第3話
生き残った村人は、十七人だった。
焼け出された十七人と、荷馬車ひとつぶんの焦げた家財。それが「緑の野」と呼ばれた村の、帳簿の上の全てである。帳簿というものは、時々ひどく残酷な発明品だ。
夜明け前の街道を、五十騎の胸甲騎兵が南へ進んでいた。速歩を出さないのは荷馬車の生存者への配慮であり、誰も口を利かないのは配慮ではなく、単に言葉が見つからないからだった。
村を発つ前、生き残った者たちは焼け跡に十字架ではなく、若木の枝を立てた。エルヴァの古い礼式である。精霊は灰の中からでも芽を出す――そう信じられているからだ。
信じられている、という言い方しか、今のテオドールにはできなかったが。
「眠いか」
隣に馬を寄せて、ライネルが訊いた。
「眠くない」
「嘘をつけ。目の下が立派な隈だぞ」
「お前のそれは寝癖だろう」
「癖毛だ。生まれつきの」
実にくだらないやり取りである。だが夜通し死体を数えた男たちには、このくだらなさこそが薬になる。ライネル・ベリクという副官は、それを理屈ではなく肌で知っている類の男だった。だからテオドールは、この幼馴染に一生頭が上がらないのである。本人には死んでも言わないが。
手綱を握り直すと、右手の甲がわずかに疼いた。
昨夜、帝国軍士官の手首を斬り飛ばした感触が、まだそこに残っている。剣が肉を断つ、あの一瞬の軽さ。思い出しても、後悔はひとかけらも湧いてこなかった。
湧いてこないことが、少しだけ怖かった。
――怒りに任せて剣を振るう者は、いつか怒りに剣を振るわれる。
乗馬を教えてくれた老兵が、昔よくそう言っていた。当時は説教の一種だと思って聞き流していたが、近頃は夜明けのたびに思い出す。説教というものは、必要になった頃にはもう遅いのである。
朝日が稜線を越えたころ、前方に街が見えた。
自由都市アードラズベルク。
運河と跳ね橋の街。ガラス屋根の港湾市場が朝日を弾き、街路には消し忘れた精霊灯が青白くまたたいている。そして街の全体を抱くように、白亜の大城壁が横たわっていた。二十年前に帝国軍を撥ね返して以来、「破られたことのない城壁」と謳われる壁である。
市民はこの枕詞を心から愛している。酒場で三杯も飲めば、誰もが当時の防衛戦の英雄の、少なくとも孫弟子くらいにはなる。
「開門! アードラスヴェーア、テオドール隊、帰投する!」
アードラスヴェーア――「アードラズベルクの守り」。商会の傭兵団と志願の市民からなる、この街の守備軍の呼び名である。正規の軍ではない。少なくとも、帝国に対する建前の上では――まだ。
衛兵が誰何の口上を途中でやめた。荷馬車の中身に気づいたのだ。
跳ね橋の鎖が軋む。市壁の内側では朝市の支度が始まっていて、パンと魚と珈琲の匂いが混ざり合っていた。焼け焦げた一行が通りを進むと、呼び込みの声がひとつ、またひとつと止んでいく。
やがて、店先から駆け出してきた恰幅のいいパン屋の女将が、何も言わずに焼きたてのパンを荷馬車へ積み始めた。それを見た果物屋が林檎の籠を担いでくる。誰も号令などかけていない。
この街は、焼け出された者の扱いを知っている。二十年前、自分たちがそうだったからだ。
朝の街が、焼かれた村を静かに迎え入れた。
◇
避難民の受け入れ先は、港に近い旧倉庫を改装した救護院だった。
その入口に、栗色の髪の娘が立っていた。銀金の光をひとすじ混ぜたような髪に、紫の瞳。この街に、紫の瞳の娘は一人しかいない。
アルモナ。ファルケンハイン家の養女である。――表向きは、だが。
「お帰りなさい、テオ」
「ああ。……朝からすまない」
「謝る相手が違うでしょう」
アルモナは薄く笑い、それから荷馬車のほうへ向き直った。降りてくる村人の一人ひとりに歩み寄り、老婆の手を取り、子供の頬に触れ、何事かを囁いていく。囁くたび、彼女の胸元の精霊ペンダントが微かに光った――ように見えたのは、朝日の加減かもしれない。
かもしれない、ということにしておく。
救護院の中からは、子供たちの声がしていた。先に保護された戦災孤児たちに、アルモナは指先に小さな風の渦をつくる「精霊遊び」を教えている。風が鳴るたび、子供は泣くのを忘れる。大学図書館の司書が本業のはずだが、この街の困りごとは大抵、本業の外で起きるのである。
例の女性――モンフォールに攫われかけた彼女だけは、最後まで荷馬車を降りなかった。救護院の職員が近づくたび、軍服でもない相手にさえ、肩が跳ねる。
アルモナは職員を目で下がらせると、しばらくその傍らに座り、何も訊かず、ただ毛布を掛け直した。それから、自分の胸元の精霊ペンダントを外して、女性の掌にそっと握らせた。
名を訊くのは、今でなくていい。すべてを奪われた人から、最初に沈黙まで取り上げてはいけない。
「テオ」
呼ばれて、テオドールは我に返った。アルモナの視線は、彼の右の手甲に落ちていた。
乾いた血がこびりついている。自分のものではない。
「手当てはあとでいい、という顔ね」
「大した傷じゃない」
「知ってる。あなたのその嘘、聞き飽きるくらい聞いてきたもの」
二つ年上の義姉はそう言って笑い、それから不意に真顔になって、両手で彼の右手を包んだ。
温かい、と思った。
戦場の記憶は指先から染み込んでくる。そして、指先からそれを抜いてくれる誰かがいるうちは、人はもう一晩くらいは戦えてしまう。困ったことに、である。
「……行ってくる。報告がある」
「朝食は食堂に残してあるから。ライネルの分も」
「聞いたか。俺の分もだそうだ」
「お前は自分の家で食え」
◇
ファルケンホーフ――運河沿いに建つファルケンハイン家の屋敷の食堂には、すでに家長が座っていた。
ヴィルヘルム・フォン・ファルケンハイン。アードラズベルク市長にして、アードラスヴェーアの総帥。若い頃は「剣聖」とまで呼ばれた男だが、今の見た目は朝刊と珈琲を愛する白髪交じりの大男である。
あくまで、見た目は。
「よく帰った。まずは食え」
「報告が先です、父上」
「食いながら聞く。人間、腹が減ると物事を悲観しすぎていかん」
言われるまでもなく、ライネルはすでに席に着いてパンへ手を伸ばしていた。
「ベリクの倅は、今日も遠慮というものを知らんな」
「大将の家の飯が世界一なもので」
「世辞は食後に言え。値が下がる」
商人の家の食卓では、世辞にも相場があるのである。
その斜向かいで、細身の青年がモノクルの位置を直した。長男レオンハルト。ファルケンハイン商会の若き代表である。皿の代わりに書類の束を前に積んでいるあたり、彼にとっての主食が何であるかはよく分かる。
テオドールは、グリューネフェルトの件を手短に報告した。
ヴィルヘルムは黙って聞いた。軽口はひとつも挟まなかった。聞き終えて、ただ一言、
「埋葬は」
「済ませました。村の礼式で」
「よろしい」
それだけで、この父子には足りるのである。
「では、こちらの報告だ」
レオンハルトが書類を一枚、卓上を滑らせた。
「ジャン=リシュアン・ド・ドゥラクロワ元帥、正式にモルゲンロート城へ入った。南方方面軍四個軍団、総勢二万余。――それと着任早々、元帥殿は面白い布告を出している」
「面白い?」
「全軍に対し、捕虜の虐待と民間人への略奪を厳禁。違反者は階級を問わず軍法会議にかける、と。実際、初日から本当に一人処刑した」
「……グリューネフェルトの?」
「モンフォールという中尉だ。ただし勘違いするな。罪状は『虚偽報告』。村を焼いた罪では、裁かれていない」
食卓に沈黙が落ちた。窓の外では市場の呼び込みが始まっている。平和な喧噪が、かえって耳に痛い。
「良識のある敵、というわけですか」
テオドールが言うと、ライネルが唸った。
「最悪だな。暴君なら憎めば済む。良識のある敵ってのは、憎ませてもくれない」
「加えて、これだ」
レオンハルトはもう一枚を滑らせた。
「南方方面軍の輜重部隊が、街道沿いに補給集積所を三箇所、設営し始めた。位置はいずれも、モルゲンロートの南側――つまり、こちら側だ」
「防衛の布陣ではないな」
ヴィルヘルムが静かに言った。
「あれは、これから出てくる軍の腹ごしらえだ」
「待ってくれ」ライネルが手を挙げた。「この街には条約があるだろう。帝国軍は駐留どころか、市域に入ることもできないはずだ」
「ああ、立派な条約だ。二十年前に血で贖った、羊皮紙の盾だな」
レオンハルトの声は、氷のように平坦だった。
「だが覚えておけ。紙というものは、火に弱い」
「目標はどこです。リヒテンフェルデの残党狩りか、それとも精霊村の焼き直しか」
「さて、な」
ヴィルヘルムは読み終えた新聞を畳み、ぽんと卓に放った。一面の見出しは市議会の予算審議がどうとかいう、実に平和な代物である。新聞というものは、いつだって世界より半歩遅れているのだ。
「――あるいは、この街か」
誰も、すぐには返事をしなかった。
レオンハルトがモノクルを外し、珍しく、書類ではなく窓の外を見た。
「商会は今月から鍛冶部門を三交代に切り替える。新式銃の増産前倒しだ。……嫌な予感ほど、よく当たるのでね」
テオドールは卓の下で、静かに拳を握った。指先には、まだ朝の温もりが残っている。
窓の外では、破られたことのない城壁が、今日も自慢げに朝日を浴びていた。
その白い壁が本当に試される日は――もう、そう遠くないのかもしれなかった。




