第4話
救護院の朝は、匂いから始まる。
薬草を煮る匂い。粥の湯気。消毒用の焼酒の、鼻の奥を刺す匂い。旧倉庫を改装した建物には、グリューネフェルトの十七人を含めて、いまや百人近い焼け出された人々が寝起きしていた。
アルモナは、その匂いの中を歩くのが嫌いではなかった。
匂いは、生きている者からしか立たないからだ。
「アルモナ様、風! 風やって!」
包帯だらけの子供たちが駆け寄ってくる。様付けはやめてね、と何度言っても直らない。彼女は苦笑して、指先に小さな風の渦を生んだ。ひゅう、と渦が鳴り、子供たちの目が輝く。
精霊遊び――故郷の村々で、母から子へ受け継がれてきた小さな術だ。
風が鳴るあいだ、子供は泣くのを忘れる。
忘れさせてくれるものが、この建物にはいくらあっても足りなかった。
入口の柱の傍らには、長身の侍女がひとり、影のように立っている。屋敷から片時も離れず付いてくる彼女は、救護院では荷運びから傷の洗浄までを黙々とこなし、そして誰よりも早く、扉を開ける者の足音に気づく。
その視線が常に出入口と窓を往復していることに、気づいている者は多くない。
あの女性は、窓際の寝台にいた。
三日目にようやく粥を口にし、五日目に自分の毛布を自分で直すようになり――そして今朝、初めて自分から口を開いた。
「……マルタ」
「え?」
「あたしの、名前です」
アルモナは、渡したままになっていた精霊ペンダントを見た。マルタの手の中で随分と磨かれて、小さな光を宿している。
「返さなきゃって、ずっと思ってたんです」
「持っていて。……その子、寂しがりだから」
マルタは初めて、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、また少しだけ人間のものに戻っていた。人は一度には治らない。粥が一口、名前がひとつ、笑顔が半分。そういう順番で、戻ってくるのである。
◇
昼前、テオドールが救護院に来た。証言を、と切り出しかけた弟分を、アルモナは目で制した。
急かさない。それが約束だった。
だがマルタは、自分から話し始めた。
「……焼き討ちの、ひと月くらい前から、兵隊がよく村に来たんです。乱暴はしなかった。ただ、変なことばかりしてた」
「変なこと?」
「井戸の水を樽で汲んで、数えてました。一日に何杯汲めるかって。橋の板を剥がして、厚さを測ってた。粉挽き小屋では粉の出来高を帳面につけて……納屋の麦も。全部、書いていくんです」
テオドールの眉が、わずかに動いた。
「それから、道です。街道の窪みに石を詰めて、荷車で何度も往復して確かめて。監督してた士官が言ってました。『元帥閣下の軍がお通りになる道だ、丁寧にやれ』って」
マルタは膝の上で、ペンダントを握りしめた。
「橋の板は」テオドールが静かに訊いた。「どのくらいの厚さを、気にしていた?」
「……太い男の人の、腕くらい。『これでは駄目だ、桁ごと組み直す』って。冬のうちに大工を寄越す、とも」
橋を、直す。荷馬車のためではない。荷馬車なら、今の橋で足りている。
桁ごと組み直さなければ渡れないもの――砲だ。それも、攻城砲級の。
「あたしたち、道直しのお駄賃までもらったんです。……自分の村を焼きに来る道を、直して」
しばらく、誰も何も言わなかった。
アルモナはただ、マルタの手を包んだ。証言の意味が分からないほど、彼女は世間知らずではない。井戸は兵の水。橋は砲の重さ。麦は軍馬の飼葉。
帝国は、数を数えていたのだ。
二万人分の。
帰り際、マルタがぽつりと言った。
「精霊様も、大公家の皆様も……もう、あたしたちを守ってはくださらないんですね」
アルモナの指が、一瞬だけ止まった。
「……守るわ」
声は、自分でも驚くほど静かに出た。
「守る者は、いなくなってなどいない。そう信じている」
それが誰のことなのか、マルタは訊かなかった。アルモナも、言わなかった。
救護院の外に出ると、冬の陽が白かった。
「……『守る』と、言い切ったな」
テオドールが言った。責める口調ではなかった。
「ええ」
「あの言葉は重いぞ。俺たちは軍人だから、守れなかった時のことをいつも考える」
「知ってる」
アルモナは前を向いたまま、少しだけ笑った。
「でもね、テオ。約束は、守れるから言うものじゃないと思うの。……言ってしまったから、守れるようになるのよ」
テオドールは何も返せなかった。
時々、この義姉には敵わないと思う。剣を持たない人間の強さというものが、この世にはあるのだ。
◇
テオドールが証言の写しを携えて向かった先は、ファルケンハイン商会本館の三階――北向きの一室だった。日当たりが悪い代わりに、人目も悪い。情報部門の部屋である。
壁一面の棚に、南方属州のあらゆる「紙」が眠っている。港の荷役記録、市場の相場表、駅逓の通行記録、酒場の噂話を書き留めた小さな帳面まで。
「――道の補修、井戸の計量、徴発の帳簿。いい証言ね。これで裏が取れた」
部屋の主、クラリッサ・ヴァルメンティアが書類を三枚、卓に並べた。元は帝都で働いていた、とだけ皆が知っている女性である。何の仕事をしていたのかは、誰も訊かない。訊いてはいけない気がするからである。
「一枚目。ヴェルダ川の渡し船が、先週から全て『帝国軍の借り上げ』になった。船頭には気前よく金貨払い。二枚目、モルゲンロート周辺の補給集積所は三箇所から五箇所に増えた。そして三枚目――これが決定打。南方の市場に、帝国の軍票が出回り始めた」
「軍票?」
「軍隊が物資を『買う』ときに渡す紙切れよ、テオドール坊ちゃん。後で帝国政府が金貨に換える建前の。……あの紙が刷られるのは、軍が動くときだけ」
「時期は」
「渡し船の借り上げ契約は『春まで』。つまり春までに、使い終わる予定ということ。それから――」
クラリッサは薄い新聞を放って寄越した。帝都の御用新聞、ル・ジュルナル・ヴァルニア。論説の見出しが躍っている。
――《南方平定の完遂近し。皇帝陛下の慈悲は、頑迷なる者どもには届かぬのか》
「世論の下ごしらえも始まってる。帝都の新聞が『慈悲』と書き始めたら、大抵その逆のことが起きる前触れよ」
レオンハルトが報告書の束を閉じ、モノクルの奥で目を細めた。
「結論。南方方面軍四個軍団、二万余――冬営の構えではない。南へ動く準備だ」
北。
この街の、方角である。
白髪交じりの副代表、マルク・エーベルトが、音もなく珈琲の杯を置いていった。
「戦の匂いがすると、豆の減りが早くていけませんな」
誰も笑わなかったが、全員が少しだけ息をついた。そういう役回りの人なのである。
◇
その日の午後、市庁舎の議場は平和だった。
絶望的なほどに、平和だった。
「――以上の情報から、帝国軍の北進準備は確実と判断します」
テオドールが報告を終えると、議場には失笑にも似たさざめきが広がった。
「ファルケンハインの若君は、勇ましいことだ」
口火を切ったのは、羊毛ギルドの代表である。
「だが我々には条約がある。この二十年、帝国軍は一兵たりとも市域に入っていない。入れないのだよ、法的に」
「集積所も渡し船も、属州内の帝国領での話だろう。自国の領内で軍が何をしようと、条約違反ではあるまい」
「むしろ問題は、守備軍とやらが偵察だなんだと外を騎行して、帝国を刺激しておることではないかね」
「そもそも」と銀行組合の代表が続いた。「戦争の噂は金利に障る。商都の議場で軽々しく口にする言葉ではありませんな」
「では、伺いますが」
テオドールは一歩、踏み出した。
「リヒテンフェルデ郊外で、この街の男たちが帝国軍と戦って死んだ。……あれは何だったと、お考えです」
議場が、わずかにざわめいた。
「私闘だよ」
羊毛ギルドの代表は、眉ひとつ動かさなかった。
「商会の傭兵と、血気に逸った志願者諸君の、痛ましい私闘だ。市は、いかなる軍事行動も承認しておらん。総督府の一件とやらも、帝国からの下手人引き渡し要求に、市は『証拠不十分』と回答済みだ。――そういうことに、なっている」
老獪な商人は、そこで初めてテオドールの目を見た。
「そして若君。そういうことにしておくのが、外交というものだよ」
議員たちの何人かが、深々と頷いた。傍聴席は、半分も埋まっていない。
二十年の平和というものは偉大である。人間から、想像力を奪えるほどに。
「発言を」
市長席から、ヴィルヘルムが立ち上がった。
「ギルド長の言う通りだ。あれは私闘であり、我々には条約がある。私も署名の場にいた。……血の匂いのする羊皮紙だった」
議場が、少しだけ静かになる。意外な援護に、羊毛ギルドの代表が瞬きをした。
「そして帝国も、同じ嘘をついている。彼らはあの戦を『属州の匪賊討伐』と呼ぶ。我々は『私闘』と呼ぶ。互いに嘘と知りながら、同じ嘘をつき続けている。なぜか。――双方とも、まだ次の戦争の支度ができていないからだ」
誰も、口を挟まなかった。
「諸君、嘘がつける間は、平和は続く。私とて、一日でも長くつき続けたい嘘だ。だが帝国はいま、道を直し、橋を桁ごと架け替え、軍票を刷り始めた。……あれは、嘘をやめる支度だよ」
ヴィルヘルムは、議場をゆっくりと見渡した。
「最後に一つだけ、思い出してもらいたい。あの条約は、我々が『守られた』から結ばれたのではない。我々が『守り切った』から結ばれたのだ。紙が我々を守るのではない。紙に効力を与え続けるものは、いつの時代も、城壁と――それを守る意志だよ」
拍手は、まばらだった。
議会は「継続審議」を決めた。あらゆる決断の中で、最も決断でないやつである。
散会後、廊下でひとりの老議員がヴィルヘルムを呼び止めた。二十年前、城壁の上で共に戦った世代の男である。
「ヴィル。……あれは、本気で来るのか」
「ああ」
「そうか」
老人は杖を握り直した。
「儂の孫は、十九になった」
それだけ言って、歩き去った。
楽観していない者ほど、静かなのである。
◇
その夜、ファルケンホーフの書斎には四人がいた。ヴィルヘルム、レオンハルト、テオドール、ライネル。卓上には、南方属州の地図が広げられている。
「議会はああだ。動かん」
ヴィルヘルムが言った。
「だが、私は市長である前にアードラスヴェーアの総帥でな。偵察を出す権限くらいは、まだ紙に書いてある」
「行けと?」
「明後日の夜明けに発て。ヴェルダ川の線まで。工兵の姿を確認したら、戦わずに戻れ」
「戦わずに、ね」ライネルが地図を覗き込んだ。「向こうが撃ってきたら?」
「撃たれる前に見つかるな、という意味だ」
「商会も商会で動く」とレオンハルト。「穀物と塩の備蓄を倍に。硝石と鉛は、帳簿の上では『鉱山向け資材』として今夜から買い増す。……戦争が始まってから買うと、高くつくのでね」
「兄上は戦争まで仕入れ値で考えるのか」
「仕入れ値を考えない戦争は負けるんだよ、テオドール」
ヴィルヘルムは地図の一点――モルゲンロートから北へ延びる街道を、太い指で叩いた。
「いいか、テオドール。絶対に、見つかるな」
「見つかれば?」
父は少しだけ黙り、それから静かに言った。
「――それが、開戦の口実になる」




