第5話
霧は、音を食う。
夜明け前のヴェルダ川流域は乳白色の底に沈んでいて、聞こえるのは自分の心臓と、湿った土を踏む蹄の音だけだった。
それも、布を巻いた蹄の音である。
偵察隊は十二騎。アードラスヴェーアの中から、馬術と目の良さと――口の堅さで選び抜いた精鋭だった。口の堅さというのは重要である。何しろ公式には、彼らはここにいないのだから。
「公式には、俺たちは何なんだったか」
小声で、ライネルが訊いてくる。
「南へ向かう隊商の護衛。積み荷は毛織物」
「毛織物ね。……で、肝心の荷馬車はどこだ」
「霧で見えないことにしておけ」
実にくだらないやり取りである。だが、張り詰めた偵察行では、このくだらなさが糸の切れるのを防いでくれるのだ。
先頭を行くのは、もう一人のベリクだった。
カイ・ベリク。ライネルの弟である。兄と違って、恐ろしく無口だ。神が兄弟のあいだで会話の総量を割り振ったとき、配分を盛大に間違えたものと思われる。
だが偵察と追跡にかけて、この街で彼の右に出る者はいない。枝の折れ方と轍の深さだけで、通った荷車の数と積み荷の重さを言い当てる男である。
隊には、もう一人だけ変わり種がいる。
サーシャ・グレンツ。大学校の軍事館でテオドールの一学年上だった先輩で、専門は工兵――もっと言えば、爆破である。橋を見に行く、と聞いて志願してきた。
「いいか後輩。橋というものはな、架ける技術と壊す技術が表裏一体なんだ。向こうの工兵の腕を見れば、壊し方も分かる」
「先輩。声」
「おっと」
偵察向きの人材かどうかは議論の余地があるが、腕だけは確かなのだ。
その時、先頭のカイが無言で拳を挙げた。
停止の合図。理由は、すぐに知れた。
◇
名も知らぬ、小さな村の跡だった。
グリューネフェルトではない。もっと前に焼かれた、別の村だ。黒い梁が数本、霧の中に立っているだけだった。
その焼け跡の真ん中に、細い若木が一本、立てられていた。
誰かが、ここでも礼式を果たしていったのだ。精霊は灰の中からでも芽を出す――。
誰も何も言わなかった。ただ全員が、通り過ぎるときに少しだけ頭を下げた。
◇
ヴェルダ川の渡船場が見下ろせる土手に着いたのは、霧がようやく薄れ始めた頃だった。
馬を葦の茂みに伏せ、テオドールとカイは土手を這い上がった。
最初に見えたのは、杭だった。
渡船場の両岸に、等間隔で打ち込まれた太い杭の列。次いで、岸に引き上げられて並ぶ、真新しい平底舟。
数えて、二十六。どれも新造で、タールの匂いがここまで届く。
舟と舟のあいだに渡すための横木と厚板が、岸に整然と積み上げられていた。
「……舟橋だな」
テオドールは呟いた。
平底舟を川幅いっぱいに並べて鎖で繋ぎ、上に板を渡す。軍隊が河を渡るための、浮かぶ橋である。舟が二十六なら、四列縦隊が通れる幅になる。
カイが指を三本立て、下流を指した。
目を凝らす。薄れる霧の向こう、下流にも同じ杭の列が――もう二組。
渡河点が、三つ。
二万の軍勢は、一本の橋では渡らない。三本の橋で、三筋の矢となって渡るのだ。
対岸では、工兵たちが働いていた。
測深棒を川に差しては、帳面に書きつけ、また差す。荷馬車が材木を降ろし、士官が三脚に据えた真鍮の器械を覗いて、何かを測っては、また帳面に書く。
隣に這い上がってきたサーシャが、遠眼鏡を覗いたまま、小さく息を呑んだ。
「テオ。集積所の奥。天幕の列の、裏だ」
遠眼鏡を受け取る。――見えた。
牛車の列。一台に牛が十頭以上も繋がれ、荷台には油布で包まれた長大な何かが載っている。包みの端から、鈍く光る金属の口が覗いていた。
「砲、ですか」
「あの長さで、あの牛の数だ。野砲じゃない。……攻城砲だよ」
サーシャの声から、いつもの軽さが消えていた。
「マルタさんの証言と合う。『桁ごと組み直す橋』ってのは、あれを渡らせるための橋だ」
「――壊すなら、どこを狙います」
「舟橋は、架かってからじゃ遅い。舟のうちに焼くのが一番安い。……ま、それをやった瞬間に戦争だけどな」
その光景は、奇妙なほど静かで、勤勉だった。
殺気も、憎悪もない。ただの仕事として、彼らは戦争を組み立てている。
――帝国もまた、数を数えていた。
井戸を数え、橋を数え、麦を数え。そして今、渡るべき河の深さを数えている。マルタの村で始まった帳簿が、ここで一冊の本になろうとしているのだった。
カイの帳面に、数字が並んでいく。舟の数。杭の間隔。積まれた材木の量。集積所の天幕の数。
最後にカイは、対岸の後方に立ち上るいくつもの細い煙を、じっと数えた。
「竈の煙、四十六」
彼が口を開くのは、数字を言うときだけである。
「一竈五十人として――二千三百」
テオドールは頷いた。炊事の竈の数は、嘘をつかない。先遣の工兵連隊と守備隊だけで、すでにそれだけの人数が川向こうに集まっているということだ。
本隊二万は、まだ来てもいないのに。
「十分だ。戻るぞ」
◇
引き上げは、来た道を使わない。偵察の鉄則である。
涸れ沢沿いに迂回した、その途中だった。
テオドールの首筋が、ちり、と粟立った。
理屈ではない。精霊術と呼べるほど大層なものでもない。ただ昔から、悪いものが近づくときは、産毛が先に知るのだ。
「――散れ」
小声の号令と同時に、十二騎は涸れ沢の岸陰と、焼け残った納屋の陰に滑り込んだ。
数呼吸おいて、霧の名残の向こうから、蹄の音。
帝国の軽騎兵だった。五騎。濃紫の外套に、軽騎槍。斥候の装いである。
彼らは、涸れ沢の縁で馬を止めた。
テオドールの位置から、先頭の騎兵の顔が見えた。若い。まだ少年の名残のある顔だった。
その若い斥候が、ふと、鞍から降りた。
しゃがみ込んで、地面を見ている。
――泥だ。昨夜の雨でぬかるんだ道には、布を巻いた蹄でも、十二頭分の跡が残る。
誰も、息をしなかった。
ライネルの手が、ゆっくりと剣の柄にかかる。テオドールは目だけでそれを制した。
斬れば、確実に「見つかった」ことになる。帰らぬ斥候は、どんな報告よりも雄弁なのだ。
テオドールは、自分の心臓の音を数えた。十。二十。板壁の隙間から、斥候の槍の穂先が見える。
若い斥候は泥に触れ、指先をこすり合わせ、立ち上がった。そして、蹄の跡を数歩だけ辿った。
納屋の方へ。
一歩。また、一歩。
――葦の茂みから、鷺が一羽、けたたましい羽音を立てて飛び立った。
斥候の足が、止まった。
長い、長い沈黙だった。
それから若い斥候は肩の力を抜き、仲間の方を振り返って何かを言い――笑った。
五騎は馬首を返し、霧の中へ消えていった。
蹄の音が完全に消えるまで、誰も動かなかった。
「……見られたか?」
ライネルが囁く。
「わからん」
テオドールは、正直に答えた。
泥の跡を見て、笑って、去った。隊商の跡だと思ったのなら、それでいい。だが、もし――
カイが無言で馬に跨り、顎で北を指した。
考えても答えの出ないことを考える時間は、敵地にはない。寡黙な男の言い分は、いつも正しいのである。
◇
その夜、ファルケンホーフの書斎。
カイの帳面から起こした報告は、一枚の紙にまとまった。舟二十六、渡河点三、竈の煙四十六、材木の量、杭の間隔。
レオンハルトはそれを一読して、モノクルを外した。
「渡河点が三つ。……本気だな」
「それと、攻城砲を確認しました。牛十頭引きの砲車、少なくとも二門」
「なるほどね」
レオンハルトは手元の台帳をめくった。
「先月から、南部の市で荷牛の値が三割上がっていた。理由はこれか。……砲兵というのは、買い物で足がつくんだよ」
「斥候との接触は」
ヴィルヘルムが低く訊いた。
「一度。五騎です。交戦せず。……向こうは泥の跡を見て、笑って、去りました」
「笑って、か」
ヴィルヘルムは、長いこと黙っていた。
それから、呟くように言った。
「祈るとしよう。あれが『ただの隊商の跡だ』という笑いだったことを」
◇
同じ夜。モルゲンロート城、南方方面軍司令部。
若い斥候の報告を、ジャン=リシュアンは最後まで黙って聞いた。
「――蹄に布。十二騎。荷馬車を連れぬ『隊商』、か」
卓上の地図の、ヴェルダ川の線を、細い指がゆっくりとなぞる。
「斬りかかりもせず、痕跡は最小限。引き際も見事だ。……いい兵を育てている」
賞賛の口調だった。そして賞賛とは、この若き元帥にとって、警戒と同じ意味である。
傍らの副官が、遠慮がちに問うた。
「よろしいのですか。閣下のご判断で日程を動かせば、帝都のお歴々が」
「構わんさ。演習だよ、少佐」
ジャン=リシュアンは、口の端だけで笑った。
「自国の領内で、自国の軍が、河の渡り方を稽古する。……どこの条約にも、触れてはいない」
彼は静かに顔を上げ、副官に告げた。
「全軍に達せよ。――渡河演習を、三日繰り上げる」




