第8話
白旗は、降伏の色ではない。軍使の色である。
この二つを混同した者から先に死んでいくのが、戦争という商売だ。
篝火の夜が明けた朝、白旗を掲げた一行が北門に現れた。帝国南方方面軍の軍使、騎兵一個小隊の護衛、そして革の筒に収められた一通の書状。
二十年間、帝国の軍服がくぐらなかった門を、白旗の一行が通っていく。
沿道の市民は、罵声を上げなかった。石も飛ばなかった。ただ、商品を値踏みするときの目で、馬上の軍服を無言で見ていた。商人の街というものは、怒っているときほど静かになるのである。
一度だけ、列の後方で小さな動きがあった。救護院の子供が一人、路傍の石を握って振りかぶろうとしたのだ。
その手首を、細い手が掴んだ。
マルタだった。焼かれた村の生き残りが、少年の耳元で何かを囁き、石を開いた掌から取り上げて、そっと地面に戻した。
石を投げていい相手と、投げても何も変わらない相手の区別を、彼女ほど高い授業料で学んだ者はいない。
◇
市庁舎の大広間で、軍使は名乗った。
「南方方面軍司令部付、ギヨーム・ド・レニエ大佐であります」
四十がらみの、糊の利いた軍人だった。感情を職務の外に置いてきた顔をしている。
ヴィルヘルムが市長として応接し、議員たちが左右に列座した。テオドールは末席に立った。座る気には、なれなかった。
レニエ大佐は書状を開き、読み上げた。
「『南方属州における秩序の回復のため、帝国はアードラズベルク市に対し以下を求める。
一。前総督ドルネック侯爵殺害の下手人、テオドール・フォン・ファルケンハインの身柄引き渡し。
二。市内の治安を保護するための、帝国軍一個連隊の駐留受け入れ。
回答期限は、本状受領より四十八時間とする』」
広間が、静まり返った。
保護駐留。護るとは書いてあるが、誰から護るのかは書いていない。書けるはずもない。護るものの名を書けば、それは「占領」という言葉になるからだ。
テオドールは、自分の名が帝国の公文書の中で読み上げられるのを、奇妙に遠い場所で聞いていた。末席の自分に、広間中の視線が一瞬だけ集まり、すぐに散った。その一瞬の視線の重さだけが、現実だった。
「大佐」
ヴィルヘルムが、静かに訊いた。
「貴官は、この要求が呑まれると思うかね」
「……自分は軍使であります。思うことは、職務に含まれておりません」
「よい答えだ」
ヴィルヘルムは笑わずに言った。
「回答は文書で行う。道中の無事を祈る」
レニエ大佐は一礼し、踵を返しかけ――足を止めた。
「市長閣下。元帥閣下より、口頭にて一言だけ言付かっております」
「聞こう」
「『回答の如何にかかわらず、婦女子の海路は塞がない』――以上であります」
今度こそ、軍使は退出した。
護衛の蹄の音が遠ざかってから、誰かが呟いた。
「……敵の元帥に、礼を言いたくなる日が来るとはな」
誰も笑わなかった。それが一番、恐ろしい種類の敵だと、もう全員が知っていたからである。
◇
その夜、テオドールは自室で手紙を書いた。
一通目は父へ。短く済んだ。軍人の家の父子には、書くべきことが元々少ない。
二通目は兄へ。これも短い。商会に迷惑の掛からぬよう、自分の名義の持ち分の処理だけを頼んだ。仕入れ値を考えない戦争は負けるのだと、あの人は言った。ならば、最初の支払いは安い方がいい。自分一人の身柄で開戦が一日でも遅れるなら、それは破格の値である。
三通目。
――アルモナへ、と書いたところで、ペンが止まった。
四半刻、白い紙を睨んだ。書き出しの一行が、どうしても出てこなかった。
結局、宛名だけの紙を畳んで胸に入れ、テオドールは部屋を出た。
厩の戸を開けると、灯りが待っていた。
手燭を持ったアルモナが、彼の馬の鼻面を撫でながら、立っていた。
「……夜駆けの支度にしては、鞍袋が軽いのね」
「アルモナ」
「言っておくけど、厩番に口止めしても無駄よ。この家であなたの考えることは、大体三人が先に気づくの。お父様と、ライネルと――私」
彼女は手燭を掲げた。灯りの中の紫の瞳は、泣いても怒ってもいなかった。それが一番、堪えた。
「行くのね。一人で、帝国の陣へ」
「……俺一人の首で、戦争が遅れる」
「遅れない」
アルモナは即座に言った。
「あの要求はね、テオ。呑ませるために出されたんじゃない。断らせるために出されたの。お父様がそう言ったのを、あなたも壁の上で聞いたはずよ。あなたが行けば、帝国は喜んであなたを処刑して、次の要求を出す。戦争は一日も遅れない。ただ――最初に死ぬ人が決まるだけ」
「それでも」
「それでもですって?」
彼女の声が、初めて揺れた。
「この街に『人を差し出せば平和が買える』と教えるつもり? 一度でもそれを許したら、この街は終わる。次に差し出されるのは誰。その次は誰。……差し出される者の名前を、私はきっと、全部覚えていくのよ。そういうのはもう、二十年前だけで十分なの」
二十年前。
その言葉が何を指すのか、テオドールは正確には知らない。ただ、灯りの中の義姉が、見たこともないほど遠い目をしたことだけが分かった。
「あなたは私に言ったわ。『もう安全だ、俺たちが守る』って――ええ、あれはマルタさんにだったけれど、私はちゃんと横で聞いてた。守ると言った人間が、真っ先に自分を差し出すのは、約束の踏み倒しって言うのよ」
それに、と彼女は続けた。声から、震えが消えていた。
「あなたが今夜行けば、私は明日から、南の窓ばかり見て生きることになる。……待つ側を、守られる側を、私に二度もやらせないで」
二度も。
その数え方を、テオドールは問い返せなかった。
アルモナは歩み寄り、テオドールの胸元から、畳んだ紙を抜き取った。
宛名だけの、白い手紙を。
「……これは没収。続きは、全部終わってから書いて」
「読めたものじゃないぞ。宛名しか書いてない」
「知ってる。だから預かるの」
彼女は手紙を胸に抱え、それから、少しだけ笑った。
「白紙の手紙って、いいものね。この先どんな結びの言葉にもなれる」
テオドールは、長いこと立ち尽くしていた。
それから、鞍袋を下ろした。
厩を出るとき、母屋の窓に灯りが一つ点いているのが見えた。父の書斎だった。灯りは、二人が話している間じゅう、ずっと点いていたらしかった。
翌朝の食卓で、ヴィルヘルムは何も言わなかった。ただ一言、
「馬に、余計な脂肪がついとる。朝駆けに使ってやれ」
とだけ言った。
◇
回答を決める臨時議会は、一刻で終わった。
口火を切ったのは、意外な男だった。羊毛ギルドの代表――「私闘だよ」の、あの老獪な商人である。
「諸君の中には、引き渡しやむなしと考える者もおろう。わしも昨夜、算盤を弾いた。……弾いた上で言う。引き渡しは、できん」
彼は議場を見渡した。
「考えてもみたまえ。若君を引き渡すことは、市が『あれは私闘ではなかった』と認めることだ。市が関与していたと認めることだ。つまり――**条約を先に破ったのは我々だ**と、帝国の帳簿に書き込んでやることに他ならん」
ざわめきが走った。
「二十年間、我々を守ってきたのは城壁と、それからあの建前だ。建前を自分の手で破る商人がどこにおるか。断るしかないのだよ、諸君。腹立たしいことにな、法的に」
老獪な男は、忌々しげに付け加えた。
「……ついでに言えば、道義的にも、だ」
銀行組合の代表が、続いて手を挙げた。金利に障る、が口癖の男である。
「一言だけ。戦争は金利に障ります。……ですが降伏は、元本に障る」
議場に、今度こそ低い笑いが流れた。悲鳴によく似た種類の笑いだった。
採決は、挙手だった。反対、三。棄権、五。残りの全ての手が挙がった。
回答文はヴィルヘルムが口述し、書記が清書した。曰く――引き渡し要求は証拠不十分により重ねて拒否する。「保護駐留」は特例区条約第三条に照らし受け入れの余地なし。なお市は、帝国軍の演習の恙なき完遂を祈念する。
最後の一文を書き取りながら、書記が思わず顔を上げたが、市長は真顔だった。
◇
返書を携えた急使が北門を発ったのは、翌日の夜明けである。
そして、その日の正午。
望楼の鐘が、鳴った。
テオドールが城壁に駆け上がったとき、北の平原の光景は、昨日までと違っていた。地平の火の列が、消えている。代わりに、街道の上に細く長い影が――土煙を曳いて、南へ。
「前衛、騎兵およそ千」
カイが遠眼鏡を覗いたまま言った。
「後続、縦隊。……先頭は、もう」
もう、越えている。
急使と帝国軍は、街道の途中ですれ違ったはずだった。返書は読まれてすらいない。四十八時間の期限は、まだ丸一日残っていた。
要求は断らせるために出される。そして軍隊は――返事すら、待たないのである。
背後で、重い足音がした。ヴィルヘルムが胸壁に手を置き、南下してくる縦隊を長いこと見ていた。
それから総帥は、伝令たちを振り返り、静かに命じた。
「全市に布告。――防災訓練は、終わりだ」
一拍おいて、付け加えた。
「今日からは、防衛と呼ぶ」
◇
街道の南、二十年間誰も動かさなかった場所に、一本の標石が立っている。
特例区の境界を示す、膝までの高さの古い石だ。苔の下に、条約の年号が刻まれている。
――VC765。
その日の午後、帝国軍南方方面軍の先頭大隊は、この石の横を通過した。
誰も、石を倒さなかった。誰も、石に目を留めさえしなかった。二万の軍靴は、ただ粛々と、その横を通り過ぎていった。
羊皮紙は、破られるとき、音を立てない。
ただ、その静けさの分だけ――このあとに続く戦の音は、大きくなるのである。




