうのだった。
だからこそ、とレオンハルトは帳簿を閉じ、金庫の扉を回す。
だからこそ、これは誰にも見せない。議会にはむろん、父にも、弟にも。
鎖が芝居だと知った軍隊と、鎖が本物だと信じている軍隊は、別の生き物である。この街の値打ちは、鎖が本物であることの方にあるのだ。そして鎖を本物にしておく方法は、世界にただ一つ——編んだ者が、一度もそれを引かないことである。
一度だけ、マルクがこの金庫の扉を、通りすがりに一瞥したことがある。
「帝国が剣でしていることを、あなた方は金でおできになる。……なさらないだけで」
老紳士はそれだけ言って、珈琲を淹れに行った。
レオンハルトが心の底からこの老人を恐ろしいと思ったのは、後にも先にも、あの一度きりである。
◇
午後、艦隊の件が動いた。
「『封蝋』より。帝都の艤装、追加予算がようやく通ったそうよ。徴用商船の名簿も固まりつつある。……出るわ、いずれ」
クラリッサが、北の海図を机に広げた。
帝都の軍港から、南方のこの海まで。大陸を半周する長い長い回航路に、中立の寄港地が真珠の粒のように並んでいる。艦隊は帆と人力で動くのではない。水と、食糧と、索具と、船匠の手で動くのである。そしてそれらは全部、寄港地で買うのだ。
レオンハルトは、寄港地の名を、ひとつずつ指で辿った。
それから、系列への買付指示書を書き始めた。塩漬け肉。堅パン。真水の樽。帆布。ロープ。タール。船釘。——回航路の港という港で、それらを、これから数ヶ月かけて、静かに、少しずつ、市価で買い集める。
「戦争の道具には見えないわね」
「見えないのが取り柄でね」
「もし艦隊が、結局来なかったら?」
「その時は、系列の倉という倉に、塩漬け肉と帆布が山と残る。……保存食は腐らないし、帆布は平和でも売れる。悪くない投資だよ、どちらにしても」
商人の罠は、外れた時にすら損をしないように張る。それが軍人の罠との、一番の違いである。
インクを乾かしながら、レオンハルトは言った。
「艦隊が錨を上げる頃には、途中の港という港で、水も食糧も索具も『あいにくの品薄』になっている。連中は買えない港を七つ数えたあたりで、ようやく気づくだろう。自分たちが、出港した日にはもう負けていたことに」
「……悪い男」
「商人だよ」
戦わずに勝つ方法は、あるにはある。ただしそれは大抵、誰にも自慢できない、ひどく退屈な方法なのだった。
◇
窓の外で、南の方角に砲声が一つ、鈍く響いた。
レオンハルトは、手を止めなかった。ただ、弟の帳簿に今日は新しい行が増えないことを——数字ではないやり方で、短く願った。願いは帳簿に載らない。載らないものにも、商人は少しだけ席を空けておくのである。
夕刻、最後の報告が来た。
クラリッサは、その一枚だけ、口頭で添えた。声が、半音だけ低かった。
「『胡椒』から。……輜重護衛に回された例の旅団、様子がおかしい」
「ジュールか」
「護衛対象の荷駄より、街道沿いの村の倉を熱心に『検分』している。徴発票の発行枚数が、この十日で三倍。それも、書式のいい加減な写しばかり。家畜の数を数えて回る兵の姿が、三つの村で目撃されている」
レオンハルトは、モノクルを外した。
徴発票の乱発。倉の検分。家畜の勘定。——帳簿を読む人間には、それが何の前触れか、砲声より雄弁に分かる。壁で八百人を捨てた男が、左遷先で、次の得点の数え方を見つけたのだ。壁より柔らかく、反撃してこない得点を。
略奪は、まだ始まっていない。
だが帳簿は、もう、その形をしていた。
「……村々に警告を出せば」
クラリッサが、静かに言った。
「『胡椒』の網が、死ぬかもしれない。警告の出所を、帝国は必ず洗う」
黙っていれば、網は生きる。網が生きれば、この先の百の作戦が生きる。サーシャの決死行も、蜂起の連絡線も、全部あの網の上に載っている。
黙っていれば、村が死ぬ。
レオンハルトは、冷めた珈琲を一口飲んだ。三つの財布の話を思い出していた。今日の財布と、明日の財布。網は明日の財布である。村は、今日の命である。
窓の外で、日が落ちていく。
レオンハルトは——ペンを取った。




