第6話
開戦前夜というものは、歴史書の中では厳粛である。
現実には、揚げ菓子の匂いがした。
冬の精霊祭。夏にリヒテンフェルデの聖地で行われる本祭に対して、街々が銘々に灯りを掲げる、小さい方の祭りである。とはいえアードラズベルクの「小さい」は、他所の街の「盛大」と同じ意味だ。港のガラス屋根の下には屋台がひしめき、運河には花と蝋燭を載せた小舟が浮かび、市庁舎前の広場では市民楽団が音合わせを始めている。
そして自由都市の守備軍ともあろう者たちが、何をしているかといえば。
「そこの若いの、これも頼むよ!」
「うちのも! 精霊灯の柱、傾いてるからさ!」
――祭りの設営である。
テオドールは脚立の上で精霊灯の傾きを直し、ライネルは屋台の天幕を張り、部下たちは樽やら長机やらを運んでいた。警備任務、という名目ではあった。名目、というものの使い方なら、この街の人間は帝国に負けていない。
「なあ、テオドール」
天幕の綱を締めながら、ライネルが言う。
「俺たちは精鋭騎兵じゃなかったか」
「精鋭だから頼まれるんだ。落とすと危ないものを」
「そうか。俺は誇らしいよ」
誇らしそうな声ではなかった。
広場の向こうでは、ヴィルヘルムが市長の顔で巡回していた。屋台を一軒ずつ冷やかし、店主と握手をし、子供の頭を撫で、老婆の椅子を自分で運ぶ。ああして歩くだけで、街の空気が少し暖かくなるのだから、大した芸である。
その市長を、廊下で見たあの老議員が呼び止めた。傍らに、ひょろりと背の高い若者を連れている。
「ヴィル。……例の、孫だ」
「ほう。これが」
「フリードといいます。あの、市長閣下、自分は――」
若者が何かを言いかけたのを、老議員が杖の先でぴしゃりと止めた。ヴィルヘルムは何も訊かず、ただ若者の肩を一度だけ、大きな手で叩いた。
テオドールは脚立の上から、それを見るともなく見ていた。
言いかけた言葉の続きが何だったのか、分かる気がした。ああいう目をした若者を、最近よく見るのだ。
◇
昼過ぎ、広場で救護院の一団と行き合った。
先頭の子供たちが、テオドールを見つけて突進してくる。その後ろに、アルモナ。そして――マルタがいた。
初めての外出だという。人混みに強張っていた肩が、屋台の飴細工の前で、ほんの少しだけ緩んでいる。胸元では、あのペンダントが冬の陽を弾いていた。
「あら、テオ。お仕事中?」
「警備任務中だ」
「脚立の上で?」
「高所からの、広域警戒だ」
アルモナは笑いを噛み殺した。この義姉は、人の建前を面白がる悪い癖がある。
それから三人は――というよりアルモナに引っ張られる形で――屋台を巡った。焼き栗の値段を巡ってテオドールとライネルの値切り対決が始まり、双方譲らず、栗屋の親父が呆れて両方に負けたことにする、という政治的決着を見た。
「二人とも、商人の街の生まれでしょう。それで商会の看板を背負ってるの?」
「値切りは商いの礼法だと兄上が」
「レオンハルトは絶対にそんなことを言いません」
子供たちが焼き栗に群がる。マルタがその輪の後ろで、小さく、しかし確かに笑っていた。
――と、広場の奥で祭り太鼓が、試し打ちの一発を高く鳴らした。
マルタの肩が、跳ねた。
息が浅くなり、視線が出口を探して泳ぐ。だがその手を、両側から子供たちが握った。何も知らない小さな手が、ただ「次はあっちの屋台」と引っ張るために。
マルタは何度か呼吸をして、それから、引かれるままに歩き出した。
アルモナがテオドールを見た。何も言わなかったが、言いたいことは分かった。
治るのではない。引っ張ってくれる手のあるうちは、歩ける。それだけのことで、当面は、それで十分なのだ。
――風が鳴るあいだ、子供は泣くのを忘れる。
祭りの灯りが灯るあいだは、大人も、少しだけ忘れていられるのだ。
◇
日が落ちると、灯入れが始まった。
白い巫女服の娘たちが、街角の精霊灯をひとつずつ回っていく。灯が入るたび、青白い光が石畳に丸く落ち、その丸が数珠つなぎになって、街路が光の川になっていく。
広場の大灯柱には、アルモナが子供たちと一緒に火を入れた。
背伸びした子供の手を支えて、灯心に細い火を移す。ぽ、と青い光が生まれた瞬間、広場中から歓声が上がった。
光の中の義姉の横顔を、テオドールは、なぜだか目を逸らさずに見ていた。
運河の水面が、幾百の灯りを映して揺れる。城壁の上にも点々と灯が入り、白亜の壁が、夜の中に淡く浮かび上がった。
壁の上では、非番のはずの守備兵たちが手すり越しに祭りを見下ろし、市民が籠に入れた揚げ菓子や湯気の立つ茶を、綱で釣り上げて差し入れている。壁を守る者と、壁に守られる者の距離が、この街ではそのくらい近い。
破られたことのない城壁は、こういう夜のためにあるのだと、誰もが思える光景だった。
◇
夜、屋敷のバルコニー。
眼下には灯りの海が広がっていた。テオドールは手すりに寄りかかり、祭りのざわめきを遠くに聞いていた。
「はい。戦利品」
アルモナが揚げ菓子の包みを差し出してくる。二人分にしては、明らかに多い。
「……多くないか」
「ライネルの分」
「あいつも来るのか」
「来るわよ。あの子が星の綺麗な夜に来なかったこと、ある?」
ない。悔しいが、ない。
しばらく、二人で灯りの海を眺めた。揚げ菓子は素朴に甘く、冬の空気は薄く冷たかった。
「ね、テオ」
アルモナが、灯りを見たまま言った。
「今日みたいな日のこと、ちゃんと覚えておいてね」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味。あなたはこれから、きっとたくさんのものを見る。ひどいものも、たくさん。だから――いちばん普通の日を、いちばん深いところに置いておくの」
彼女は、揚げ菓子の最後のかけらを口に放り込んだ。
「守るものの中身を知らない剣は、ただの刃物だもの」
テオドールは、返す言葉を探した。この義姉は時々、司書というより、もっと別の何かのような物言いをする。
アルモナの視線が、ふと、手すりの上のテオドールの右手に落ちた。
「……手、もう震えてないのね」
「――ああ」
あの朝、救護院の前で包まれた手だった。彼女はそういうことを、いちいち覚えているのである。そして、いちいち確かめるのだ。
「でも、また震える日が来ると思う」
アルモナは灯りの海を見たまま、静かに続けた。
「その時は、隠さないで。震える手のことを恥じる人は、いつか震えない心になってしまうから。……それがいちばん、怖いことよ」
「……昼間、広場でお前が子供を肩車してた時な」
言いかけて、やめた。アルモナが小さく首を傾げる。
「なに」
「いや。――肖像画の間の、祖父に似てきたと思っただけだ。背中が」
アルモナの手が、一瞬だけ止まった。
それはテオドールの知らない止まり方だった。彼女は何かを言いかけ、言わず、それから灯りの海に目を戻して、静かに笑った。
「……そうね。オトマー様に、少し似てきた」
「会ったこともないだろう」
「肖像画で、毎日お会いしてるもの」
その声が、ほんの少しだけ揺れた気がした。気のせいかもしれない。祭りの夜の灯りは、揺れるものなのだ。
「よーう、お二人さん!」
果たして、ライネルが手すりを乗り越えて現れた。手には湯気の立つ杯が三つ。星の綺麗な夜に来なかったことのない男である。
「言っておくが、中身は蜂蜜湯だからな。祭りだというのに」
「守備軍は、今夜も呼集がかかりうる身だ」
「分かってるから蜂蜜湯なんだろうが。……ああ、麦酒が飲みたい」
ぼやきながらも、決まりは守る。そういう男なのである。
「揚げ菓子、俺の分は」
「あるわよ。ちゃんと」
「アルモナは天使か? テオドール、お前の姉上は天使だ」
「知ってる」
三人で、手すりに並んだ。
灯りの海と、その上の星と、遠くの楽団の音。
「よし。恒例のやつ、やるか」
ライネルが杯を掲げた。
「――戦が終わったら、何をするか」
学生の頃から、この男は事あるごとにこれを訊く。答えは毎回変わっていいのが決まりである。
「言い出しっぺから」
「決まってる。三日三晩寝て、それから馬の牧場だ。軍馬じゃないぞ。誰も乗らなくていい馬を、山ほど飼う」
「誰も乗らない馬に、何の意味がある」
「意味のないものを飼えるのが、平和ってもんだろ」
一本取られた。こういう時だけ、この男は妙に深いのである。
「アルモナは」
「私は――図書館。焼かれた村の全部に建てるの。小さくていいから、灯りと本のある場所を」
彼女は、当然のように言った。当然のように言うには、少し大きすぎる夢だった。
「テオは?」
訊かれて、テオドールは口を開き――何も出てこないことに、自分で驚いた。
戦が終わったら。その先を、考えたことが、一度もなかったのだ。
「……追って報告する」
「なんだそれ」
ライネルが噴き出し、アルモナも笑った。笑いながら、彼女の目だけが少しも笑っていなかったことに、テオドールは気づかなかった。
杯が軽く触れ合う音がして、それきり、誰も言葉を必要としなかった。
こういう夜が続けばいいと、テオドールは思った。
思った、その時だった。
◇
鐘だった。
祭りの鐘ではない。市庁舎の塔の、乱打。
灯りの海のざわめきが、一拍遅れて、質を変えた。楽団の音が途切れる。バルコニーの三人は、杯を置くより早く動いていた。
書斎に駆け込むと、既にヴィルヘルムとレオンハルトがいた。泥だらけの伝令が、床に膝をついて肩で息をしている。クラリッサが、鳩の脚から外したばかりの細い紙片を広げた。
「――帝国軍、ヴェルダ川を渡河」
彼女の声は、恐ろしく平坦だった。
「三橋、同時。先鋒は軽騎兵と工兵。後続、縦隊のまま北進中。規模――全軍です」
誰も、すぐには口を開かなかった。
最初に動いたのは、ヴィルヘルムだった。
「レオンハルト。夜明けを待って、主だった議員の屋敷を回れ。臨時議会の召集だ。クラリッサ、街道筋の観測員を倍に。テオドール、隊に非常呼集――ただし、夜明けの鐘の後だ」
「後、ですか」
「今夜、武装した兵が街を走れば、祭りが悲鳴で終わる」
ヴィルヘルムは窓の外の灯りの海を見た。
「祭りは、止めるな。最後まで終わらせてやれ。……市民が笑って眠る夜は、今夜で当分、終いになるかもしれんのだ」
誰もが、黙って頷いた。
窓の外では、祭りの灯が、まだ半分も消えていなかった。
その灯りのどこかで、マルタが子供たちと歩いており、老議員の孫が言えなかった言葉を胸に抱えており、そして南の闇の底では、二万の軍勢が、粛々と河を渡り終えようとしていた。




