第7話
祭りの翌朝は、いつも灰の匂いがする。
燃え尽きた灯心、消し炭になった篝火、掃き集められる紙屑。だが今朝の灰の匂いには、それだけではないものが混じっていた。
夜明けの鐘と同時に、アードラスヴェーアの非常呼集がかかったのだ。
練兵場に駆けつけた男たちの半分は、祭りの飾り紐を袖に付けたままだった。誰も笑わなかった。テオドールは隊列の前に立ち、短く事実だけを告げた。
帝国軍二万、ヴェルダ川を渡河。北進中。
ざわめきは、思ったより小さかった。皆、どこかで分かっていたのだ。祭りの夜があんなに明るかったのは、たぶん、そういうことなのである。
◇
臨時議会は、朝の九の鐘で開かれた。
議場は満員だった。傍聴席も、立ち見まで埋まっている。二十年の平和が人間から想像力を奪うなら、二万の軍勢は一晩でそれを返してくれるらしい。
「――で、あるからして、これは条約違反ではない!」
壇上で声を張り上げているのは、先日と同じ羊毛ギルドの代表である。ただし、声の張り上げ方に、先日はなかったものが混じっていた。恐怖である。
「帝国軍は帝国領内を移動しているに過ぎん! 彼らの言う通り、演習かもしれんのだ! ここで我々が騒げば、それこそ攻める口実を――」
「では伺うが」
対するのは、造船ギルドの代表だった。
「演習とやらのために、攻城砲を牛に曳かせて河を渡るのかね。うちの船大工が言っておったよ。あの舟橋は、渡り終えた後も解体されておらんそうだ。……補給路だよ、あれは。演習は帰り道のある者がやるものだ」
議場が沸騰する。疎開が先だ、いや防衛線が先だ、いやそもそも動くべきでない――。
その喧噪の中で、杖の音が、こつん、と床を打った。
一度。二度。三度目で、議場は静かになった。
あの老議員だった。発言席まで歩くのに、たっぷり時間をかけた。誰も急かさなかった。
「……わしは二十年前、この議場が、これと同じ議論をしたのを覚えておる」
老人の声は、大きくはなかった。
「あの時も、騒げば口実になると言う者がおった。まだ分からんと言う者がおった。皆、賢かった。賢いまま、決められなんだ。――決められなかった分の代金をな、わしらは後から、城壁の上で払ったのだ。利子つきで」
老人は、それだけ言って席に戻った。
ヴィルヘルムは市長席で、腕を組んで聞いていた。
やがて、頃合いを見て立ち上がった。
「諸君。昨日までの私なら、こう言っただろう。『騒ぐな、嘘がつける間は平和は続く』と」
議場が静まる。
「だが帝国は、嘘の縁まで軍を進めた。ならば我々のすべきことは一つだ。――我々も、最後の嘘をつく」
「……嘘、とは」
「城壁の補修を行う。これは『定期の補修工事』だ。市民に武器の手入れと避難路の確認をさせる。これは『冬季の防災訓練』だ。老人と子供には、商会の船で北の湾岸の縁者を訪ねることを奨める。これは『年始の里帰りの奨励』だ。……幸い、帝国の軍船は南の海に、まだ一隻もおらんのでな」
ヴィルヘルムは、指を一本ずつ折りながら言った。
「帝国が『演習』と言うなら、我々は『訓練』と言う。彼らが渡河を『演習』と呼ぶ権利があるなら、我々が防衛を『防災』と呼ぶ権利もある。……言葉の上では、何も起きていない。ただ、冬支度に念を入れる街があるだけだ」
造船ギルドの代表が、手を挙げた。
「船を出すのは構わんが、市長。人を減らして、守りが薄くなりはせんかね」
「逆だ」
ヴィルヘルムは即答した。
「『囲まれる』という言葉の中身はな、ギルド長。剣と剣がぶつかることではない。パンが尽きるのを、外で待たれるということだ。籠城とは畢竟、食う口の数の戦いなのだよ。戦えぬ者を先に船へ乗せるのは薄情ではない。――二十年前に、身銭で学んだ算術だ」
沈黙のあと、誰かが笑った。乾いた、しかし悪くない笑いだった。
商人の街である。建前の使い方でも、算術でも、帝国に負けた歴史がない。
決議は昼前に下りた。「防災訓練令」、全会一致。
全会一致というものが議会で成立するのは、よほど平和な議題か、よほどそうでないかの、どちらかである。
◇
議会の建前がどうであれ、街は正直だった。
午後の市場は、祭りの飾りを外す間もなく、買い占めの気配に煮立っていた。塩の樽が消え、油の壺が消え、パンの列が延びる。
「一家族、二本まで!」
パン屋の店先では、あの恰幅のいい女将が仁王立ちしていた。焼き出された村人に真っ先にパンを積んだ、あの女将である。
「三本目を掴んだそこの旦那! あんたの家は五人家族だろう、あたしゃ知ってるよ! 棚に戻しな!」
買い占めというものは、隣人の顔を知らない街で起きる。この街では、パン屋が全員の家族の人数を知っているのだった。
市場の柱には、商会の告示が貼り出されていた。
――穀物・塩・油、商会備蓄より通常価格にて無制限放出。買値を吊り上げる商いには、商会は以後一切の融資を行わない。
レオンハルトの字である。剣も抜かず、声も荒げず、紙一枚で買い占めの息の根を止める。仕入れ値を考えない戦争は負ける、と言った男の戦場は、もう始まっているのだった。
◇
自警団の詰所の前で、テオドールは足を止めた。
詰所の窓口に、ひょろりと背の高い若者が食い下がっている。見覚えがあった。祭りの日、老議員が連れていた孫である。
「――ですから、志願を! 名簿があるなら載せてください!」
「だから、今は募っとらんのだ。帰って寝ろ」
「馬の世話でも、伝令でも、水汲みでもいい!」
窓口の古参兵が、うんざりした顔でテオドールを見た。助けを求める顔である。
「名前は」
テオドールが声をかけると、若者は弾かれたように振り向き、直立した。
「フ、フリードです!」
「歳は」
「十九です」
「剣は」
「……祖父に、少し」
テオドールは、若者の目を見た。ああいう目をした若者を最近よく見る、と祭りの日に思った。その目が今、目の前にあった。まっすぐで、怖いもの知らずで――まだ、何も失ったことのない目だった。
「フリード。今のこの街で一番足りていないのは、兵じゃない」
「……え」
「救護院だ。焼け出された人が百人いて、運ぶ手が足りん。今日から行け。荷運びと水汲みと、子供の遊び相手。それが務まらん者に、伝令は務まらん」
若者は一瞬、不満げな顔をしかけ――思い直したように、深く頭を下げた。
「行きます!」
駆けていく背中を見送って、窓口の古参兵が呟いた。
「よろしいので? あれは、そのうち剣を握りますぜ」
「ああ」
テオドールは短く答えた。
「だからその前に、守るものの中身を見せておく」
守るものの中身を知らない剣は、ただの刃物だ――受け売りである。受け売りだが、いい言葉は使い回してこそである。
◇
夕刻、城壁へ向かう前に、テオドールは救護院に寄った。
入口では、さっそくフリードが水樽と格闘していた。その運び先を、腕組みで指図しているのは――マルタだった。
「そこじゃない、竈の脇! 朝いちばんに使うんだから」
三日目に粥を口にした人が、今は水樽の置き場を仕切っている。人は一度には治らないが、治り始めると、案外早いのである。
「あら、テオ」
アルモナが出てきて、フリードの方へ目をやった。
「また一人、拾ってきたのね」
「人手が要ると言ったのはそっちだ」
「言ったわ。ありがと」
彼女は笑い、それから、テオドールの装具を上から下まで見た。壁の上で夜を明かす者の装具である。それが何を意味するかを、訊かなかった。
代わりに、布に包んだ水筒を押し付けてきた。
「蜂蜜湯。……ライネルの分も」
「あいつの分は、いつからお前の管轄になったんだ」
「あの子、自分の分を絶対に忘れるもの」
◇
日が落ちてから、テオドールは城壁に上がった。
補修工事という名の防衛準備は、日暮れとともに一段落していた。胸壁の狭間に沿って、部下たちが等間隔に立っている。昨夜、市民から揚げ菓子を釣り上げていた壁の上は、今夜は静かだった。
北の平原を、テオドールは見た。
――あった。
地平の際に、火の列。
一つ二つではない。右の丘陵から左の街道筋まで、几帳面に等間隔を保った篝火が、細い光の帯になって横たわっている。
隣で、カイが数えていた。この男が口を開くのは、数字を言うときだけである。
「篝火、三百十二。一火二十人として――六千。先鋒だけで」
昨夜、テオドールはバルコニーから灯りの海を見下ろした。祭りの灯は、丸く、あたたかく、ばらばらに揺れていた。
今夜、平原に並ぶ火は、直線だった。
同じ火なのに、と思う。人を集めて温める火と、人を並べて数える火が、こうも違って見えるものか。
水筒の蜂蜜湯を回し飲みしながら、ライネルが火の列を眺めて言った。
「なあ、テオドール。あの火の一つ一つに、麦酒を我慢してる奴がいると思うか」
「……いるだろうな。行軍中だ」
「だよなあ」
ライネルは、水筒の湯を一口啜った。
「そう思うと、少しだけ嫌いになれなくなる。……困ったもんだ」
困ったもんだ、とテオドールも思った。憎み切れない敵と戦う戦争が、一番長くなるのである。
「条約線までは」
「あと半日。……歩けば」
背後で足音がした。ヴィルヘルムだった。市長の外套のまま、総帥の顔で胸壁に手を置く。
「攻めてくると思うか、父上」
テオドールが訊くと、父はしばらく火の列を眺めてから、首を振った。
「いや。明日の朝には、使者が来る」
「使者?」
「戦争より先に、要求が来るものだ。それが二十年前もそうだった、戦の礼儀というやつでな」
ヴィルヘルムは、火の列から目を離さずに続けた。
「そして要求というものは、呑めないと分かっていて出すのだ。……断らせるために」
夜風が、胸壁の上の小さな精霊灯を揺らした。
平原の火の列は、夜空の星よりも整然と、身じろぎもせずに並んでいた。




